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雑記(1)

敦盛(あつもり)とは何かと調べると、幸若舞(こうわかまい)の演目の一つと書かれている。


幸若舞とは語りを伴う曲舞の一種であり、曲舞とはストーリーを伴う物語に韻律を付して節と伴奏を伴う歌舞のことで、中世に端を発する日本の踊り芸能なんだそうだ。


ふーん。

僕にはただ、「ふーん」という感想しか出てこない。

正直、どうでもいい。

「踊り芸能」っていう言い方が、少々引っかかる程度だ。


僕は、歌舞伎や能や狂言といったものに対しては、全く興味が無い。

外人受けを狙うにはよいのかも知れないが、こんなもの無くなったってちっとも構わないと思っている。


別にこれらを無くせと言っている(わけ)ではない。

あっても構わない。

だが、無くてもいい。


一部の人たちに根強い人気があって現在でも事業として成り立ち、儲かって継続している分にはいいが、国が補助しなければ立ち行かないような伝統ならば失くして構わない。

落ちぶれた伝統にしがみつく義理など無い。(歌舞伎や能や狂言が、今どういう状況に置かれているのかは知らないが)


そのような伝統芸能は、最後に記念公演でも開催して、動画に撮って保存しておけばそれで充分だ。

再開しようと思えば再開出来るような状態にしておきつつ、廃止してしまえばいい。

また見たくなったら、その動画を見るまでだ。


僕が能や狂言と聞いて思い出すのは、かつて狂言師の野村萬斎がNHKの「日本語で遊ぼ」という番組で「ややこしやー、ややこしや」と歌っておかしなステップを踏んでいる姿くらいである。(もうずいぶん前の話だ。もしかすると野村萬斎の中では黒歴史になっているのかも知れない)


こんなものは能でも狂言でもなく子供騙しのお遊びだったのだろうが、とはいえ本物の狂言師である野村萬斎が演じているからには全くのデタラメとも思えず、何となく初心者が狂言の雰囲気を掴む事の出来るクオリティにはなっていただろうと思われる。

だが、当時の僕がそれを見ても、ただ物珍しいだけで面白いとすら思えず、単にいい大人が真顔でフザけているようにしか見えないのであった。


どうやら僕は、こういった古典芸能とはつくづく相性が悪いらしい。


比較対象として適切ではないが、どうせフザけた動きを見せられるのであれば、ピコ太郎のPPAPの方が遥かに気が利いていると思う。

無論、戦国時代に武将が PPAPを踊るはずはないし、そもそも舞はダンスでもなければ、PPAPとも違う。

ただ決められた型に従って、しずしずと舞うのである。


ここでゆっくり2歩進み、扇を開いて左へ返しながら身体を捩り、視線は扇の先を見て……とか、ここは閉じた扇を前に向け、歩幅を狭めてスススっと5歩進む、とかいうように、最初から最後まで全てに決まった型がある。

完全な規定演技であり、アドリブを差し挟む余地は無い。


動きに自由が無い反面、決められた事さえしていればいいという利点もあり、決まり事を守る事だけに集中する事ができる。自分の動きに集中する事で雑念が消えて、精神統一ができる(わけ)である。


信長は好んで敦盛を舞った。

敦盛にも同様の効果があり、それを舞うことで心を落ち着けていたんだと思う。

で、敦盛といえば、有名な一節がこれ。


……

人間五十年

下天の内をくらぶれば

夢幻のごとくなり

一度生を得て

滅せぬ者のあるべきか

……


「人生なんて、五十年程度であっという間に終わってしまう夢や幻のようであり、いずれ誰もが死んでいくのだ」といった意味であろう。

人生を諦観している雰囲気が、どことなく平家物語と似通っている。

平家物語の冒頭の部分は、中学の国語の授業で暗記させられたはずだ。


……

祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。

娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。

驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。

猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

……


見て分かる通り、驕れる人や猛き者の人生を、夢だの(ちり)だのと言っている。

ビルゲイツやジェフベゾス、イーロンマスクとて、この例外ではない。

偉そうにしている貴方の会社の上司や、生意気な部下もそう。

人はみな(ちり)であり、ゴミであり、クズである。(拡大解釈が過ぎる)


平家物語といえば、ここまでは誰もが常識として知っているであろうが、これにはもちろん続きがある。

余力のある人は、出来ればこの続きも覚えておくとよい。

少しだけでもいいから他の人より先へ進もうとする意識が大切である。

続きはこうだ。


……

遠く異朝をとぶらへば、

秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、

これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、

樂しみをきはめ 諌めをも思ひ入れず、

天下の乱れん事を悟らずして民間の愁ふるところを知らざりしかば、

久しからずして亡じにし者どもなり。

近く本朝をうかがふに、

承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信賴、

これらはおごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、

まぢかくは六波羅の入道、前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のあ

りさま、伝へ承るこそ心もことばも及ばれね。

……


僕は中学時代にここまで覚えている。

若い頃の記憶は強烈であり、かつ、その後もたびたびこの文句を(そら)んじてきているので、僕は今でもこれをスラスラと暗誦する事ができる。(プチ自慢)


これは一度試してもらうと分かるが、文体の美しさと口にした時のリズムの良さとが相まって、文章こそ長いものの、誰でもその気になれば意外にすんなりと覚える事が出来るはずだ。

それもそのはず、もともと平家物語とは琵琶を弾きながら弾き語りで語り継がれてきたものなのだから、読み易く覚え易いのも(むべ)なるかな、である。


ついでに僕の経験を言っておくと、こういう文語体の文章(古文)は、とにかく暗記しまくるのが良い。忘れてしまう事を恐れずに、どんどん暗記したい。

最初は意味が分からなくても、暗記しているうちにその意味が理解出来てくるものだ。係結びなんて教わらなくたって、「こそ」が出てきたら続く言葉が変化するんだよな、という事が体感で分かってくる。


また、長い文章を暗誦しようと思えば、嫌でも意味を把握せざるを得なくなってくる。

意味のない言葉の羅列を暗記するよりは、その方が遥かに楽だからである。


暗記しようとしているうちに、自ずと理解が深まる。

これも暗記の隠れた利点と言えるだろう。

(とはいえ、それが自分にとって何の興味も引かれない文章だった場合は、やはり暗記するのは苦痛に違いないが)

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