雑記(1)
天文22(1553)年4月、信長は斉藤道三と正徳寺で初めて顔を合わせた。(厳密には、道三というのは隠居時の名で、当時はまだ道三では無かったが)
これが「正徳寺の会見」である。
信長から見れば、嫁である帰蝶の父親との初めての対面だ。
嫁の父親に会う時の緊張感は、現代人でも大して変わらない。
そして、その最初のタイミングは多分、結婚の意志を彼女の両親へと伝えに行く時であろう。
「お義父さん、○○さんを僕に下さい! 必ず幸せにしてみせます!」
「君にお義父さんなどと呼ばれる筋合いは無い! ○○はまだ誰にもやらん!」
「まぁまぁ、お父さん。そう頭ごなしに言わなくても……」
……なぁんてベタな会話が繰り広げられるかはともかく、これは男にとってできれば避けたいイベントの一つである事は間違いない。
心情的には、会わずに済むならそれに越したことは無いが、世間的にはそういう訳にもいかない。
かくいう僕も、そのイベントをずいぶん昔に経験しているのだが、正直そこでどんな話をしたのかはよく覚えていない。
おそらく「○○さんと結婚させて下さい」という言い方をしたんだろうと思う。
「僕に下さい」という言い方はしていないはずだ。
何だか彼女をモノ扱いしているような言い方は、僕の感覚とは相容れないからだ。
僕がそんな事を言うはずが無い。
また、「幸せにします」とも言っていないはずだ。
僕は当時から収入が少なくて、むしろ結婚したら苦労をかけるだろうと思っていたし、人の幸せは各自が感じるもので他人がどうこう言えるものではないとも思っているからだ。
……と、ここまで書いてきて、ようやく思い出した。
僕が嫁の父親に会いに行ったタイミングは、彼女と同棲を始める前のことだった。
僕はその時すでに彼女と結婚する気でいたから、彼女の両親に対して失礼の無いようにと思い、それなら黙って彼女と同棲を始めてその後に挨拶に行くのではなく、同棲する前に挨拶に行くのが筋であり、礼儀だと考えたのだ。
彼女は「黙って同棲しちゃおうか」などと言っていたが、僕は「それはダメ」と即座に断った。
20代半ばまでなら許されるかも知れないが、30を過ぎた男が、相手の両親に挨拶にも行かずに彼女と同棲を始めるというのは、僕にとってはあり得ない話だった。
当日は彼女の実家に泊めてもらい、彼女の両親や兄弟姉妹たちと会って話す機会を得たが、そのときどんな話をしたかのかは正直全く覚えていない。
せいぜい、皆から好意的に迎えてもらった感覚だけを覚えている程度だ。
それよりも僕の印象に残っているのは、彼女の姉がとても明るい人であり、どういう訳か初対面にも関わらず意気投合した事であった。
「この人と結婚したら、絶対楽しい家庭になるよなぁ」と思った事は今もよく覚えている。(当時、彼女の姉は独身であった)
ちょっと不謹慎だが、もしも僕が彼女の姉ともっと早く知り合っていたら、僕はこの人と付き合っていたんじゃないかと思う。
僕自身がそうであったように、結婚の挨拶をしに行ったら、その時会った相手の兄弟姉妹を好きになってしまったという人は、意外に多いんじゃなかろうか。
中にはそこから一線を越える関係になっちゃったりとか……。
僕にとって良かった事は、彼女の姉の住まいが僕の住んでいる場所から非常に遠かった事である。
お陰で変な気を起こす心配は無かった。
もちろん、このことは嫁には内緒である。
(誤解の無いよう付け加えておくが、これは僕が嫁との結婚を後悔しているといった話ではない)




