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雑記

気が付けば、あれも値上げこれも値上げの値上げラッシュである。


コンビニの鮭おにぎりは200円に届く勢いだ。

富士そばの天ぷらそばは600円だと聞いている。


僕の中ではなぜか、天ぷらそばの価格は360円でインプットされているので(いつの時代だよ)、天ぷらそばが600円と言われると、そんなに払えるか!となってしまう。


ガソリン代も相変わらず高い。

そしてこれが輸送費や光熱費にモロに跳ね返り、あらゆる商品の価格が底上げされるのだ。

この状況は、もはや令和のオイルショックと言っても過言ではない。

過言だけど。


そのうち以前のように、スーパーの商品棚からトイレットペーパーが無くなったりするのだろうか。

ま、最近は大体どこもウォシュレットだし、乾燥機能付きの便座もあるようだから、今さらトイレットペーパーが無くなったところで、それほど困らないのかも知れないが。


仮にこういった値上げに合わせて月給やボーナスも同じくらいの割合で上がってくれているのなら文句は無いが、給料が上がっているのは公務員とか一部の大手企業くらいのもので、中小企業や零細企業からはあまり羽振のいい話は聞こえてこない。


特に僕のような初老のヒラ社員にとっては、収入はせいぜい据え置き、物価や税金だけが一方的に上がっていくばかりで、ますます家計が圧迫される状況となっている。


政府はもう何年も前からデフレ脱却を目指すなんて言っているが、収入が増えず物価だけが上がっていくぐらいなら、むしろデフレであった方が、僕のような低所得者にとってはありがたい。


ま、こんなところで愚痴を言っても始まらないが。


個人的には、僕はこの値上げラッシュはこれからもずっと止まらないだろうと予想している。

2030年には富士そばの天ぷらそばは900円になり、2040年には1500円を超えるだろうと思っているが、果たして5年後、15年後にこの予想は当たっているだろうか。

ただの杞憂であればよいが。


さて、尾張を統一した織田信長が、その後に美濃を統一したのは、1567年のことである。

信長が美濃を攻略できた要因としては、急激な美濃(斎藤家)の弱体化が挙げられる。


まず始めに1556年、『斎藤道三の死(長良川の戦い)』のところで書いた通り、美濃のマムシと呼ばれた斎藤道三が、家督を譲った息子の斎藤義龍から攻められ、滅ぼされてしまう。


これだけならよくある話と言えなくもないのだが、続いて1561年、今度はその斎藤義龍が33歳という若さで病死してしまう。


そこで義龍の息子の龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐことになった。


この斎藤龍興については、あまりよい評判は伝わっていない。

いや、むしろ悪評が目立っていると言っていい。


後に秀吉の軍師となる竹中半兵衛のWikipediaによると、『龍興は酒色に溺れて政務を顧みようとせず、一部の側近だけを寵愛して重治や西美濃三人衆を政務から遠ざけていた』とある。

そのため、当時斎藤家に仕えていた竹中半兵衛は一計を案じ、1564年に安藤守就と共に少数の兵を率いて稲葉山城を占拠してみせるのであるが、ここで注目すべきは、龍興は1548年の生まれであり、当時はまだ16歳か17歳だったことである。


つまり、先の竹中半兵衛の記載と合わせると、龍興は16歳か17歳で既に酒色に溺れていたことになるのだ。

これは現代で言えば、社長が突然亡くなって17歳の息子が次期社長になり、すぐに酒と女に溺れて会社の経営をほったらかしているようなものだ。

これでは誰もついて行こうとは思うまい。


やがて、寵愛を受けている一部の側近以外の家臣は、どんどん龍興を見限っていくようになった。

先ほど出てきた西美濃三人衆とは稲葉良通、安藤守就、氏家直元の三人を指すのだが、いずれも美濃西部の有力な武将でありながら、悉く斎藤龍興に見切りを付けて信長に靡いた。


一方、一度は稲葉山城を占拠してみせた竹中半兵衛は、ほどなく城を放棄して、誰に仕えるでもなく隠居同然の身となった。(後に秀吉に請われて信長の配下となり、秀吉の軍師として活躍している)

こうして斎藤龍興の治めていた美濃は、脆くも内側から崩れていったのである。


そこへ信長が攻め込んだのだ。

どう転んでも斎藤龍興に勝ち目は無かったと言っていい。

落城寸前となった稲葉山城を打ち捨て、斎藤龍興は北伊勢の長島へと落ち延びていった。


その後も斎藤龍興は長島一向一揆に参加するなどして、信長には生涯反発し続けていたが、最終的には越前の朝倉義景の下へと身を寄せ、刀根坂の戦い(一乗谷城の戦い)にて織田軍と戦い、その命を落とした。

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