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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第三章:追光の山路
11/30

 ――宝永四年十月四日。山が唸り、地が裂けた。

 醍醐の聖地に身を置いて、まだ幾日も経たぬ頃だった。


 大地の底から、うめきのような音が湧き上がり、堂塔が軋んで鳴いた。

 柱が裂け、瓦が落ちた。三宝院(さんぼういん)の白壁には深い亀裂が走る。鳴動は祈りを呑み込み、経の声をかき消した。


 地が揺れるというより、天地の理が軋んだ――そう思った。


 永遠に思えた鳴動がようやく収まり、地のうめきが遠ざかると、俺はようやく周囲を見渡した。


 参拝者が叫び、子らが母を求めて泣き叫んでいた。土煙の中、崩れた石段に膝をつく者、呆然と立ち尽くす者。場は混乱の渦に沈んでいた。

 醍醐の僧たちも例外ではなかった。瓦礫の下敷きになった者、袈裟を土埃にまみれさせ、仲間の名を呼び合う者たちで、仏の座もまた揺らいでいた。

 祈りの場から、祈りが断絶されたような、絶望が満ちる。


 俺は反射的に瓦礫を掻き分け、目の前の倒れた僧の腕を引いた。

 泣き叫ぶ子らを開けた場所へと導き、建物から遠ざけた。自分自身も負傷していたが、血が頬を伝い、視界が滲んでも、俺はただ、声のある方へと駆けた。


 考えるよりも、体が動いた。


 ――あの闇に呑まれる前に、何かを繋ぎとめるように。

 俺がこの手で救えなかった母を、時を超えて救うように。ただ、ひた走った。



 夜。

 余震の止まぬ庭――堂塔の影が揺れる醍醐寺の奥の苑に、編笠を深く被った白装束の老僧がひとり佇んでいた。

 灯の届かぬその白が、闇の中でゆらりと揺れる。

 声は風のように掠れ、ただ呼びかけられた響きだけが、祈りのように静かに、胸の奥に降りてきた。




「若き僧よ……そなたの心は、すでに修行の扉を開いておる。因果が軋み、世の痛みが噴き出したその(とき)――そなたが見せた無心のふるまいは、祈りの形を忘れぬ者の証。それこそが、慈悲の道を照らす灯よ。光とは、声にあらず、力にあらず――ただ、闇に沈む者の傍に在るもの。そなたは、すでにその灯を抱いておる」




 胸の奥で何かが静かに揺れ、手のひらがじんわりと熱を宿した。 恐れと安堵のあわいに、言葉を見つけた。




「……私は、まだ光とは申せぬ身です。心は曇り、手は震え、祈りもまた届きません。それでも、学びを手放したくはないのです。いつかこの歩みが誰かの灯となる日を願って。闇に沈む者の傍に、そっと在れるように。小さき螢の灯ではなく、いつか月のように――共に在る光となれるようにと」




 編笠の老僧は、髭を擦りながら黙して聞いていた。その沈黙は、谷間に漂う霧のように深く、言葉の隙間に古き経の響きを湛えていた。やがて、月光を掬うように目を細め、静かに応えた。




「そなたの言葉には、積み重ねし灯の重みがある。小さき光を抱き、寒夜を越えてきた者の道――それは、誰の目にも映らぬところにてこそ、仏に近づいておるやもしれぬ。光とは、誇るものにあらず。ただ、沈む者の傍に在り続けるものか……」




 編笠の老僧は言葉を切り、しばし夜風に耳を澄ませた。その横顔には、まるで遠い記憶を聴くような静けさがあった。

 俺の胸には、ふと懐かしい感覚がよぎった。

 ――この声音、この間の取り方。記憶の糸を手繰り、辿り着いたのは、数日前の伏見稲荷。風に溶けゆく問いに、幻のように答えを返してくれた、あの老僧の声に重なっていた。




「恐れながら、お尋ねいたします。貴僧は、醍醐の御山にて修行を積まれておられるお方にてございましょうか。その御身より滲む気迫、並々ならぬご修行の程とお見受けいたしました。もしや、貴僧は――あの時」

「私は醍醐寺の徒でもなければ、誰の庇護も受けぬ野良の行者よ」



 編笠の老僧は、俺の言葉を遮り、吐息のように呟いた。

 その声音には、厳しさよりも、長く誰かを見守ってきた者の疲れと、深い憐れみが滲んでいた。




「貴僧は孤独に、己との対話を重ねてこられたのですね」




 俺の言葉に、編笠の老僧はふと空を仰いだ。月は満ち、編笠の老僧の白装束に淡く光を落としていた。その光は、語られぬ祈りのように、静かに揺れていた。




「……私のような身には、そなたのような光が――少々、眩しすぎる。光というものは得てして不思議なものでな、それを灯している者自身には、往々にして見えぬものよ。今宵の月のように、冽々たる光は、闇を清めると同時に、微かな螢の灯を翳らせることもあろう。それでも――翳りゆく灯にこそ、仏は寄り添うものなのやもしれぬな」




 その言葉は、まるで己の往を静かに振り返るようだった。


 夜風が吹き抜け、紅葉が一枚、老僧の肩に落ちた。

 次の瞬間には、彼の姿はもうそこになかった。


 提灯の光が一度だけ揺らめき、闇に溶けた。残ったのは、石畳に淡く残る白の余韻と、胸の奥に刻まれた一筋の声だけ。

 俺は息を呑み、目を凝らしたが、夜の静寂が庭を包んでいった。


 同じような言葉を、いつだったか、誰かに言われた気がした。だが、その記憶には、辿り着けなかった。


 ――その後、編笠の老僧に再会することはなかった。



 山の鳴動は収まり、醍醐の地にも静けさが戻りつつあったが、伽藍の多くは傷み、幾つもの命が土に還った。日ごとに焼香の煙が絶えず、人々は互いの無事を確かめ合いながら、崩れた石段を修復していた。

 俺もまた、祈りの合間に、寺の再興を手伝った。僧たちは口を閉ざし、亡き者の名を経に込めて読誦した。


 ――あの夜に出会った編笠の老僧について、僧たちにそれとなく尋ねたが、誰も心当たりがないようだった。


 やがて、山は深々と凍てつき、吐く息さえ音を立てるような真冬が訪れた。


 俺は上醍醐の岩場で修行を続けた。凍える夜に経を唱え、傷だらけの足で山を登った。何度、何万回と九字を刻んでも、霊命を震わせるような力は得られず、心が折れそうになる夜もあった。

 時折、木々のざわめきや岩陰の影に、誰かに見守られているような気配を感じた。かつて叢海様や信楽様が見せたような、深く静かな慈悲のまなざし――その眼差しが、風に乗って俺を見守っているようにも思えた。



 秋霧の朝、山門の杉立ちの間を抜ける風が、鈴懸(すずかけ)の裾を撫でた。

 一年の歳月が、掌から零れ落ちるように過ぎていった。

 俺は、静まり返った伽藍を振り返り、深く頭を垂れた。――もう、ここで祈ることはない。


 地の鳴動が収まり、空は鈍い灰に沈んでいた。

 それでも、人々の祈りは絶えず、香煙が薄く京の空を満たしていた。


 宝永五年、俺は醍醐寺を後にし、奈良の霊場へ向かって歩み出した。


 山を下り、幾つかの村を越え、春の風に晒されながら、ただ祈りの場を求めて歩いた。道すがら、焼香の香が遠くから漂い、誰かの読経が風に乗って耳に届いた。それでも、俺の問いに応える声はなかった。


 やがて奈良に入り、東大寺の大仏殿へと足を運んだ。

 盧舎那仏(るしゃなぶつ)の前に膝を折ると、広がる静寂が体を包み込み、心の奥に言葉なき問いを投げかけた。

 巨きく、悠久の時を湛えた尊像の姿に、俺の胸はざわめき、鼓動が震えた。

 あまりに大きく、あまりに遠く――その存在感は、祈りを言葉にせずとも圧倒する力を持っていた。


 俺の問いかけは、ただ空へ吸い込まれ、見えない波となって尊像を揺らしたように感じられた。

 届かぬ祈りへの焦燥、己の弱さを知る痛み、そして、それでもなお灯そうとする微かな光――すべてが、あの巨大な瞳の奥に吸い込まれていく。


 膝の下で土の冷たさを感じながら、俺は初めて、光とは大きさでも力でもなく、ただ在ることの意味なのかもしれないと思った。

 立ち上がろうとしたそのとき、脇を通りかかった僧が足を止め、俺を見る目を細め、囁いた。



「……宵の一門の者か?」



 その声には、懐かしさと、どこか哀惜の響きがあった。俺は警戒するように身構えた。

 僧は名を名乗らず、穏やかに続けた。



「失礼、拙僧は、かつて叢海殿と行を共にした者だ。破天荒なお方だったが、なぜか憎めぬ愛嬌を持たれていた……懐かしい」



 その名を聞いた瞬間、胸の奥に灯がともるような感覚が走った。

 叢雲寺を離れてから一年、祈りの地を越えてもなお、叢海様の灯が、人の心に宿り、その器と共に旅をしている――そう思うと、胸の奥の孤独が少しだけほどけていった。



「その姿――修験の行者のもののようだが……もし心が曇るなら、薬師の光を仰ぎなさい。癒しは外にあらず、祈るその身にこそ宿るものだ。これも、叢海殿から教えられた言葉だがね」



 そう言い残して僧は去った。

 その背に、俺は静かに頭を垂れた。礼でも、祈りでもなく――ただ、胸の奥に灯る感謝の形として。

 それは、師の声が時を越えて届いたような、懐かしい灯のぬくもりだった。


 癒しは外にあらず、祈るその身にこそ宿る。叢海様が京灯(きょうとう)百夜抄(ひゃくやしょう)に記した言葉のひとつだった。

 その場に在り、静かに祈ること自体が、闇に沈む者に届く灯になる。

 僧童らにその言葉を読み聞かせていた日のことが、ふと胸をよぎった。


 東の空には薄雲がたなびき、風が萩の香を運んでいた。

 土道を踏みしめるたび、枯葉が微かに鳴り、秋の光が袈裟の裾を照らした。

 東大寺の金の塔を振り返ると、その影が霞に溶けていった。

 あの灯もまた、誰かの祈りを照らしているのだろう――そう思いながら、俺は薬師の地へ向かって歩き出した。


 薬師寺(やくしじ)の古刹で、風に揺れる灯明の下、薬師如来と十二神将を前に経を唱えた。

 油の香が静かに満ち、炎がひと息ごとに小さく揺れる。


 光と影のあわいに、叢海様の背がふと浮かんだ。

 経を読むたび、信楽の低い声が響き、宵の一門の笑顔が遠く胸の奥で微かに明滅した。病を癒す仏の慈悲にすがりながらも、俺の声はどこか震えていた。


 祈りが届かぬことへの焦りか、それとも、自らの癒えぬ痛みへの諦めか。


 心が翳りかけたそのとき――灯明の揺らぎの向こうに、良宵が静かに座しているように思えた。声はなく、ただその気配が、炎の傾きに重なっていた。

 経の響きに、もうひとつの息が添うように、俺の祈りが、誰かの祈りと重なっていく。

 宵の一門の笑い声が、沈黙の底に溶けて聞こえるたび、その灯は、俺の胸の奥で、静かにほどけていった。

 それでも――心の底に沈んだ業は、静かに疼いていた。


 醍醐で出会った僧の言葉が、胸の奥にふと浮かんだ。


「行の極は山にあり」――思えば、その響きが、どこかでずっと息づいていたように思える。


 癒しは、痛みを包む慈悲。行は、業を洗い直す試し。その試しの中でこそ、己の灯が見えるのだと。だからこそ、癒しののちに山へ――そう、静かに思い、吉野山へと歩み出した。


 金峯山寺(きんぷせんじ)へ向かう山道は、霧に沈み、ぬかるんだ土が足を奪った。祈りを遮るように風が枝を鳴らし、踏みしめるたびに、山が俺を試しているようだった。


 蔵王堂(ざおうどう)に辿り着いたとき、足は泥に染まっていた。境内にいた年老いた僧が、何も言わずに桶を差し出し、湯を汲んでくれた。俺はその湯で足を洗いながら、言葉にならぬ礼を込めて頭を下げた。湯気が立ちのぼる中、僧はただ静かに経を唱えていた。


 蔵王権現(ざおうごんげん)の厳しいまなざしに額ずき、己の弱さを曝け出した。

 だが、幾度祈っても、心の奥底に届く響きはなかった。

 問いかける声は空に散り、そしてそれを乞える師も、俺には存在しなかった。それでも――俺はこの地に身を置き、五体を山に捧げて修行をした。 

 山は静まり返っていた。風も絶え、ただ木々のざわめきが、遠い呼吸のように響く。

 その沈黙の底から、かすかな声が聞こえたような気がした――


『大和の山は人を清め、紀の海は魂を洗う。だが、魂の源を知りたくば、熊野霊山へ行け。そこには“還る”道がある』


 その響きは、外から届いたものではなかった。

 胸の奥で長く沈黙していた何かが、ふいに目を覚まし、内側から名を呼ぶように囁いた。

 耳で聞くより先に、心がその言葉を覚えていた。


 ああ、そこへ行かねばならぬ――

 そう思った瞬間、山の匂いが変わった。風が潮を運び、樹々の梢の間から、まだ見ぬ海の光が透けて見えた。

 それは運命というよりも、“記憶の呼吸”だった。


 風が止み、森が息を潜めた。

 世界が一瞬、何かを待つように静まった――


 その沈黙の向こうに、まだ名を知らぬ光が在る気がした。


 俺は冬の気配が山に満ち始めた頃、大和の山を越え、紀伊の海の香りが漂う道を進み、良宵が修行する高野山を避けて、運命の地――熊野霊山(くまのれいざん)へ足を踏み入れた。



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