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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第四章:屍と鏡
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浅き夢を離れ、赦すことさえ、赦されん

「あさきゆめみしよひもせず――」


 奥山。ひときわ冷える苔むした岩の上に、巫の篠は膝をついていた。

 岩の下に白骨。無言のまま、篠の言葉に耳を傾けているようにも見えた。

 風は息をひそめ、灯籠の灯がかすかに震える。語りの声と屍の静寂が、ひとつの呼吸を分け合っているようでもあった。

「泣いているのですね、山伏さま」

 篠の声だけが、夜の湿りを撫でていた。灯籠の影が揺れ、山伏の頬を淡く照らす。

 その瞳に映る光が、篠の白衣の裾を青く染めた。

「教えてください。あなたは、なぜ……涙を流されるのですか?」

 山伏はゆっくりと顔を伏せ、風にさらわれるほどの細い声で囁いた。

「哀れに堪えぬ。朋友と再会するために、死を忘れた。何度も、何度も、友を求めて彷徨った」

 篠はその言葉の奥に潜む痛みを、静かに見定めるような微笑で受け止めた。

 指先がそっと頬を撫でる。淡く光を帯びたその手が、頬を濡らしたものを拾う。

「あなたは……お優しいのですね」

 遠くで山鳥が一声鳴いた。その声は、山の底で眠る魂の嘆きのようだった。

 山伏は首を振った。肩がこわばり、沈黙がふたりのあいだに落ちる。

「優しくなどあろうものか。この涙も結局は、己のひ弱さからこぼれたものだ。

 私は脆く、未熟で――修行者としても足りぬ者。そんなことは、私が誰よりも知っている……」

 その言葉の終わりに、細い嗚咽が滲んだ。篠は静かにその濡れを見つめ、小さく息を吐いて夜を仰いだ。

「篠は……涙を知りません。澪姉さまがお亡くなりになられた時でさえ、悲しむことはできなかったのです……」

 声はほとんど風に溶け、夜の闇に消えていった。

「……頬を濡らせるのは、慈しみの証なのです。

 己への厳しさも、優しさも――それらの一切は、内なる神。

 あなた自身が、あなたに与えたものなのです。

 だから、どれほど他者が歩み寄ろうとも、あなたの苦しみは、あなたにしかわからぬものなのです……」

 篠の言葉は、夜を渡る星屑のように静かに落ちた。

 吐息のあとに訪れる沈黙が、彼女の祈りそのもののように見えた。

「篠の言葉は、山伏さまを通り過ぎてしまいますね……」

 その声に呼応するように、杉の葉がささやいた。まるで森が祈りに頷くようだった。

 山伏の瞳が揺れる。篠の慈悲の深さに、胸の奥で波紋が広がった。

 頬に触れた指先の温もりが、言葉よりも先に、静かな感情を注いでいく。

「貴殿はなぜ、私を理解しようとされるのだ?

 あなたは巫。行者の私のことなど……放っておいても、よかろうに」

 風がひとすじ、ふたりの間を抜けた。篠はくすりと笑い、細く目を伏せる。

 その笑みは、山の奥に咲く花のように儚く、けれど確かな光を宿していた。

「あらあら、ほんとう……何故でございましょうね。考えたこともありませんでした。

 ――篠は、山伏さまをお慕いしているのかもしれません」

 山伏の息が止まった。頬が熱を帯び、言葉が絡まる。

 手が宙をさまよい、苔の上で膝をずらした。

「我等は……神仏に仕える身なれば……!」

「想いを寄すことも、咎となりましょうか。

 たとえその想いが、祈りのかたちをしていたとしても――

 それでも、罪と呼ばれるのでしょうか」

 篠はかすかに首を傾げた。その仕草が波紋のように夜気に溶ける。

「篠殿を慕う心は、確かに私の胸にもある。……が、それは俗なる欲にあらず。

 仏道に寄り添う者としての、静かな敬慕であって……!」

 篠は瞳を閉じた。光が頬に触れ、微笑が浮かぶ。

 それは安堵と慈悲が溶け合うような、淡い光だった。

「やっと、我が内なる神を理解することが叶ったような気がいたします」

 月の光を返していた鏡は、彼女の頬を濡らしたものを受けたとたん、外の光を拒むように曇った。

 その曇りの奥に、かすかな影が映った。それが誰のものかを知っていた。けれど――名を呼ばなかった。

 篠は、鏡を胸に抱き、目を閉じた。光は沈み、夜だけが、彼女を照らした。

 次の瞬間、鏡の奥に淡い光が自ずと灯った。

 それは外の月ではなく、篠自身の内に生まれた微かな灯――己の神の目覚めだった。

 彼女の瞳が、まっすぐ山伏を捉える。


「篠が、あなたを魅入ったのです。だから……ここにいたのです」


 篠の瞳に涙が滲んでいる。山伏は戸惑いながら、その頬に手を伸ばしかけた。

 拭いたいと思った。けれど、その動きの中で夜が沈み、鳥の声が遠くで鳴いた。


「篠は、篠の意思であなたに寄り添うことを決めたのです。

 たとえ――彼の岸から戻れなくなったとしても」


 月光が白衣を撫で、露のように滑り落ちた。

 夜は、祈りの形をした沈黙となり、ふたりを包んだ。


 ……その沈黙の奥で、なにかが息をしている。

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