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縁起外伝~宵待ちの螢~  作者: 熊掛鷹
第三章:追光の山路
10/25

 五歳の秋、刃が母を貫いた。叫びと血の色が夕焼けの鳥居を染めた。

 その声の中で、何かが焼ける匂いがした。血か、灯か、それとも紅く焼ける空か――

 母の温もりがまだ掌にこびりついていて、どれほど擦っても消えなかった。最期の温もりだけが、俺の手に残っていた。

 あの場にいたはずの父の姿は、俺の記憶にはない。

 殺されたのか、逃げ延びたのか――いつだったか真相を確かめようとしたこともあったが、父の存在は俺の知る世界から消えていた。

 母が命の盾となり、俺だけが因果の縁に繋ぎ止められた。

 母の血に濡れた俺を抱え、父に仕えていた侍臣(じしん)は川沿いを必死に走った。何かに追われるように、息を切らし、足をもつれさせながら。


 身を隠すように辿り着いたのは、京都の洛北――霧に包まれた雲母坂の奥、杉木立に抱かれるようにひっそりと佇む叢雲寺だった。風も音も吸い込まれるような静けさの中、ただ一つ、灯籠の灯だけが揺れていた。

 門前で侍臣は膝をつき、涙を流しながら、何かを乞うていた。何を言っていたのかは覚えていない。ただ――叢海様と信楽様が静かに頷き、穏やかな目で俺を見てくださったことだけが、今も心に焼きついている。

 信楽様は、血に濡れた俺の手をそっと取り、手桶の水で清めてくださった。その手は驚くほど温かく、指先が触れるたびに、胸の奥の震えが少しずつほどけていくようだった。

 やがて、何も問うことなく、俺の髪を剃り落とされた。それは、何かから俺の存在を欺き、隠すようで――その慌ただしさが、妙に胸に残っている。

 そして、静けさの中で、叢海様が俺に新たな名を授けてくださった。

 ――「螢雪(けいせつ)

 それは、過去の名を覆い、祈りの灯として生きるための名だった。


 この日の出来事は、あらゆることが曖昧なのに、僧名(そうみょう)を与えられた後の信楽様の言葉だけは、一言一句覚えている。

 信楽様は屈んで、俺の頬にそっと触れながら、慈悲深くこう仰った。

「―― 短い時の中で、地獄をご覧になられた。それゆえに、今の貴方様には御仏の慈悲すら非情に響くでしょう。ですが……それは、螢雪さんが生きておられるからこそ。悔いが消えることはなく、記憶も、祈りも、許しも―― すぐには届かぬものです。……それでも、心が折れてしまえば、この灯は、再び闇へと還る。その闇こそが、命の底に宿る原初の静けさなのです。今はただ、生きるのですよ。己が何者かを知ることよりも―― 生きることが、答えを形づけていくのです。それが、宵に立つ者の灯なのです」

 俺は涙を流すこともなく、ただ頷いた。

 信楽様の言葉は、確かに胸に届いていた。けれど、それを理解するには、俺の心はまだ幼すぎたのかもしれない。


 その夜、俺は布団の中で、ずっと震えていた。

 膝を抱え、声も出せず、ただ闇の中で息を潜めていた。

 恐怖と、離別の哀しさと、何かを失ったまま生きているという痛みが、胸の奥で渦を巻いていた。

 母が賊の刃に貫かれ、悲鳴を上げた最期の光景が、何度も何度も、呪いのように頭の中で繰り返された。

 目を閉じても、耳を塞いでも、その声と血の色は消えてくれなかった。

 俺はただ、朝を待つしかなかった。

 けれど、夜は長く、静かすぎて――その静けさが、かえって恐ろしかった。


 一門に入った翌日――夕刻の庭に、そっと足を踏み入れた。息を呑むほどの紅葉の赤が境内を染めていた。

 その鮮やかさが、母の血を思わせ、俺は目を逸らすように空を仰いだ。

 宵の空には、満ちた月が出ていた。その光は、苦しみを包むように優しく、けれどどこか冷ややかに見下ろしているようにも感じた。


 ふと、誰かの視線を感じて、目線を下ろした。

 俺と同じほどの齢の僧が、静かにこちらを見つめていた。

 痩せ細り、死者の匂いを纏ったその僧は――澄んだ瞳に、痛みを越えた静かな光を宿していた。

 それが――良宵であった。


 良宵の瞳を見た瞬間、縛られていた心がほどけ、止まっていた鼓動が静かに動き出した。

 あの瞳の奥に、かつての自分と同じ孤独を見たのかもしれない。

 誰にも触れられぬ痛みを抱えながら、それでも光を失わぬ者の姿が、胸を突いた。

 良宵を――守ってやらねば、と初めて願いを抱いた。

 その願いこそが、俺に再び、生きる希望を与えてくれた。

 それからの十年――良宵と共に過ごした日々の記憶には、いつもあいつの笑顔が寄り添っていた。

 竹林を駆ける足音。経を唱える声の響き。月の下で交わした果てなき語らい。

 その懐かしき日々の残光が、十六の秋に叢雲寺を後にした俺の道を、今もなお、静かに照らしてくれていた。


 * * *

 宝永四年の秋――俺は雲母坂を発ち、醍醐(だいご)の谷を目指した。

 比叡の風はもう夏の気配を失い、木々の葉を金色に染めながら静かに流れていた。山を下るほどに、冷えた霧は薄れ、人の声と炊煙(すいえん)の匂いが近づいてくる。


 祈りの静けさが遠のくごとに、胸の奥で何かがざわめいた。

 市井(しせい)の活気の中に、飢えに伏す者の姿を見た。子を背負い、物乞いの声をあげる女。道端にうずくまる老人。

 すれ違う人々は足を止めることなく、ただ日常の流れに身を任せていた。


 ――陰の済衆行脚(さいしゅうあんぎゃ)を歩んだ良宵は、ありのままの世を見て、何を思ったのか。

 この光景が良宵の瞳に、どう映ったのか。俺には今もわからない。

 何も語らず、時折寂しそうに微笑む良宵が、秋の風とともに胸をかすめた。


 洛中(らくちゅう)の喧騒を抜け、再び東へ向き直り、鴨川の水辺に辿り着いた。北に澄み、南へ向かうほどに濁りを増す水面を、俺は川沿いの細道で眺め歩いた。

 足元の石は湿り、風は冷たく、季節の移ろいが肌に触れる。

 水面に目を落とすと、濁りの中に、膨れたまま流れ着いた亡骸が揺れていた。

 俺は目を逸らせなかった。

 あの亡骸が、俺であるような気がした。

 濁りの底に映るものは、過去の因果であり、業の鏡像であった。

 亡骸は、何も語らず、ただ流れていった。

 あの死したる者に、果して救いは届いたのだろうか――俺の掌に残る母のぬくもりさえ、濁りの果てに溶けゆくようで、胸が静かに疼いた。


 鴨川を渡り、南へ歩を進める。暮れかけた空の下、洛の街並みは朱と影を帯び、遠くの稲荷山(いなりやま)が夕靄の彼方に姿を現していた。

 かつて母と手を繋ぎ、皆で参拝へ向かったあの日の残響が、ふいに記憶の底を疼かせた。

 あの山の向こうで、母は血に沈み、螢雪となる前の”私”は死んだ。

 ―― 十余年の歳月を経て、再びこの地を踏むことになるとは。

 あのとき死んだ“私”が、いま、螢雪(おれ)として歩いている。

 朱の鳥居が幾重にも重なり、夕陽に照らされて揺れていた。風が吹くたびに、鈴の音が微かに鳴り、狐火のような光が石畳をかすめる。

 人々の祈りの声、柏手の音、線香の香。

 どれも懐かしく、それでいて遠い――

 俺は足を止め、灯明のように揺らめくその光景を見つめ、胸の奥に沈んでいた言葉を、零した。

「祈りとは……届かぬものを求めることか。それとも、届かぬまま歩き続けることなのか」

 応える声は、無かった。

 良宵なら、どのように答えただろう――そう思ったその刹那、耳元をかすめるように、低い声が風の中に混じった。

「祈りが“届かぬもの”であるならば、それは願の果てにある理想。されど届かぬまま歩むなれば、それは行の中にある方便。ならば祈りとは――理想を抱き、方便として歩むことなのやもしれぬな……」

 驚いて振り返ると、深く編笠(あみがさ)を被った老僧が、朱の柱の影に立っていた。

 笠の下の顔は見えず、ただ、灯明の光に白く縁取られた顎の輪郭があった。

 その佇まいに、なぜか胸の奥が疼いた。

 どこかで――この声を、聞いた気がする。

 風が笹を鳴らし、葉が宙に舞い上がる。

 目を細めた次の瞬間、そこにはもう誰の姿もなかった。

 ――風だけが、まだ祈りの声を運んでいた。


 祈りが理想であり、方便であるなら――

 俺は、届かぬものを抱いたまま、歩いていくしかないのかもしれない。

 立ち止まり、掌を見つめた。

 まだ癒えぬ傷と、消えぬぬくもりがそこにある気がした。

 天の静寂が、月の灯をそっと地に落としていた。

 その光は、俺の掌に届くことなく、ただ“俺”という存在を見守っているようだった。因果の連鎖を超えて届く、識のまなざしのように。

 俺は手を静かに握りしめ、朱の参道を背に歩き出した。

 灯はまだ小さい。 けれど――繋がれた命は、静かに燃え立っている。 消えてはいない。

 それだけで、歩む理由になる。


 * * *

 伏見(ふしみ)の町を抜け、山裾を縫うように歩いた。

 夕陽はすでに稜線の向こうに沈み、空は群青に染まりかけていた。風は冷たく、山気を孕んで頬を撫でる。

 遠く、僧侶たちの読経が谷間に木霊し、かすかな波紋となって心に広がる。その音を頼りに歩を進めると、やがて紅葉に包まれた谷が開け、醍醐の聖地が姿を現した。

 紅葉に彩られた庭路の奥、山門の仁王像が、泥と汗にまみれた俺を、鋭い眼差しで見据えていた。

 門前の僧は一瞥をくれただけだったが、言葉なく奥へと導いてくれる。その沈黙は、訳ありの俺を問うことなく受け入れる、寺の古き祈りの形だった。


* * *

 寺の奥で耳にした山伏たちのささやきを頼りに、俺は独り、上醍醐(かみだいご)の岩場へと足を運んだ。

 修験(しゅげん)の聖地で、誰の教えも受けぬまま、見様見真似で凍える滝に身を沈めた。骨まで刺す冷水が、皮膚を越えて内側に染みてくる。息は祈りのように白く散り、足の感覚は次第に失われていった。唱える経は風に呑まれ、言葉だけが空に溶けていく。それでも、俺は九字(くじ)を刻み続けた。祈りが届かぬままでも、灯が消えぬ限り、刻み続けるしかなかった。


 厳しい修行の狭間で、闇を感じ取った。

 闇とは、無限の奈落へと続くような、果てしない深さだった。

 音もなく、形もなく、ただ「在る」という感覚だけが、皮膚の裏側に染み渡っていた。目を閉じても、開けても、闇は変わらずそこにいた。俺の影をなぞるように、俺よりも俺を知っているように。

 それは外から齎されたもののようで、同時に俺の内側で脈を打ち、静かに息づいていた。

 俺は、自分の境界が曖昧になっていくのを感じた。闇が俺を覆うのではなく、俺が闇に溶けていくような感覚。

 その瞬間、俺は怖くてたまらなかった。

 祈りも灯も、届かぬ場所があるのだと、初めて知った。

 これが、宵の一門の中でも、一部の者にしか許されなかった“(かげ)の修行”なのだろうか。ならば――

 良宵は、この途方もない闇を、ひとりで祓い続けてきたのだろうか……。

 いや――闇にすら、救済の手を差し伸べてきたのだろうか。

 声なき者の音を()(かん)じ、内なる闇を、己の灯で静かに包み続けてきたのだろうか。それとも、その闇の彼方に、まだ見ぬ慈光(じこう)を見ていたのだろうか。

 なんにせよ、それは、俺には到底届かぬ境地だった。しかし、微かに良宵の心に近付けた気もした。

 ――良宵が俺を優しく拒んだ、あの微笑の真意に。

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