悲しみの山を越え、慈悲の道を渡る
御廟の霧を背に、良宵と螢雪は奥の院の参道を歩いていた。
螢雪が一歩を踏み出すたび、背後の道は、音もなく霧に包まれていく。
それは足跡までも呑み込み、歩んできた記憶そのものが、御廟の沈黙に還っていくようだった。
灯籠の灯はふたりを包み、影をひとつだけ生んでいた。
それがどちらのものか、夜もまた知らぬように、黙して在った。
螢雪は無意識に振り返り、闇の奥に目を凝らした。
だが、そこには何もいなかった。
風はなく、夜は静かに呼吸している。
灯籠の光が、何かを確かめるように石畳を撫でた。
螢雪は息をつき、気配を振り払うようにして、再び前を向いた。
遠くに、黒袈裟の裾がわずかに揺れていた。
慌ててその背を追うが、歩みを進めるほどに、距離はなぜか遠のいていく。
――良宵の歩みが早いのか。それとも、この身の歩みだけが、明けぬ地平を往いているのか。
それは、螢雪にも分からなかった。
石の静けさが途切れぬまま、ふたりは金剛峰寺の境内へと歩みを移した。
灯籠の油は細く、杉の呼吸は深い。
良宵の黒袈裟は風を孕まず、掌の数珠だけが沈黙を撫でていた。
螢雪はその背を追いながら、胸の内にかすかな弾みを覚えていた。
――かつて、良宵を追う己を戒めたことも忘れて。
彼はいま、この背を見つめるひとときを、奇跡のように尊く感じていた。
そのとき、境内の片隅で、風に紛れるような笑い声が弾けた。
螢雪は思わず顔を上げる。
毬が弧を描き、夜の冷たさの上に、ひとつの紅い輪を残した。
童らは影を軽々と跳び越え、声にならぬ笑みで螢雪へ手を振っていた。
「はは、こんな夜更けに……しかし、なんと愛らしい童らよ」
螢雪は笑みを浮かべ、良宵を振り返ろうとして――背が、すでに止まっていた。
その瞬間、歩みの気配だけが、夜に溶けた。
夜が歩みを止めたのか。
それとも、自分だけが、その静けさに取り残されていたのか。
……その答えを知る者は、もうどこにもいなかった。
良宵は俯き、浅い呼吸をひとつ、またひとつ重ねていた。
風もなく、灯籠の火も揺れぬまま――ただ、彼の肩のあたりだけが、静かに息づいて見えた。
螢雪は首を傾げた。
童らは相変わらず笑い、毬を追って宙を駆けていた。
その声は、夢の底から漏れる微かな記憶のように、夜気を揺らした。
「良宵、あれはどこの子なのだ? 僧童というわけでもなかろう?」
螢雪の声は柔らかく、少しの懐かしさを帯びていた。
だが、良宵は答えなかった。
背を向けたまま、空を仰いだ。
その沈黙は、言葉よりも長く、時間よりも深かった。
握られた拳がわずかに震え、衣の裾がほとんど見えぬ風に触れた。
それが、螢雪には理解できなかった。
胸の奥で、何かが静かに欠けている――そう感じた。
名を呼ぼうとした瞬間、靄が記憶の輪郭をさらっていく。
そこに触れることを、世界そのものが拒んでいるようだった。
やがて良宵は、ゆるやかに歩みを再び進めた。
童らの横を通り過ぎると、灯籠の火がふっと揺れ、石畳の上に、ひとつの影だけが静かに残った。
螢雪は、その光景に息を呑んだ。
良宵が童に目もくれず通り過ぎるなど、見たことがなかった。
叢雲寺で過ごした日々――
あの頃の良宵は、山門に迷い込んだ子に飴玉を渡し、死霊にさえも、祈りのような眼差しを注ぐ人だった。
その温もりを、螢雪は誰よりも知っている。
だからこそ、いま目の前にある沈黙が、あまりに異様だった。
まるで、慈悲そのものが言葉を忘れたかのように、夜が静まっていた。
静寂は、呼吸のように往き、還り、世界を包み直していく。
その静けさを破るように、螢雪は声を張った。
「おいおい、冷たいではないか、良宵。いつもなら笑顔で返すお前が、修行中でも手くらい振ってやればいいだろう?」
良宵は一歩を止めた。背を向けたまま、夜の深みに声を落とした。
残響を、霧がひとつ、飲み込む。
しばしの間、何も起こらなかった。
「――その童らは、死霊だ」
胸の奥で、風のような冷たさが走った……静かに。
それは恐怖ではなかった。
光が皮膚の裏で、何かが“かすかに鳴った”気がした。
喜びとも痛みともつかぬ、透明な衝動だった。
――視えたのだ。
螢雪は思わず手を胸に当てた。
ついに、己にも霊命の光が宿ったのだと信じた。
「やったぞ、良宵! 力が湧いたのだ! 私にも――!
信楽様やお前のような、神秘の霊命の力が!」
螢雪は良宵に駆け寄り、前へ回り込んでその顔を見つめた。
だが、良宵の瞳には涙が滲んでいた。
その視線は螢雪を通り抜け、遠く夜の果てを虚ろに見つめていた。
「良宵……なぜ泣いている?」
その問いは夜気に溶けた。
声の形を持つ前に、消えた。
良宵の頬を伝ったものは、光のようで、光ではなかった。
それは夜の呼吸に混じり、名を持たぬまま、消えた。
「……霊命力とは、ある日突然湧いて生じるものではない。いつから、死霊が視えるようになったのだ……?」
良宵の肩が、微かに揺れた。
それは風ではなく、祈りの重さのように見えた。
「教えてくれ、良宵。なぜ……お前は涙を流すのだ?」
螢雪は震える声で問うた。
しかし良宵は何も答えず、手で顔を覆った。
嗚咽が短く洩れ、夜の沈黙がその音を包み込む。
「良宵……お前を泣かせているのは、俺なのか? 答えてくれ、良宵……」
声が途切れた。
その途切れが、夜の静けさよりも深かった。
良宵の頬を伝った雫が、宙に浮かんだ。
光を纏ったまま、音もなく霧に還っていった。
螢雪は、その消えゆく気配を追った。
それは、かつて誰かの手の温もりに似ていた。
月光が、螢雪の手の中の数珠を照らした。
血に濡れた珠が銀糸のように揺れ、微かに震えている。
靄が意識の輪郭を撫でた。
遠い過去か、まだ見ぬ未来か――その区別さえ、もう曖昧だった。
世界と彼の境が、静かに解けていく。
『うゐのおくやま けふこえて――』
声は、誰の喉からでもなく、夜の呼吸そのものが紡いでいた。
螢雪の胸が、あたたかく満たされていく。
それは誰かの祈りだった。
名を呼ぶこともなく、ただひとつ、その魂を包む祈り。
風が杉を撫で、枝の影が揺れた。
御廟の屋根影は霧の内に沈み、門はただ、名を呼ぶことをやめていた。
遠い山の方角から、錫杖の澄んだ音が一打、風に乗って渡ってきた。
白い衣の裾が夜風に揺れた。
霧の中で、ほのかな光が咲き、やがて静かに消えていった。
……消えたあと、夜が何かを語ろうとしていた。




