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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第三章:追光の山路
12/26

 風が止み、森が息を潜めた。

 その沈黙の向こうに、まだ名を知らぬ光が在る気がした。

 そして俺は、その光の呼ぶ方へ歩みを進めた。それが祈りなのか、滅びなのかも知らぬまま。

 宝永六年――冬の尾が消え、春の霞が山を包む頃、熊野霊山の麓へ辿り着いた。

 雪解けの水が滝を満たし、雲が谷を渡る。鳥の声も絶えず、風の音さえ祈りのように聞こえた。

 そこには、生と死の境を曖昧にする静けさがあった。


 熊野霊山――その名を戴きながら、熊野三山とは異なる、神々が人に姿を見せぬ霊峰であった。

 滝は絶えず音を立て、霧は谷を包み、夜ごと星々が岩肌を照らした。その光が苔に反射し、まるで山そのものが息づいているように見えた。

 祈りを捧げる者の姿が絶えても、石は経を覚えており、風は名もなき行者の声を運ぶ。

 だがその静寂の奥には、人の祈りでは届かぬ何かが潜んでいた。

 古よりこの山を踏む者は、得難い霊験を得るという。

 熊野霊山に連なる白蓮山(びゃくれんざん)は、太古より禁足地とされ、聖と禁が交わる地――神仏の境を越えた者だけが、足を踏み入れることを許されると伝えられてきた。

 その地に入った者は、ただ一人――

 最澄上人・空海上人と同じ時代に、名も記録もほとんど残さぬひとりの行者。

 のちに白空(はくう)上人(しょうにん)と呼ばれるその人の歩みは、どこにも記されていない。

 熊野霊山は、神代より禁忌の儀が行われてきた()()にあって、白蓮山だけは穢れを寄せぬ地と語り継がれている。

 その浄性の理由を問う者は少ない。だが、白空上人という名だけが、静かにその答えとなっているように思われた。

 ――白空上人の祈りは、記されずとも、今もなお白蓮山に在り続けているのかもしれない。 誰の目にも触れず、ただ、法の静けさとして。

 その祈りこそが、穢れを寄せぬ浄域(じょういき)として、この地を護っているのだと――俺は、心の奥で感じていた。

 だからこそ、その浄域には、俺は踏み入らなかった。

 穢れを抱えたまま祈ることこそが、俺の行であるように思えた。


 俺は阿闍梨(あじゃり)に習い、回峰行(かいほうぎょう)の如く熊野霊山の森深くを巡り、苔むす岩場で祈りを捧げた――

 春、山肌の雪が解け、沢を流れる水音が経文のように響いた。

 若葉が風に揺れ、梢の隙間から差す光が、まるで仏の手のように大地を撫でていた。

 やがて梅雨が訪れた。

 雨は静かに森を濡らし、祈りの声も、足音も、すべてを吸い込んでいった。

 苔は深く色づき、岩肌は滑り、風は止んだ。

 大きな岩場で雨を凌ぎながら、俺は動く雲の流れを見つめていた。

 ふと視線を落とすと、岩陰に同じように雨を凌ぐ野兎がいた。

 目が合ったわけでもないのに、なぜか笑みが零れた。

 ただ、雨粒だけが絶え間なく落ち続け、祈りの形を変えていった。

 夏が近づくにつれ、森は重たく息づき始めた。

 滝の音は轟きとなり、蝉の声が祈りの声をかき消した。

 湿った風の中で、己の息だけがやけに生々しく響いた。

 ――木々のざわめきの奥に、微かな“誰かの気配”を感じることがあった。

 それは、季節が変わる折や、風の向きが変わるときにだけ、ふっと現れては消えた。

 闇の底からこちらを覗くようでもあり、どこか懐かしい温もりを孕んでいた。


 叢雲寺を出てから、二年の月日が過ぎようとしていた。

 宵の一門の笑顔は、今も心の奥に灯のように残っていた。けれど、この聖地こそが、祈りの答えに辿り着くための悟りの地だと確信し、俺は熊野霊山を歩き続けた。

 星空の下、血の滲む足を引きずり、小川のせせらぎを聞きながら、幼い絶望が胸を裂く夜も、歩みを止めなかった。


 そして――熊野霊山の奥深くで、俺の運命が動いた。


 * * *

 宝永六年――夏の夜。奥山の獣道を、俺は黙々と踏みしめた。

 息が胸を灼くように荒く、ひと呼吸ごとに肺が焼けた。 枯葉を踏むたび、乾いた音が骨に刺さる。

 霧深い森を切り裂く風が頬を刺し、遠くで滝の音が、血の鼓動と重なっていた。

 法衣の裾が痩せた足に絡まり、苔むす岩が草鞋を擦る。

 断食七日目。指先は感覚を失い、歩みの合間に視界が黒く滲む。

 それでも歩いた。祈りというより、まだ生きていることを確かめるために。

 祈りは、既に言葉を失い、声を上げても、仏の名は出なかった。その歩みは、もはや祈りでも修行でもなく、ただ“生”そのものだった。

 夜気の底で、己の呼吸が別の命のように聴こえた。

 それは祈りの残響か、それとも闇の胎動か――もう判別がつかなかった。

 痛みが沈黙を破った。そして、破られた沈黙が、また新たな痛みを呼び戻した。

 身体の奥で、痛みと静けさが交互に波のように押し寄せていた。

 掌が震え、額の汗が冷たく頬を滑る。

 目の前が揺れ、歩みが緩やかに止まり、膝が折れ、闇がひたひたと満ちてきた。

 意識が沈みかけたその瞬間――咆哮が森を裂いた。

 その叫びは、闇を切り裂き、俺の魂を現世に引き戻した。

 見開いた目の先に、大柄な熊がいた。

 赤く燃える瞳が、深淵から俺を捉えていた。

 闇に濡れた牙が冷たく光り、夜の底で白刃のように光った。

 恐怖が胸を突き上げ、息が荒れ、血が喉に逆流した。

 目の奥が焼けるように痛んだ。


 “今はただ、生きるのですよ――”

 信楽様の声が、俺を呼び戻すように響いた。

 だが、その響きがあまりに遠い。 生きよ、と告げる声が、まるで他人の言葉のように聞こえた。

 熊が鼻を鳴らし、地を踏み鳴らした。

 恐怖よりも先に、奇妙な静けさが胸に満ちる。

 生も死も、ただ眼前の闇の中でひとつに溶けていた。

 息が胸を灼き、震える掌をどうにか鎮めながら、わずかに後退しようとした。その足が、ぬかるみに沈み、滑った――身体が大きく傾いた瞬間――咆哮が森を裂き、熊の影が跳ねた。

 足元の理が崩れ、背が闇に吸い込まれた。

 その闇は、命の底に口を開けていた。

 崖を踏み外したと気づくより早く、身体は空を裂いた。

 枝が肩を打ち、岩肌が脇腹を裂く。

 音も痛みも途切れ、とめどなく転がる。

 やがて地が背を強く叩き、肺の空気が押し出された。

 視界が白く弾け、世界の輪郭が、音もなく崩れていった。


 ――静寂が、俺を包んでいた。

 音も痛みもない。

 ただ、心臓の鼓動だけが、遠く、遠くで微かに鳴っている。

 暗闇の底で、何かが重く沈んでいた。

 このまま眠りたいという想いと、起きねばならぬという想いが、深い淵で鬩ぎあっているようだった。

 土と血の匂いが鼻を刺し、濡れた冷気が肌を撫でた。

 意識が、腐葉土の中から引き上げられるように、ゆっくりと浮上していく。

 鼓動とは違う、湿った音が耳を掠めた。

 鳴動というより、何かが地を擦る音だった。

 ズル……ズル……と、命の奥を這うような音。

 遠くの岩が崩れているのだろうかと思った。だが、意識が鮮明になっていくにつれ、その音が自分の身体から響いていることに気づいた。

 何かが俺の足を掴み、肉を裂きながら引きずっている――

 息を吸おうとした。だが、喉の奥に血が張り付き、肺がひゅうと鳴っただけだった。

 闇の中で熊の背が蠢く。

 その顎に、俺の脚が深く咥えられていた。

 恐怖が、理性よりも早く体をねじらせた。

 逃れたい――その一念で地を掻く。

 だが、その動きに応えるように、熊の顎が締まった。

 鈍い音が響く。

 骨が軋み、関節が潰れ、皮膚が裂けた。

 肉の繊維が、ひと筋ずつ引き剥がされていく。

 叫び声は出なかった。

 喉が凍り、声よりも先に息が止まった。

 闇の底で、己の体が他者の口の中で“壊れていく”感覚だけが、やけに鮮明だった。

 痛みは遅れて波のように押し寄せ、時間が引き裂かれるように軋んだ。血の熱が頭の奥から背骨を伝い、切断された脚の跡へと流れ落ちた。

 闇の中で、噛み砕かれる音が続いた。

 それは獣の咀嚼音であり――俺自身が“命の奥で噛み砕かれていく音”でもあった。

 痛みか、恐怖か、吐き気が込み上げ、視界が血の霧に霞む。

 喉の奥から、掠れた呻きが漏れた。

 それが言葉なのか、祈りなのか、もう分からなかった。

 震える手が、勝手に地を掻いた。

 指先が泥に沈み、爪が石を噛んで剥がれる。

 それでも、腕は前へ伸びた。

 逃げたい――ただ、それだけだった。

 砂利と血が指の間で混ざり合い、地を掴むたびに冷たい土が肉の中へ入り込む。

 一寸でも遠くへ。

 その思いだけが、身体を前へ這わせた。

 生への執着が、思考を越えて体を駆り立てた。

 逃げたい、生きたい――その声は、五蘊(ごうん)の底から滲み出すように湧き上がった。

 それはもはや、意思ではなかった。

 業の痛みが、慈悲の灯を求めて暴れた。


 そのとき――闇の中に、ひとつの影が立った。

 月のない空の下、闇がすべてを呑み込む中で、その背だけが光を帯びていた。

 それは、影が自らを照らしているような、不思議な白さだった。

 まるで、その存在そのものが「月光」であるように思えた。

 月光に縋るように、その背に手を伸ばした。

 霧が深まり、影の輪郭を撫で、衣の端が風に揺れた。

 そして――ゆっくりと、静かに振り向いたその瞬間、胸の奥が熱く滲んだ。

 良宵だった。

 いつも静かで、どこか寂しげな微笑み。

 世の痛みを深く知ろうとするその眼差しは、闇に沈む者の傍に在る――まさに天満月(あまみつき)だった。

 だが、伸ばした手の先から、白い光が砂のように崩れていった。

 目を凝らすと、夜空が広がっていた。

 今日が、新月だったことに、ようやく気づいた。

 夜の静寂から、運命を告げられたように思えた。

 それは声ではなく、ただ空の呼吸のように、胸の奥で響いていた。

 熊が振り向き、牙を剥いた。

 息が熱く、腐臭が鼻を突く。

 命の終焉が冷たく夜の底で迫る――それは本能か、執着か。

 震える手で短刀を握り、振り上げた。

 刃が星光を拾った瞬間、熊の叫びが闇に轟く。

 その悲鳴が、母の最期の悲鳴と重なった。


 * * *

「……ただ、必死だったのです。彼らは。

 誰かの命を宿し、また誰かに宿されて……命はそうして巡るものです。

 生きるということは、ときに他の命を奪うことでもある。それは罪ではなく、業の中にある営みなのです。

 けれど――彼は、その巡りを断ち切ってしまった。命が命を継ぐ道から、自らを外してしまったのです。

 その夜、この山の闇は、命を抱くにはあまりに冷たすぎました……」

 篠の声が霧の深みに溶けていった。

 錫杖が、シャランと闇を鳴らす。

 山伏は沈黙のうちに合掌し、風よりも小さな声で呟いた。

「……祈りは、届かぬからこそ、灯となるのだろうか……」

 その言葉に、篠は微笑を滲ませた。

 白衣が風を孕み、月光を掬いながら、一歩、山伏の傍へと進む。

 指先が地へと伸び、冷えた骨の影を撫でた――その瞬間、闇が形を得た。


 それは供養のためでも、祈祷のためでもなかった。

 ただ、灯されぬまま消えた命に、そっと触れるための仕草だった。


 山伏は初めて、足元に目を落とす。

 見るより先に、何かが見えていた。


 風が杉を渡り、月がひとつ欠けた。

 篠の白衣が揺れ、光の粒がその裾を縫う。

 屍の灯は、月を追う山路で何を見たのか――

 語られぬ命の記憶が、篠の声に触れて、静かに目を覚ましていた。

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