2
五歳の秋、刃が母を貫いた。叫びと血の色が夕焼けの鳥居を染めた。
その声の中で、何かが焼ける匂いがした。血か、灯か、それとも紅く焼ける空か――
母の温もりがまだ掌にこびりついていて、どれほど擦っても消えなかった。最期の温もりだけが、俺の手に残っていた。
あの場にいたはずの父の姿は、俺の記憶にはない。
殺されたのか、逃げ延びたのか――いつだったか真相を確かめようとしたこともあったが、父の存在は俺の知る世界から消えていた。
母が命の盾となり、俺だけが因果の縁に繋ぎ止められた。
母の血に濡れた俺を抱え、父に仕えていた侍臣は川沿いを必死に走った。何かに追われるように、息を切らし、足をもつれさせながら。
身を隠すように辿り着いたのは、京都の洛北――霧に包まれた雲母坂の奥、杉木立に抱かれるようにひっそりと佇む叢雲寺だった。風も音も吸い込まれるような静けさの中、ただ一つ、灯籠の灯だけが揺れていた。
門前で侍臣は膝をつき、涙を流しながら、何かを乞うていた。何を言っていたのかは覚えていない。ただ――叢海様と信楽様が静かに頷き、穏やかな目で俺を見てくださったことだけが、今も心に焼きついている。
信楽様は、血に濡れた俺の手をそっと取り、手桶の水で清めてくださった。その手は驚くほど温かく、指先が触れるたびに、胸の奥の震えが少しずつほどけていくようだった。
やがて、何も問うことなく、俺の髪を剃り落とされた。それは、何かから俺の存在を欺き、隠すようで――その慌ただしさが、妙に胸に残っている。
そして、静けさの中で、叢海様が俺に新たな名を授けてくださった。
――「螢雪」
それは、過去の名を覆い、祈りの灯として生きるための名だった。
この日の出来事は、あらゆることが曖昧なのに、僧名を与えられた後の信楽様の言葉だけは、一言一句覚えている。
信楽様は屈んで、俺の頬にそっと触れながら、慈悲深くこう仰った。
「―― 短い時の中で、地獄をご覧になられた。それゆえに、今の貴方様には御仏の慈悲すら非情に響くでしょう。ですが……それは、螢雪さんが生きておられるからこそ。悔いが消えることはなく、記憶も、祈りも、許しも―― すぐには届かぬものです。……それでも、心が折れてしまえば、この灯は、再び闇へと還る。その闇こそが、命の底に宿る原初の静けさなのです。今はただ、生きるのですよ。己が何者かを知ることよりも―― 生きることが、答えを形づけていくのです。それが、宵に立つ者の灯なのです」
俺は涙を流すこともなく、ただ頷いた。
信楽様の言葉は、確かに胸に届いていた。けれど、それを理解するには、俺の心はまだ幼すぎたのかもしれない。
その夜、俺は布団の中で、ずっと震えていた。
膝を抱え、声も出せず、ただ闇の中で息を潜めていた。
恐怖と、離別の哀しさと、何かを失ったまま生きているという痛みが、胸の奥で渦を巻いていた。
母が賊の刃に貫かれ、悲鳴を上げた最期の光景が、何度も何度も、呪いのように頭の中で繰り返された。
目を閉じても、耳を塞いでも、その声と血の色は消えてくれなかった。
俺はただ、朝を待つしかなかった。
けれど、夜は長く、静かすぎて――その静けさが、かえって恐ろしかった。
一門に入った翌日――夕刻の庭に、そっと足を踏み入れた。息を呑むほどの紅葉の赤が境内を染めていた。
その鮮やかさが、母の血を思わせ、俺は目を逸らすように空を仰いだ。
宵の空には、満ちた月が出ていた。その光は、苦しみを包むように優しく、けれどどこか冷ややかに見下ろしているようにも感じた。
ふと、誰かの視線を感じて、目線を下ろした。
俺と同じほどの齢の僧が、静かにこちらを見つめていた。
痩せ細り、死者の匂いを纏ったその僧は――澄んだ瞳に、痛みを越えた静かな光を宿していた。
それが――良宵であった。
良宵の瞳を見た瞬間、縛られていた心がほどけ、止まっていた鼓動が静かに動き出した。
あの瞳の奥に、かつての自分と同じ孤独を見たのかもしれない。
誰にも触れられぬ痛みを抱えながら、それでも光を失わぬ者の姿が、胸を突いた。
良宵を――守ってやらねば、と初めて願いを抱いた。
その願いこそが、俺に再び、生きる希望を与えてくれた。
それからの十年――良宵と共に過ごした日々の記憶には、いつもあいつの笑顔が寄り添っていた。
竹林を駆ける足音。経を唱える声の響き。月の下で交わした果てなき語らい。
その懐かしき日々の残光が、十六の秋に叢雲寺を後にした俺の道を、今もなお、静かに照らしてくれていた。
* * *
宝永四年の秋――俺は雲母坂を発ち、醍醐の谷を目指した。
比叡の風はもう夏の気配を失い、木々の葉を金色に染めながら静かに流れていた。山を下るほどに、冷えた霧は薄れ、人の声と炊煙の匂いが近づいてくる。
祈りの静けさが遠のくごとに、胸の奥で何かがざわめいた。
市井の活気の中に、飢えに伏す者の姿を見た。子を背負い、物乞いの声をあげる女。道端にうずくまる老人。
すれ違う人々は足を止めることなく、ただ日常の流れに身を任せていた。
――陰の済衆行脚を歩んだ良宵は、ありのままの世を見て、何を思ったのか。
この光景が良宵の瞳に、どう映ったのか。俺には今もわからない。
何も語らず、時折寂しそうに微笑む良宵が、秋の風とともに胸をかすめた。
洛中の喧騒を抜け、再び東へ向き直り、鴨川の水辺に辿り着いた。北に澄み、南へ向かうほどに濁りを増す水面を、俺は川沿いの細道で眺め歩いた。
足元の石は湿り、風は冷たく、季節の移ろいが肌に触れる。
水面に目を落とすと、濁りの中に、膨れたまま流れ着いた亡骸が揺れていた。
俺は目を逸らせなかった。
あの亡骸が、俺であるような気がした。
濁りの底に映るものは、過去の因果であり、業の鏡像であった。
亡骸は、何も語らず、ただ流れていった。
あの死したる者に、果して救いは届いたのだろうか――俺の掌に残る母のぬくもりさえ、濁りの果てに溶けゆくようで、胸が静かに疼いた。
鴨川を渡り、南へ歩を進める。暮れかけた空の下、洛の街並みは朱と影を帯び、遠くの稲荷山が夕靄の彼方に姿を現していた。
かつて母と手を繋ぎ、皆で参拝へ向かったあの日の残響が、ふいに記憶の底を疼かせた。
あの山の向こうで、母は血に沈み、螢雪となる前の”私”は死んだ。
―― 十余年の歳月を経て、再びこの地を踏むことになるとは。
あのとき死んだ“私”が、いま、螢雪として歩いている。
朱の鳥居が幾重にも重なり、夕陽に照らされて揺れていた。風が吹くたびに、鈴の音が微かに鳴り、狐火のような光が石畳をかすめる。
人々の祈りの声、柏手の音、線香の香。
どれも懐かしく、それでいて遠い――
俺は足を止め、灯明のように揺らめくその光景を見つめ、胸の奥に沈んでいた言葉を、零した。
「祈りとは……届かぬものを求めることか。それとも、届かぬまま歩き続けることなのか」
応える声は、無かった。
良宵なら、どのように答えただろう――そう思ったその刹那、耳元をかすめるように、低い声が風の中に混じった。
「祈りが“届かぬもの”であるならば、それは願の果てにある理想。されど届かぬまま歩むなれば、それは行の中にある方便。ならば祈りとは――理想を抱き、方便として歩むことなのやもしれぬな……」
驚いて振り返ると、深く編笠を被った老僧が、朱の柱の影に立っていた。
笠の下の顔は見えず、ただ、灯明の光に白く縁取られた顎の輪郭があった。
その佇まいに、なぜか胸の奥が疼いた。
どこかで――この声を、聞いた気がする。
風が笹を鳴らし、葉が宙に舞い上がる。
目を細めた次の瞬間、そこにはもう誰の姿もなかった。
――風だけが、まだ祈りの声を運んでいた。
祈りが理想であり、方便であるなら――
俺は、届かぬものを抱いたまま、歩いていくしかないのかもしれない。
立ち止まり、掌を見つめた。
まだ癒えぬ傷と、消えぬぬくもりがそこにある気がした。
天の静寂が、月の灯をそっと地に落としていた。
その光は、俺の掌に届くことなく、ただ“俺”という存在を見守っているようだった。因果の連鎖を超えて届く、識のまなざしのように。
俺は手を静かに握りしめ、朱の参道を背に歩き出した。
灯はまだ小さい。 けれど――繋がれた命は、静かに燃え立っている。 消えてはいない。
それだけで、歩む理由になる。
* * *
伏見の町を抜け、山裾を縫うように歩いた。
夕陽はすでに稜線の向こうに沈み、空は群青に染まりかけていた。風は冷たく、山気を孕んで頬を撫でる。
遠く、僧侶たちの読経が谷間に木霊し、かすかな波紋となって心に広がる。その音を頼りに歩を進めると、やがて紅葉に包まれた谷が開け、醍醐の聖地が姿を現した。
紅葉に彩られた庭路の奥、山門の仁王像が、泥と汗にまみれた俺を、鋭い眼差しで見据えていた。
門前の僧は一瞥をくれただけだったが、言葉なく奥へと導いてくれる。その沈黙は、訳ありの俺を問うことなく受け入れる、寺の古き祈りの形だった。
* * *
寺の奥で耳にした山伏たちのささやきを頼りに、俺は独り、上醍醐の岩場へと足を運んだ。
修験の聖地で、誰の教えも受けぬまま、見様見真似で凍える滝に身を沈めた。骨まで刺す冷水が、皮膚を越えて内側に染みてくる。息は祈りのように白く散り、足の感覚は次第に失われていった。唱える経は風に呑まれ、言葉だけが空に溶けていく。それでも、俺は九字を刻み続けた。祈りが届かぬままでも、灯が消えぬ限り、刻み続けるしかなかった。
厳しい修行の狭間で、闇を感じ取った。
闇とは、無限の奈落へと続くような、果てしない深さだった。
音もなく、形もなく、ただ「在る」という感覚だけが、皮膚の裏側に染み渡っていた。目を閉じても、開けても、闇は変わらずそこにいた。俺の影をなぞるように、俺よりも俺を知っているように。
それは外から齎されたもののようで、同時に俺の内側で脈を打ち、静かに息づいていた。
俺は、自分の境界が曖昧になっていくのを感じた。闇が俺を覆うのではなく、俺が闇に溶けていくような感覚。
その瞬間、俺は怖くてたまらなかった。
祈りも灯も、届かぬ場所があるのだと、初めて知った。
これが、宵の一門の中でも、一部の者にしか許されなかった“陰の修行”なのだろうか。ならば――
良宵は、この途方もない闇を、ひとりで祓い続けてきたのだろうか……。
いや――闇にすら、救済の手を差し伸べてきたのだろうか。
声なき者の音を観て観じ、内なる闇を、己の灯で静かに包み続けてきたのだろうか。それとも、その闇の彼方に、まだ見ぬ慈光を見ていたのだろうか。
なんにせよ、それは、俺には到底届かぬ境地だった。しかし、微かに良宵の心に近付けた気もした。
――良宵が俺を優しく拒んだ、あの微笑の真意に。




