雑記(1)
……あ、あれ?
もしかして、怒ってます?
嫌だなぁ、冗談に決まってるじゃないですか。
そう興奮しないで。
冷静になりましょう。
あ、ちなみに今のセリフは、世に言う「空白の一日事件」で読売ジャイアンツに入団した江川卓がマスコミに対して言った言葉だから。
ま、「知るかよ」って話だろうけど。
4月といえば桜の季節だ。
入学、入社、新年度。
環境を変え、気持ちを変え、新しいチャレンジを始めるには最適なシーズンでもある。
新しい場所、新しい世界で、新しい人に出会うと共に、新しい自分にもまた出会えるのだ。
期待と希望と、そしてちょっぴり不安も入り混じる。
4月とは、誰にとってもそんな季節ではなかろうか。
斎藤道三は息子の義龍との戦いに敗れて命を落とした。
1556年4月の出来事だ。
戦場となった長良川には、まだ桜の花びらが残っていたかも知れない。
実は、この長良川の戦いから2年ほど前の1554年2月頃に、道三は義龍に家督を譲っている。(自ら譲ったというより、家臣から交代を迫られて仕方なく譲ったものらしい)
既にこのとき、斎藤家の当主は義龍へと変わっていたのである。
家督を譲った道三は、剃髪して入道を済ませ、隠居の身となった。
これまでに何度も斎藤道三と記してきたが、実際には、彼が道三と名乗るようになったのは、この隠居のタイミングであった。
斎藤道三の本名は、斎藤利政という。
こう書くと、どうしても一気に小者感が増してしまう。
ていうか、ふつうに誰の事か分からない。
やはり、道三は道三でなくては絵にならぬ。
家督を譲っているのだから、斎藤家としての主力は当然、義龍が握っている事になる。
17000対2500というのは、その兵力差がモロに出たものと見える。
斎藤道三もまた、この時代にはよく見られるように、子だくさんであった。
Wikipediaで子の数を数えたら、18人もいる。
野球チームが2チーム出来てしまう。
バレーボールなら3チームだ。(ビーチバレーなら9チームだが)
少子化の今の時代からは考えられない数である。
義龍はその中の長男であったが、なぜか父の道三からは疎まれていた。
道三は長男よりも、次男や三男を可愛いがったのである。
デキが悪いからというのがその理由と目されているが、果たして本当にそうか。
(ちなみに、帰蝶は正室である「小見の方」の子であり、義龍は側室の「深芳野」の子だから、二人は腹違いの兄妹にあたる)
僕は、もしかすると義龍は、道三の子では無かったんじゃないかと疑ってしまう。
つまり、深芳野が他の誰かと関係を持ち、その子を義龍の子と偽ったんじゃないかと疑っているのだ。
道三もそれに気付いていたからこそ、本来なら可愛いがって然るべき義龍を嫌ったんじゃなかろうか。
そう思う根拠は、二人の顔が(顔の骨格や輪郭が)全然似ていないからである。
いま僕はモニター画面上で二人の肖像画を見比べているのだが、道三が顎の尖った細くシャクレた顔をしているのに対し、義龍は下膨れでエラの張った大きな顔をしており、骨格からして全然違う事が見てとれる。
親子でここまで顔の骨格が違っているというのは、いかにも不自然だ。
それに、側室の深芳野は、元は土岐頼芸の妾(現代でいう愛人)だったというから、ビッチとしての素質にも期待が持てそうだ。(どんな期待だw)
もしかすると当の本人も、義龍がいったい誰の子なんだか分からなかったのかも知れない。
さすがにそれは無いか。
ところでこの深芳野という女性、なんと身長が187cmもあったらしい。
あのデカいと言われる和田アキ子だって身長は174cm、南海キャンディーズのしずちゃんでも身長は182cm、元全日本女子バレーボール選手だった大林素子でさえ身長は184cmだ。(ソースはすべてWikipedia)
圧が凄ぇ。
威圧感◎じゃねーか。
その血を受け継いだ義龍は、さらにデカい。
驚きの身長197cmである。
ジャンボ鶴田かよ。
元全日本男子バレーボール選手の河合俊一よりデカいぞ。
(比較対象が古くてスマン。僕らの世代はこの方がイメージが湧くのだ)
一方、織田信長は援軍に向かったが、結局この「長良川の戦い」には間に合わなかった。
斎藤道三は、その気になれば他国へ落ち延びる事も出来たのではないだろうか。
籠城して周囲を取り囲まれていた訳ではないのだから、逃げるという選択肢は常にあったんじゃないかと思う。
それこそ、帰蝶と信長を頼って尾張へ向かうとか。
そうしなかったのは、マムシと呼ばれた道三の美学とプライドが許さなかったからかも知れない。
なお、長良川は「ながらがわ」と読む。
「良」を「ら」と読むというよりは、「ら」という音に「良」という字を充てたのであろう。
理由はもちろん、縁起がいいからだ。
良を「ら」と読む例としては、奈良、世良、吉良、曽良なんかが頭に浮かぶ。
それで思い出したのだが、僕が通っていた中学の一つ上の先輩に、良知という苗字の先輩がいた。
知り合ったキッカケは、市だか県だか忘れたが、僕が合唱コンクールの練習に呼ばれた事だった。
合唱部の顧問をしていた音楽の先生が「もし良かったら、合唱部が出場するコンクールに参加してみない?」と、僕に声を掛けてきたのだ。
合唱部の男子の人数が足りないから、コンクールまでの間だけ助っ人として参加して欲しいという要請だった。
この音楽の先生は、若くて可愛い女の先生だった。
たぶん大卒一年目の先生だったと思う。
当時僕は中学2年生だったのだが、先生はその時点で僕よりも背が低かった。
音楽の先生が若くて可愛いというのは、中学校では割とあるあるなんじゃなかろうか。
最近はどうか知らないが。
そんな先生が至近距離から僕を少し見上げるようにして、キラキラした目でさっきのセリフを言ってきたのだ。
こんなの絶対断れないでしょ。
それに僕は、断って先生が寂しそうな顔をするのを見たくなかった。
返事は明日でいいと言われていたので、翌日、了承した旨を伝えると、パッと表情が明るくなって、「すごく助かる。ありがとう」と言って喜んでくれた。
先生。
そんな笑顔が見れるなら、僕は先生に毎日でも頼み事をしてきて欲しいです。
心の中で、そう呟いた。




