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雑記(2)

古文の話はともかく、合戦に際して信長は、敦盛(あつもり)を舞うことで精神を統一して集中力を高めたとされている。(本作品に出てくる「あ乳盛(ちちもり)」はもちろん冗談だ)


こういった精神統一や意識の集中は、特にスポーツ選手の動作として顕著に見る事が出来る。

元メジャーリーガーのイチローは、ネクストバッターズサークルから打席に入って構えるまでの動きが最初から最後まで決まっていた。

ラグビーの五郎丸選手はプレースキックの際、決まってカンチョーポーズをしていた。


だが、緊張する場面で事前に決まった動作を行っているのはイチローや五郎丸選手だけに限らない。

例えばプロ野球選手なら、誰でも打席に入る時はその人固有の決まった動作を繰り返しているものだ。(そしてそれがしばしばモノマネ芸人によってマネされる(わけ)だが)


相撲でもそう。

塩の()き方一つをとっても、毎回人それぞれに決まった動作を繰り返している。

大量に塩を(つか)んで豪快に土俵に撒く力士もいれば、申し訳程度に塩を握りチョロっと足元に撒く力士もいる。


人それぞれの差こそあれ、各々がそうやって決まった動きをする事で、気持ちを集中させて戦いに挑むのである。


昨今では、このようなお決まりの動作はルーティーンと呼ばれていたりする。

昔のPCなんかでプログラミングをした事のある人には、ルーティーンよりもルーチンという言葉の方が馴染み深い。メインルーチン、サブルーチンなどとよく言っていたものである。


知る人ぞ知る昔のN-88 BASICでは、GOSUB文でサブルーチンを呼び出してRETURN文でメインに戻していた。もっと前のN-BASICでは、恐ろしいことにGOSUB文すら実装されていなかったため、GOTO文でサブに飛ばしたりしていた。

あぁ懐かしい。


今では構造化プログラミングなどといって、GOTO文はほとんど使われない。

使われるとしたら、多重ループから一気に抜けたい時くらいであろう。


話が逸れたが、このルーティーンには同じ動きをすることで頭を使わずに済むという利点がある。

同じ動作を繰り返す事で、意識して(頭を使って)動作する状態から、無意識で(条件反射で)動作する状態へと変化させるわけだ。


プロ野球選手が、ひたすら素振りを繰り返したり、千本ノックを受けたりして必死で練習するのは、向かってくるボールに対し、条件反射で素早く反応できるようにするためなのである。

人の動作のうち、最も素早いものがこの反射なのだ。


例えば西部劇などでは、荒野の中、二人が向かいあったまま、お互いに腰の拳銃に手をかけてじっと(にら)み合うようなシーンが出てくる。

この時、二人は何をしているのかというと、お互いに相手の手(拳銃に触れている手)を凝視しているのだ。そして相手の手が僅かでも動いたら条件反射で腰から拳銃を抜いて撃てるよう、身構えている。


面白いことに、一度対峙してしまうと、相手を撃とうとして先に動いた方が負けになるのである。相手を撃とうとして自らの意志で拳銃を抜いて撃つ動作よりも、相手の動きに反応して反射的に拳銃を抜いて撃つ動作の方が、(わず)かに動きが早いためだ。


皮肉にも、先に相手に動いてもらい、反射を利用して撃った方が素早く撃てるのである。(これを「後の先」という)

人体が持っている面白い性質の一つだと思う。


先ほどスポーツ選手が行っているルーティーンの話をしたが、これはスポーツ選手に限った特別な話ではなくて、ふつうのサラリーマンや学生にもそれぞれルーティーンがある。


例えば、僕が通勤に電車を使うときは、行きも帰りもいつも駅のホームの同じ場所から電車を乗り降りしている。(これだって広義的には立派なルーティーンだ)

これはサラリーマンでなくても、たぶん学生でもそうなっていると思う。


べつにホームの決まった場所から電車に乗る必要など無いのに、みんな飽きずに同じ場所を使う。(例外は電車に乗り遅れそうな時だ。この時ばかりは近くのドアに駆け込むしかない)

そのせいで、いつも同じ時間にホームの同じ場所で同じ人を見かける事になる。


「お前、いっつも俺の隣りに並ぶよな」なんて僕は毎回思っているが、向こうは向こうで「お前、俺がホームに来た時、いっつもそこに並んでるよな」と思っているに違いない。

そうして来た電車に乗り込むと、これまたいつも同じ席に同じ人が座っている。たまには座る席を変えたっていいはずなのに、大体みんな同じ席に座っている。


「僕は毎日、駅のホームに並ぶ場所を変えている」とか、「毎日電車に乗る時間を変えている」なんて人は居ないはずである。

それはおそらく、ルーティーン化することで頭を使わず、楽に効率的に行動する事が出来るからなんじゃないかと思う。

皆、余計な事に頭を使いたくないのだ。


プロ野球では、勝利の方程式などといって、試合にリードしている場合、8回はこの投手、9回はこの投手というように、それぞれのイニングで投げる投手があらかじめ決まっている事が多い。

これは投手の立場から見ると、自分がどのイニングで投げるのかが前もって分かっていて、それに向けての準備がしやすいという利点があるが、この方式の最大の利点は、監督が誰をいつ投げさせようかという事に頭を使わずに済むという点にあるのだろうと思う。


また、仮にその投手が打ち込まれて逆転負けを喫したとしても、そういう決め事なのだから仕方が無いと割り切る事もできる。

人は自分で考えて決めるより、決まり事に従う方が楽なのだ。

(人が宗教にのめり込む原因の一端がここにある)


ここでまた僕の個人的な昔話をしてしまうのだが、会社勤めを始めたばかりの若い頃、僕は勤めていた会社のすぐ近くの店に通いつめた事があった。


その店は、通常営業としては夕方に開店する居酒屋風の飲み屋なのだが、昼にはランチサービスがあったのだ。当時の僕は、昼食は必ずそこへ行って日替わりランチを食べていた。


一度そう決めてしまえば、今日はどこで何を食べようかと思い悩む必要は無い。

日替わりランチだけに、出てくる料理は日によって変わり、こちらがあれこれ考えなくてもメニューは向こうが勝手に考えてくれる。

僕は出されたものを食べるだけだ。


好き嫌いが激しい人だと、メニューによっては食べられないものもあるだろうが、僕は好き嫌いがほとんど無いので、そういう心配が不要なのであった。

値段はたしか700円で、ランチとしては手頃であった。


毎日通うと飽きるんじゃないかと思う人もいるだろうが、僕はかえって同じ場所の方が落ち着く性質(たち)なのだ。

来る日も来る日も、会社の昼休みには欠かさず食べに行っていたから、店の人も最初の一週間くらいは「あれ? この人また食べに来てる」という感じで怪訝そうな顔をしていたが、やがてお互いに慣れて、会計で僕が「ご馳走さまでした」と言うたびに「いつもどうもありがとねー」なんて気さくに言われるようになった。

(その店は夫婦で切り盛りしている店で、女将さんが配膳やレジでの会計をしていたのだ)


この「いつも」という一言が常連の証なのである。

このセリフは、通い詰めて顔見知りにならないと言われない。


そのうち大将にも声をかけて貰えるようになり、僕が会計を済ませると、わざわざ厨房から顔を覗かせて「毎度〜」なんて言ってくれるようになった。そうなると、こっちにも変な義理のようなものが生まれ、余計に他の場所では食べられなくなってくるのであった。

(僕の勝手な思い込みだが)


結局、勤務地が変更になるまでの約半年間、僕はこの店にずっと通い続けた。

今からもう25年くらい前の話だ。


思わず気になってグーグルマップのストリートビューでその店の前の通りを確認したら、当時僕が勤務していたビルは建て替えられていて、周囲の街並みもすっかり様変わりしてしまっていたが、その店は今でも営業を続けているらしく、見覚えのある看板を当時と同じ場所に見付けることが出来た。


嬉しさと懐かしさで、胸がいっぱいになった。

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