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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第四章:屍と鏡
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世は夢のあわい、常なくして声ぞ在り

 ――光は咲きて闇に溶け、命は香と化す。

 ――世は夢のあわい、常なくして声ぞ在り。


 (うた)は、風に聞こえず、夜に聞こえた。

 それは、彼が夜ごと胸に宿してきた詠であった。

 経を上げることなく、ただ胸の奥にその言葉を刻む。

 名を呼ばず、ただ名の“気配”だけを呼び起こすための、静かな祈り。

 慈悲はときに力ではなく、言葉にならぬ詠として灯る――

 けれど詠は、まだ誰かのために燃えていた。


 声は、音より儚く、記憶より確かに、霧の底でそっと芽吹く。

 夜の表に、ひとつの灯が滲み出るようだった。


 * * *

 高野山の奥の院。深夜の参道を、淡い光がわずかに洗っていた。

 灯籠の油は細く燃え、濡れた石畳が黒い杉間に散る微かな輝きを返す。


 御廟橋(ごびょうばし)は、ただ在った。

 渡る者を待たず、渡らぬ者を責めず、霧の中で――線だけが残った。

 その線の静けさを護るように、また護られるように――龍華良宵は佇んでいた。

 黒袈裟の襞を整え、数珠を握り、息は浅くも深くもなく、ただ夜の律に合わせて往還している。

 その姿は、光の中心に溶け込み、塵ひとつ動かぬ静けさの核であった。

 そのとき、夜の面から薄皮が一枚はがれるように、声が生まれた。


「……りょうしょう……」

 音と呼ぶには脆く、風の記憶というにはあまりに確かで、霧の縁でほどけずに残る響き。

 良宵が見据えた先、白い壁のような靄の向こうに、人影が滲み出た。

 螢雪であった。

 白装束は血に濡れ、乾ききらぬ紅は夜気の冷たさに黒ずみ、裂けた裾は草の露を拾い続けていた。

 片足はわずかに引きずられ、歩むたび衣の内側で骨の軋む気配が、石畳の目地へ沈んでいく。

 乱れた息はすでに温度を失い、それでも胸は、生の律をなぞるように、静かに上下していた。

 目は灼けるように潤み、焦がれるものの名を、ただひとつだけ覚えていた。

 良宵は数珠を胸の前に上げた。掌の内で珠が微かに触れ合い、濡れた木の香がひと筋、夜気に溶ける。

 視線は螢雪に留まり、まぶたの奥で、言葉にならぬ何かが静かに沈んでいった。

 良宵は語らなかった。語られぬものが、語られぬままであるように。

 螢雪が、良宵へと近づいた。

 霧の内側に足を入れるたび、彼の輪郭は揺らぎ、また凝る。

 執着の影はなお消えず、かえってそれが微かな灯の形をなして、彼自身の周りに褪せた光の縁を作っていた。

「おお、良宵。この私を見てくれ……信楽様に背き、叢海様の恩を仇で返すように寺を出て、行く先も分からぬまま歩き続けた。

結局、頭に浮かんだのは、お前だけだった。その一念で高野山を目指したのだ。だが、山を歩く中で足を捻り、崖から落ちた。更には熊に襲われて、この様だ。情けないよ、良宵。だが、どうしてももう一度、お前に会いたかったのだ。嗚呼、目の前のお前が、こんなにも懐かしい……」

 螢雪の言の葉は、風に乗って杉の陰に滲み、すぐに夜の底へ沈んだ。

 良宵は、やはり答えなかった。

 だが、強く握った数珠の指先が、ほんのわずかにゆるみ、また強まった。

 玉の一つが爪に当たり、乾いた小さな音を立てる。

 良宵はその響きを聞き終えてから、そっと視線を落とし、また上げる。

 それが、迷いの音だった。

 螢雪は息を搾るように笑った。

 乾いた笑いは、叢雲寺の縁側の冗談のかすかな残り香を連れてきて、すぐに霧にほどける。

「なぁ、良宵……駄目な兄弟子だが、こんな俺でも……お前と共に修行ができると思うか?」


 夜が、一瞬、息を潜めた。

 灯籠の火が小さく踊り、杉の影が石の上で淡く揺れた。

 良宵は瞼を伏せた。

 伏せた長さは、ひと呼吸よりも短く、しかし一つの季節よりも長いように見えた。

 数珠を撫でる指が、迷いと呼べないほどの躊躇を、表面だけ掠める。

 良宵は手を下ろさず、螢雪の肩にそっと触れた。

 その動きは、誰かの痛みをそのままの温度で受け取る者の触れ方――語りの前に、祈りのように置かれた沈黙だった。


 良宵の瞳が、螢雪の瞳を捉えた。

 そして、深く微笑んだ。

 螢雪の目に、音のない涙が満ちた。

 雫は夜風に撓み、霧に紛れて落ちていく。

 この笑顔に会いたかったのだと、螢雪は強く意識した。

「あぁ、良宵……我が同門の兄弟よ。俺達はまた、共に修行ができるのだ……あの頃のように……」

 良宵の指は、触れられぬものを触れるように止まっていた。

 息は乱れず、歓喜する螢雪を、静かに見据えている。

 螢雪の言葉に、良宵は頷かない。

 否とも言わない。

 ただ、手は離さなかった。


 ここは境であった。


 彼岸と此岸のあわい。

 祈りは、まだ名を持たない。

 良宵はそれを知って立ち、螢雪はそれを知らずに立っていた。

 だが、知らぬという事実そのものが、彼をここに留めていた。

 なれば、沈黙は、ここでは赦しにも咎にも似ている。

 まだ名のない方角へ、螢雪の足を向けさせてしまう力を帯びているのだから。


 遠く、童の笑い声にも似た気配がふっと風に乗って過ぎ、誰の足跡も残らない石畳の上に、さざ波のような影が走っては消えた。

 霧がふたりの間を滑り、灯籠の光は闇の肌を、薄く洗った。

 杉の梢は気配だけを鳴らし、奥の院は再び静けさを取り戻す。

 御廟の屋根影は霧の内に沈み、門は今宵、名を呼ぶ気配を見せなかった。

 語りの灯は、まだこの地に届いていなかった。

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