雑記(1)
信長の父の織田信秀は、尾張で着実に勢力を伸ばしていたが、天文21年(1552年)3月に病で死去した。
病で死んだということは、我が身に死が近づいてきたことを自覚しており、言い残しておきたい事を言い残す時間的余裕があったということになる。
もしも信秀が信長をうつけと認め、弟の信勝を跡継ぎにしようと思ったなら、そう言い残して死ぬ事も可能だったはずだ。
しかしそのような事実は無いし、信秀が信長を忌み嫌っていたという話も聞かない。
このことから信秀は、信長をうつけとは見ておらず、また信長が自分の跡継ぎには相応しくないといった考えも、持っていなかったんじゃないかと考えられる。
むしろ信秀は信長に大器を感じ取り、好きにさせていたのではなかろうか。
有能な人物は、有能な人物を見抜くことができるのである。
信長が有名になり過ぎて陰に隠れてしまっているが、実際、父の信秀も武将としてはかなり優秀な人物であった。
後に信長が尾張を統一し、天下布武へと向かう礎を作り上げたのは、まさにこの信秀の功績なのである。(後継者となった信長は、信秀が作り上げた軍団をそのまま引き継いでいる)
というか、信秀の最大の功績は、信長をこの世に生み出した事なわけだけど。
さて、今回取り上げた、信長が父の信秀の葬儀で位牌に抹香を投げつけたという逸話は有名で、これは『信長公記』の記録が元になっている。
『信長公記』は信ぴょう性が高い史料であることが知られており、この逸話が事実であった可能性は高い。
信長が位牌に抹香を投げつけた理由については、故意にうつけを演出してみせたという見方が有力らしいが、僕はそうは思わない。
そもそも、ひたすら辛抱して自分を押し殺し、長い間ずっと「うつけ」を演じ続けるなんて事を、あの信長がするだろうか。
だいいち、周囲から「うつけ」と見られる事は、メリットよりもデメリットの方が遥かに大きいはずだ。
まず、自分に付き従う家臣が減ってしまう(味方が減る)。
たとえ味方に付いてきたとしても、日頃からうつけ者として見られていたのでは、肝心なところですぐに寝返られてしまう。
また、他国から攻撃の標的にされる。
「うつけが相手なら、戦をすれば勝てそうだ」などと思われたら恰好の標的にされる。
他国から攻め込まれるリスクを増やすだけだ。
考えられるメリットは、せいぜい能力の高さを警戒されないとか暗殺されないといった程度であろう。
確かに暗殺されてしまっては元も子もないが、当時の信秀の勢力がそこまで周囲から警戒されていたとも思えないし、実際に織田家の内部で暗殺が横行していたという事実も無い。
要するに、「うつけ」を演じるのは割に合わないということだ。
信長は、合理的で自分を曲げない事で知られている。
理屈に合わず、また多大な辛抱を強いられる「うつけの演技」を、彼がしていたはずは無いのである。
当時の信長は、うつけでもなければ、うつけを演じていた訳でもなく、ただ自分のやりたい放題、好き勝手な事をしていただけであった。
それが周囲からは、うつけと見られたのだ。
おそらく、父の信秀が生きているうちは全て父に任せ、自分は好き勝手にしたい事をしようという魂胆だったのではないかと思われる。
一言で言えば、モラトリアムの謳歌である。
現代で言うと、学生とは名ばかりでまともに勉強などしておらず、就職して社会人になるまでは自由に遊び回っているような大学生だったり、あるいは大学を卒業しても「若いうちにやりたい事をしよう」と考えて定職に就かない若者の感覚に近いかも知れない。
父の信秀の跡継ぎという自覚はあったものの、いざ後を継いで当主になってしまったら、それまでのように好き勝手にやりたい放題という訳にはいかない。
それを知っていたからこそ、信長は若いうちにひと時の自由を謳歌しようとしたのではなかろうか。
そして、そんな矢先に父の信秀が病死してしまった。
信長の心境としては、「何でこんなに早く死んじまったんだ。俺はもうしばらく自由に生きていたかったのに。おかげでこれからは織田家の当主として窮屈な生活を送らなきゃいけなくなっちまったじゃないか、バカヤロウ!」という感じだったんじゃないかと推測する。
そういった信長の苛立ちが、父の位牌に向かって抹香を投げ付けるという行動に素直に現れたというのが僕の解釈だ。
(本文中の、ゴキブリに向かって投げつけたというストーリーは、もちろん冗談である)
おそらくは、父を亡くしたことによる悲しみと不安と苛立ちと不満が爆発したのであろう。




