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雑記(2)

ときに永禄3年(1560年)5月、今川義元は織田信長がいる尾張の国へと侵攻した。

義元としては用意周到、準備万端整えての尾張侵攻であった。


実は尾張侵攻の6年前に、今川義元は相模をはじめ関東に勢力を持つ北条氏康、信濃・美濃に勢力を持つ武田信玄と共に、三国間で不戦同盟を結んでいる。

世にいう甲相駿三国同盟である。


この同盟が成立した時点で、東を北条家、北を武田家、南を海に囲まれている今川家としては、侵攻するなら西以外になく、今川義元が西の尾張に侵攻するのはほぼ必然だったのだ。


というか実際には、今川義元が上洛を目指して西へ侵攻するためには、後顧の憂いを無くしておく必要があり、そのために今川義元は北条氏康と武田信玄に三国同盟を持ち掛け、首尾よくこの同盟を締結させたのであった。


この時、後の徳川家康となる松平元康は今川義元の配下にあった。

松平元康の元は、義元の元の一字をもらい受けたものだ。


この尾張侵攻では、松平元康は今川義元の先鋒の役を担っていた。

桶狭間の戦いに先立ち、彼は織田方の丸根砦と鷲津砦に攻撃を仕掛け、これを落としている。


義元としては、まず松平元康に露払いをさせ、支城を落としながら侵攻ルートを確保しつつ尾張へ向かう算段だったのである。


桶狭間の戦いは、「今川義元が油断しているところを信長が奇襲した」との見方が一般的であるが、実際はそんな事はなく、彼は松井宗信・井伊直盛・瀬名氏俊らの部隊を先行して布陣させ、しっかり警戒に当たらせていた。


皮肉なことに、かえってそれが先行部隊と義元本隊との間に距離を生むこととなり、本隊が手薄になって、急襲してくる敵を防ぎ切れない要因となったのだ。(もちろん、他にも要因はあるが)


義元としては、尾張方面から近付いてくる敵は全て事前に察知できるはずであった。

誤算だったのは、信長軍が少数の兵で夜陰に紛れて迂回しているところを、先行部隊が察知出来なかったことにある。

折りしも降り始めた大雨によって周囲の音がかき消され、普段なら察知できたであろう敵が察知出来なかったという事情もあったであろう。


この戦いで今川義元は討たれてしまったが、彼は最後まで必死に戦った。

その様子は「桶狭間の戦い」のWikipediaに次のように描かれている。


「乱戦の中、今川義元は太刀を抜いて自ら奮戦し、一番槍をつけた服部一忠に反撃して膝を切り割ったが、毛利新介によって組み伏せられ、首を討ち取られて死亡した(享年42歳)。『水野勝成覚書』の伝聞によれば、今川義元は首を討たれる際、毛利の左指を噛み切ったという」


「こんな所で死んでたまるか」という、彼の執念が伝わってくるようだ。

彼の死は、無様に逃げ惑いその背を討たれるような死ではなく、刀を抜いて武将らしく最後まで戦った末の死であった。


今川義元といえば、おじゃる丸みたいに「のほほん」とした貴族のような武将としてキャラ付けされていたり、桶狭間の戦いでは信長の奇襲にオロオロと逃げまどっている描写をされたりしている事があるが、実際にはそんなことは無く、彼は奇襲を受けて不利な状況の中、武将らしく最後まで必死に奮戦して死んだのである。


負けを悟って自ら戦うことなく切腹し、見方の介錯によって死に果てるという武将も多い中、最後まで敵と切り結んで必死に戦った彼の姿には、心を動かされずにはいられない。

これを読んで、僕はなぜか、ザリガニを生きたまま餌としてカメやフグに与えている動画を思い出してしまった。(そういう動画がYouTubeに上がっている)


尻尾の大半を食いちぎられてもなお、大きくハサミを振りかざし、食べられまいと必死に威嚇しているザリガニの姿を見ると(そしてそんな必死の威嚇も虚しく、最後は食べられてしまう姿を見ると)、僕は胸をきゅんと締め付けられる心地がするのだ。


何をどう感じるかは人それぞれだから、「今川義元は往生際が悪かった」と思っている人は案外多いのかも知れない。

それも一つの歴史の見方には違いなく、一方的に否定することはできないが、それでも僕は、なりふり構わず必死に戦った今川義元は立派な武将だったと思っている。


決戦の舞台となった桶狭間(おけはざま)は、その字面からは(おけ)のように窪んだ狭い場所を想起させる。

ところが桶狭間とは、もともとは桶狭間山という山の名称がその由来になっている。(信長公記にも、おけはざま山との記載が見られる)


僕は、桶狭間なんて歯の隙間みたいなものかと思っていたので(何だそれ)、そこが山だと知った時はかなり意外であった。


このような誤解を生んだ原因は、明らかにこの戦いが「桶狭間の戦い」として歴史に刻まれている(教科書に書かれている)ことにある。

最初から「桶狭間山の戦い」と記していれば何の誤解も生まれなかったはずなのに、あえて「山」を省略して「桶狭間の戦い」としたのは、何か意図があっての事なのだろうか。


いつの日か教科書に「桶狭間山の戦い」と記されることを期待したい。


気になって「桶狭間山」の地形をGoogle Mapで確認してみたのだが、山というよりは、なだらかな坂のような印象を受けた。


どちらかと言えば「桶狭間坂」なんじゃないかと思ってしまった。

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