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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第七章:天満月の影
20/25

仮初

 宵の一門として叢雲寺の門をくぐったとき、私はまだ“音”というものの輪郭の中にいた。

 それが“生”という名で呼ばれることを、そのときの私は、まだ知らなかった。


 堂内では清らかな水音が響き、信楽様が穏やかな声で労わってくださった。

「良治先生は、捨身の行を果たされたのです。ですが、幼き貴方にはあまりにも重い苦だったでしょう。

 今は、この寺の静寂と宵の風に身を委ね、癒されなさい」


 その言葉は、父を喪った胸の奥に、微かな灯のように染み込んだ。

 涙は出なかった。けれど、紅葉に落ちる光が、どこか懐かしい祈りの残響のように見えた。


 剃髪を終え、僧衣に包まれた私は庭に出た。

 夕陽が沈み、夜の気配が寺を包みはじめていた。

 桜の下で、月を見上げていた少年が振り返った。

 その木はもう花を落としていたが、枝の影だけが、春の名残を揺らしていた。


「僕は……螢雪というんだ」

 名を口にする声が、風のように柔らかかった。

「昨日、一門に縁を結んだばかりで……」


 私は名乗った。「良宵」――その音を自分で言うたび、どこか、身体が軋むように痛んだ。

 螢雪は小さく笑った。

「良い名だね。夜の光だ」

 その言葉は、救いのようで、呪いのようでもあった。


 螢雪の瞳には、星のような光が宿っていた。

 けれど、その奥には、言葉にできぬ深い影が潜んでいた。

 私はその光と影のあわいに、息を呑んだ。


「良宵、君は何歳?」

「五つ。十五夜に生まれた」

「僕は新月。君の方が兄さんだね」

「そうかもしれない」

「でも、一門に入ったのは僕が先。なら僕が兄弟子だ」


 その笑い声のあとに訪れた沈黙――

 その底に、祈りの毒が滲みはじめていたことを、私はまだ知らなかった。


「――良宵……僕が君の兄になるよ」

 月は満ちても影を抱く。――その影に、灯が生まれた。

 螢雪の声は、風に揺れる木の葉のように柔らかく、夜の静寂に滲んだ。

 その笑みの奥に、かすかな痛みがあった。

 私はそれを見て、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけ冷たくなった。

 その温度の差の中で、初めて“良宵”という名が、静かに息をした。


 光の名も、祈りの形も、まだ知らない。

 けれど、螢雪の光が呼び覚ますものの中に、何かが微かに芽生えた。

 灯は、小さくとも確かに在った。名を与えられたばかりの私の内で。


 * * *

 雲母坂に建つ叢雲寺は、京の鬼門に位置していた。

 霧が絶えず流れ、結界の内と外を曖昧にする山。

 螢雪と共に、祈りと修行の日々が続いた。


 比叡の阿闍梨は、かつて教えた。

「魔に情けを向けるな。祈りは境を清めるものであって、抱くものではない」と。

 けれど私は、その教えに従いきれなかった。

 比叡の山路で見た童鬼の怯えた瞳が、離れなかったからだ。

 あの目は、祓われることよりも、見つけてもらえないことを恐れていた。


 二年後の夏。七つになった私と螢雪は、森で薪を集めていた。

 陽が傾き、宵の風が雲母坂を包んでいく。

 そのとき、朽ちた祠の陰から、冷たい匂いが滲み出た。

 小さな影――童鬼だった。

 苔に沈む石を撫でながら、怯えた瞳でこちらを見ていた。

 螢雪の手が護符に伸びた。私はその手を包み、首を振った。

「怖がらなくていい」

 声が、境の縁を撫でるように森へ溶けた。


 童鬼の目から、一筋の涙がこぼれた。

 星の光に濡れ、苔の間で静かに消えた。

 私はその涙を見て、父の死を思い出した。

 ――あの時も、風が吹いていた。

 誰も、父の名を呼ばなかった。

 だから、今度は私が呼ぶ。

 私は童鬼をそっと抱きとめた。

 掌が触れた瞬間、確かに、祈りが形を持った。

 その祈りとは、誰かを救う光であるはずだった。

 けれど、光が光を映すとき、片方は形を失う。

 その揺らぎの中で、螢雪の輝きが、何かに隠されたように見えた。

 静かに、世界のどこかで軋みが生まれていた。

 だが、そのときの私は、まだ知らなかった。


 星が瞬いた。

 童鬼の姿は、数珠の光の中で静かに霧散していった。

 風が通り抜けた。

 祈りの余韻だけが、静かに残った。


 私は螢雪を振り返った。 彼は笑わなかった。

 月は満ちていたが、影は動かなかった。

 その夜、抱いた分だけ、指先が熱を帯びた。

 熱は届いた証のようで、同じだけ、相手を遠ざける気がした。

 その熱に、もし名をつけるなら――

 それはきっと、慈悲と呼ばれるものだった。

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