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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第四章:屍と鏡
13/28

光は咲きて闇に溶け、命は香と化す

「――いろはにほへと、ちりぬるを……」

 その声を、山が聞いた。

 巫の篠の声が、奥山の夜に柔らかく溶けた。

 谷を渡るその声は、枯れた木々の枝をそっと撫で、風も滝の音も絶えた山深くに、静寂の帳をおろしていく。

 血の温もりはすでに大地に融け、命の香だけが、風の記憶として奥山を彷徨っていた。


 月は雲に隠れ、光は闇に融ける。

 その合間からわずかに差す淡い光が、篠の白衣の裾を照らしていた。

 夜露が上布を濡らし、絹のような白が闇の中で静かに息づく。

 その静けさの中で、巫の篠は屍の傍らに身を屈めた。

 白骨と化した身は、風と霧の歳月を帯び、血に濡れた法衣は色を脱いでいる。

 その脇に置かれた短刀の刃は錆び、光を映さぬまま眠っていた。

 篠の胸元で、面丸鏡が月の淡い光を受け、ほのかに光を返した。

 篠の瞳が、白骨に触れた指先のわずかな感触に揺れた。

 それは祈りではなく、語りでもなく――

 ただ、命の残響を見守る者の沈黙だった。

 傍らで佇む山伏は、黙したままその光景を見つめていた。

 まるで神聖な儀式を垣間見るようで、己の影がそこに在ることさえ憚られた。


 篠はゆるやかに夜を仰ぐ。

 その瞳は虚空を越え、魂の記録を詠むように静かに瞬いていた。

 恐怖と飢えを越えた孤高の旅路が、淡い光となって篠の胸に流れ込む。

 篠は口許に微笑を携え、そっと瞼を閉じた。

 ……その沈黙を見つめる山伏は、ひとつの違和感を覚えた。


 篠の命語りの間に、かつてより長い“黙”が生まれている――そんな気がしたのだ。

 その沈黙を、夜もまた聴いていた。

 山伏は一歩進み、篠の横に立ち、屍を見下ろして目を細めた。

「……私と同じ修験の行者か。修行半ばで命を落としたのだな」

 その声は屍にではなく、篠に向けられていた。

 篠は目を閉じたまま、静かに言葉を紡ぐ。

「この方は俗世を離れ、仏となるため苦行に身を委ねたお方です。恐怖を超え、飢えを越え、夜を渡り――ここへ辿り着かれたのでしょう」

 篠の声が月光に融け、屍を撫でる風がそっと吹き抜けた。

 山伏は錫杖を掲げ、光なき命へ静かな祈りを置いた。

「篠殿の目には、魂の旅路すら映るのか……」

 山伏の呟きが、夜の底に静かに沈んでいく。

 篠の瞳が、雲間に覗く欠けた月を映し、虚空の奥を見つめていた。

 そこには、命の巡りを断ち切られた若者の影が、なお光を求めて彷徨っていた。

 彼女の唇が微かに動き、言葉にならぬ祈りが、霧のように零れた。

「……無数に漂う意識の中から、魂の記憶を詠みとるのです。巫は神懸かりに入るため、己の識を生と死の狭間に置きます。澪姉さまもそうでした……魂の記憶を詠むため、その識を狭間にとどめ、そのまま――()(きし)から戻れなくなってしまわれたのです」

 篠の声が夜に溶けた。

 風がそよぐたび、澪の記憶が静かに甦る。

 その声は、かつて夜を撫でた冷やかな囁き。

 篠の胸の奥で、姉の言葉が霧に滲む星のように瞬く。

『我々もまた、俗世には理解されぬ孤高の存在。篠、よく聞きなさい。巫は、生と死の狭間に識を置き、ある時は御霊に寄り添い、ある時は魔を祓い、すべての御霊が静かに還れるよう祈り続けるのです。彷徨える御霊と邂逅した時、慈しみをもって、何度も何度もそっと語り続けなさい。そして教えてあげるのです――あなたはもう、此の岸の者ではないのだと』


 篠は息を整え、白骨に視線を戻した。

 澪の言葉を重ねるように、淡く呟く。


「――あなたはもう、終焉を迎えたのだと」

 篠は白骨を見つめたまま、吐息のように言葉を零した。

「……篠が巫として初めて、それを教えた相手は、澪姉さまでした……」

 山伏は息を呑んだ。

 その音を、風がすぐにさらっていく。

 月光が篠の横顔に滑り、命と死を超えた静寂が宿っていた。

 その光景に、山伏の胸が微かに騒めいた。


 ――篠殿……その沈黙の深さは、まるで彼の岸を覗いているように思える。

 ……いや、貴殿はすでに、そこに触れておられるのかもしれぬ――


 そう感じた瞬間、山伏の胸の奥に冷たい痛みが走った。

 彼女が語った姉と同じ運命を辿る――そんな予感が、ひそやかに心を掠めたのだ。

「……霊験あらたかな巫でさえ、己が死したことは、わからぬのだな」

 その囁きに、篠はうっすらと目を開けた。

 前を向いたまま、目だけをゆるやかに山伏へ向ける。

 その眼差しには、語られぬ知が宿っていた。


 風が一筋、篠の淡く透る髪を揺らした。

 月光がその輪郭を冷たく縁取り、唇に浮かんだ微笑は、慈悲と恐れのあわいに咲く花のようだった。

「あら……それは巫に限ったことではありませんよ。己のこととなれば、思いのほか見えぬものなのです――この方と同じように……」

 篠の視線は、山伏の背に揺れる霊影を貫くように伸びてゆく。その霊はまだ薄く、風にほつれた命の記憶が、山伏の歩みのあとに尾を引いた。

 篠だけが、その魂の在りようを知っていたのかもしれない。

「あなたも孤高に身を置くお人でございます、山伏さま……」

 篠の声が風を撫で、夜の樹々が微かに揺れた。

 それは、誰の祈りとも知れぬ響きだった。

「なぜ……あなたはこの路を選ばれたのでしょうか。孤の道を歩むと決められた、その時の心は――どこにあったのですか。この地に辿り着かれたのは、誰かの声に導かれたのですか。それとも、風のように、そっと背を押したのは……言葉にならぬ痛み、だったのでしょうか」

 彼女の瞳には、遠く彼岸の灯が静かに映っていた。

 まるで生命の狭間に識を置く者が宿す、“見えてはならぬもの”を見定めるように。

 山伏の胸の奥に、名も知らぬ波紋が広がった。

 戸惑いとも記憶ともつかぬ揺れの中で、その波紋の欠片に手を伸ばす。

 言葉が、記憶を辿るように零れた。

「……何ゆえだろう。この不可思議な感覚は。我らは出会って間もないはず。だが――私は貴女を、どこかで見た気がする。それが過ぎし世の記憶であったのか、いまだ訪れぬ未来の影であったのか……それすら、定かではないのだが……」

 月光が雲間から差し、篠の白衣が淡く光を返す。

 その一瞬、山伏の胸の奥に、名もなき感覚が過った。

 それは“見た”というよりも、心の底に触れた何か――

 水の匂いが鼻を掠め、祈りの息づかいが耳の奥に残る。

 冷たい風が頬を撫で、胸の奥にわずかな痛みが広がった。

 触れた瞬間、それは霧のように消え、何も残らなかった。

「……私はいつ、どこで、貴女と邂逅したのだろう?」

 その瞬間、篠の微笑が冷たく澄んだ。

 月光に揺れる白衣の裾が、夜風を孕んで静かに翻る。

 篠の周囲に、季節外れの螢の光が霧を縫うように漂い出した。

 それは霊たちが“記憶の入り口”を示すように瞬き、夜の静寂に淡く浮かんだ。

「そうですね……では、そこに辿り着くまで続けましょうか――」

 その声は、“聞こえていなかったはずの祈り”をそっと開くようだった。

「この死した行者さまの、記憶をなぞって――命語りを……」

 霧が白骨の上を渡り、滝の残響が遠くへ薄れていく。

 月は欠け、雲に沈んでいた。

 光は、闇の底へとゆるやかに融けていった。

 けれども、篠の唇から零れた命語りが、月の不在を補うように、星屑のような灯をひとつ、またひとつ、夜に咲かせていった。

 その灯は祈りのように淡く瞬き、胸の前で揺れていた鏡が、月の名残を掬うように微かに光った。

 闇の底で、誰かの名を呼ぶように――静かに、揺れはじめていた。

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