雑記(1)
前にも書いたとおり、平手政秀は織田家の家老(最終的には宿老)であると同時に、信長の教育係であった。
現代で言えば、小さい頃から信長を教えてきた家庭教師のようなものである。
家庭教師の役割は、生徒の学力を高め、成績をアップさせ、レベルの高い学校に進学させることにある。
ずっと家庭教師をつけてきたのに、一向に成績が上がらないとなれば、家庭教師としての責任を問われるのも仕方がないことだ。
しかしながら信長は、うつけに見えても頭は切れるのであり、信長の教育係として彼を長く間近に見てきた平手政秀も、信長がただのうつけでない事は充分に理解していただろう。
だが、平時ならともかく、時代は戦国。一刻も早く尾張を纏め上げて外敵に備えなければ、いずれは他国に飲み込まれてしまう。
やがて信長にも当主としての自覚が芽生えるであろう事は分かっていても、宿老の平手政秀として織田家の置かれた状況を見れば、それを悠長に待っている事は出来なかったのである。
そこで彼は、信長の自覚と成長速度にブーストをかけるべく、信長を諌めた遺書を書き、自らの命を絶ったのだ。おそらく彼の中には、そうする事で信長が覚醒するという確信めいたものがあったに違いない。
(これについて、「平手政秀は信長の素行不良を嘆いて死んだ」と表現されることがあるが、さすがに端折り過ぎであろう。彼が信長の素行不良を嘆いていたのは事実であろうが、彼は信長を嘆いて死んだのではなく、信長を諌めて死んだのだ。誤解無きよう)
もしも平手政秀が信長をただのうつけと見て、彼を見限っていたのだとしたら、彼には弟の信勝を擁立するという選択肢だってあったはずである。
それに、そもそもそんなうつけの為に、自ら進んで諫死する道を選ぶ者などいない。
バカの為に死ぬのは、なおバカである。
だが彼は命がけで信長を諌めた。
誰にでも出来ることではない。
そして、この平手政秀の思いは確実に信長に届いた。
その後の信長の活躍は、歴史が記す通りだ。
彼は自らの死をもって、信長を導いたのである。
平手政秀の死後、信長は彼を弔うために政秀寺という寺を建てている。
信長はどんな思いでこの寺を建てたのだろうか。
僕らはただ、想像するしかない。
……で、ここからは個人的な昔話。
僕は家庭教師の仕事はした事が無いけれど、中学生相手の塾講師のバイトなら学生時代にした事がある。
最近は少子化の影響か、中学生が通う塾のほとんどが個別指導を謳うようになり、先生一人に生徒一人のマンツーマン形式や、先生一人に生徒2人のマンツーツーマン形式、先生一人に生徒3人のマンツースリーマン形式(そんな言い方しないけど)といった授業が主流になっているが、僕らが学生の頃は、一つの教室に生徒を何十人も詰め込んで、3〜4人で1つの長机と長イスをシェアしながら一人の先生の授業を受けるという、多人数の集団授業形式が一般的であった。
当時から家庭教師は存在していたが、あまり一般的なものではなく、少なくとも僕の周りには家庭教師をつけていた人は一人もいなかった。
おそらく、それほど普及していなかったんじゃないかと思う。
(たまたま自分の周りには居なかっただけかも知れないが)
家庭教師と聞いて思い出すのが、「ふくろう博士の家庭教師」という昔のテレビCMである。
CMの最後に、中年のオジさん(おそらくこの人が「ふくろう博士」なのであろう)がドヤ顔で「やる気に、させます」と言うのだ。
それなりにインパクトのあるCMだったから、昭和生まれの人なら、たぶん覚えているはずだ。
だが、家庭教師が「やる気にさせます」と言うのも、本来おかしな話で、「じゃあ、ふくろう博士が教えている生徒は皆、やる気の無いヤツばっかりなのか」ということになってしまう。
やる気にさせるより、勉強を教えてやれよ。
また、家庭教師を付ける側も、せめて自分の子供が勉強をやる気になってから家庭教師を付けて欲しいものだ。
大きなお世話か。
近年では、とある塾のCMで「君のやる気スイッチを見つけてあげるよ」的なことを言っていたのも記憶に新しい。
果たして彼らの「やる気スイッチ」は見つかったであろうか。




