9話 今、私にできることを
公爵家にやって来てから、早いものでもう2カ月が経った。
その間、私はクローディア公爵家の女主人として、ある程度の仕事を問題なくこなせるようになっていた。
皮肉なことに、7年もの長い結婚生活で得た知識と経験が大いに役立ったのだ。
仕事内容は、今までルースティン侯爵家で私が担っていた業務と、さほど変わりなかった。
家計の財務管理、使用人への指示と管理、収穫物の売買手配、慈善活動といったところだろうか。
だが、対外的に私との婚約を知られてはいけない。
そのため、現在私がメインで受け持つ仕事は、家計の財務管理と使用人への指示と管理だった。
そのほか、公爵様の仕事の補助作業をしていた。
「よし、できた! この書類を公爵様に届けに行きましょう」
私は今しがた完成した書類を持って、公爵様の執務室を目指すべく部屋を出た。
すると、ちょうど部屋の前に立っていた執事長と出くわした。
「ああ、奥様」
「執事長、どうなさいました?」
「実はご相談がありまして。5分ほど、お時間をいただけますでしょうか?」
「はい、大丈夫ですよ」
私が返した言葉に執事長は安心した様子で微笑むと、手に持ったメモを見せてきた。
「想定よりもロウソクの減りが早いのです。どうか補充していただけませんでしょうか?」
執事長のメモには、想定量とのギャップと希望追加量が書かれていた。
その数字を見て、私は自分の勘が鈍っていなかったと分かり、ホッと胸を撫で下ろした。
「ご安心ください。もう手は打ってあります」
「どういうことでしょうか?」
余裕ありげだった執事長は、素が出たというような声で問いかけてきた。
その様子に意外性を感じながら、私は微笑みとともに返答した。
「今年は天気が悪かったので減りが早いだろうと思い、既に発注手配を済ませました」
「この量をですか?」
「はい。ついでに公爵様から許可を得て、使用人に支給するロウソクも追加発注いたしました」
質にもよるが、ロウソクはそれなりに値が張る品。
使用人の給料だけでは何本も買えないため、公爵様に給料と追加で配給したいと提案したのだ。
『給料や支給品のことは女主人のあなたに任せる。家計でやり繰りできる範囲なら好きにしていい』
公爵様はそう言った後、一言付け加えてくれた。
『なかなかいい案だな。きっと使用人も喜ぶだろう』
この言葉をもらい、私はすぐに発注したというのが昨日の朝の話だった。
そして今日、業者から受注書が届いたため、ちょうど執事長にも話をしようと思っていたのだ。
「まさか、既に奥様が手配してくださっていたとは……。いや、奥様の能力を劣って見ていたわけではなく――」
「大丈夫ですよ、ありがとうございます。これからも何か困ったことがあれば、ぜひ教えてください」
私が執事長にそう告げたときだった。
廊下の奥から、公爵様がこちらに歩いてくる姿が見えた。
「公爵様がいらっしゃいましたね。では、これにて私は失礼いたします」
執事長はそう告げると、公爵様に一礼してその場を後にした。
「執事長と何を話していたんだ?」
彼はそう告げると、私が胸に抱えた書類に目を向け、手を差し出した。
自分宛の書類だと分かったのだろう。
私はその書類を素直に彼に渡しながら、先ほどの出来事の説明をした。
「執事長がロウソクの追加発注の依頼をしにいらしてたんです」
「それは昨日のうちにあなたが済ませただろう?」
「はい。ですので、ちょうどそのお話をしてました」
私がそう告げると、受け取った書類をぱらぱらとめくって確認していた公爵様が、こちらに目を向けた。
「あなたは女主人として申し分ないな」
「そんなことはございません。他の家の夫人も、皆がしていることですし――」
「いいや、そんなことはない。使用人に丸投げの夫人が多いだろう」
そう言うと、公爵様は突然嘲るように鼻で笑った。
そして、私ではないある一方に視線をやって呟いた。
「あなたのような人を逃すだなんて、侯爵は本当にただの馬鹿だな」
「っ……」
公爵様が向いていたのは、ルースティン侯爵領がある方角だった。
つまり彼が指す馬鹿者とは、カシアス様のことだろう。ふと顔が思い出され、不快感が込み上げる。
しかし、その不快感は公爵様の言葉によって取り払われた。
「あなたは自分を卑下し過ぎだ。もっと自信を持ってもいい。この書類だって完璧だ。助かったよ、ありがとう」
「えっ……」
そんなこと、今の今まで一度も言われたことなど無かった。
メルディン侯爵家でも、ルースティン侯爵家でも、私をこうして褒めてくれる人などいなかったのだ。
ミスなど許されず、できることが当たり前。
それが常識だった私にとって、公爵様の言葉は雷が落ちたほど衝撃的なものだった。
しかも、公爵様は淡々と当然のごとく言うものだから、妙に説得力があるように感じた。
彼にとっては些細な言葉かもしれないが、私はそのさり気ない一言で救われたような気持ちになった。
「どうした?」
急に黙り込んだ私を不審に思ったのか、公爵様が無表情のまま顔を覗き込んできた。
公爵様の目は、今まで見た中で最も美しい紺碧を映し出していた。
「不備が無くて、良かったです。どういたしまして……」
「ああ」
彼は私の言葉を聞くと、少し近付けていた顔をスッと離し、そのまま元来た方へと歩き出していた。
私はそんな彼の後ろ姿を、曲がり角を曲がって見えなくなるまで見つめていた。
◇ ◇ ◇
とりあえず、今日の用事はすべて終わった。
――今日も巡回してみようかしら?
私はここ最近時間ができたら、邸内の見回りをしていた。女主人たるもの、邸を最も知らなければならないから。
しかし、その中で私はある悩みを抱えていた。
「もう少し打ち解けられる使用人も増やさないとね」
主と使用人という明確な身分差はあるが、それにしても私を怖がっている使用人が多いように感じていたのだ。
アルベールさん情報によると、どうやらそれはプリムローズ嬢のせいらしい。
どこまで彼女のとばっちりがついて回るのだろう。
なんて自嘲しながら、私はこの問題もともに解決するため1人で邸内を廻り始めた。
しばらくすると、目の前に顔を赤らめ苦しそうにくしゃみを繰り返す、170cm台半ばほどのスラリとした使用人を見つけた。
恐らく、私と同年代の青年だろう。
私は彼に声をかけてみることにした。
「大丈夫? 具合が悪そうだけれど――」
「お、お、奥様!? すみませんすみませんっ……。どうかお見苦しくないよう気をつけますのでっ……」
「怒ってないわよ。どうか落ち着いて――」
「うつるものではないのです! どうか信じてください。この季節になるといつも――」
「分かった! とにかく一度黙って」
彼の正面に回り、唇の前に人差し指を立てる。
すると、彼は焦りながらも口を閉ざした。
今にも逃げ出したそうに目を泳がせている。
そんな彼に、私はゆっくりと声をかけた。
「もう一度言うけれど、私は怒っていないわ。具合が悪そうに見えたから、無理をしているのではないかと心配して声をかけたの」
私が黙れと言ったからだろう。
彼は声が漏れそうになったのか口をハッと押さえ、その代わり目を大きく見開いた。
「分かってくれた?」
私のその問いかけに、彼は手で口を覆ったままこくこくと頷く。
その様子がおかしくて思わずフッと笑みを零すと、彼はとても不思議そうな顔で私を見つめてきた。
「どうしたの? そんなに不思議?」
頷きかけた彼だったが、悪いと思ったのか急速的に首を横に振った。
その困った様子があまりにおかしくて、私は堪らず笑い声をあげた。
「ふふっ、もう喋ってもいいわよ」
「す、すみませんっ……。あの、本当に失礼なのですが、怒っていないのですか?」
「どうして?」
「えっ、あの、その……去年同じ症状のとき、トル公爵家の令嬢から気持ち悪いと叱責を受けまして……」
「それは嫌な思いをしたわね。でもね、私はトル公爵家の令嬢とは別人よ」
同情しながらもちょっぴり皮肉を込めると、彼はハッとした様子で改めて背筋を正した。
しかしその直後、私から顔を背けると、持ち前の甘い顔が一気に残念になるほど盛大なくしゃみを放った。
「ずみばぜんっ……!」
彼が必死に謝罪してくる。
一方、私は彼の症状の心当たりについて考えていた。
――そういえば、この青年はうつるものではないと言っていたわね。
あと、この季節になるといつも、とも言っていた。
これって絶対にアレよね?
「あなたはミルアの花粉症なのね」
「えっ、そうなんですか?」
まさかの返しに驚いた。
花粉症の自覚もないだなんて、そりゃあ対策も出来ないはずだわ。
思わず目を白黒させながら驚いていると、青年は食い入るように私に質問をしてきた。
「実は、他の使用人たちもこの時期に限って同じ症状が出るのです! 何か治療方法をご存じではありませんか?」
唯一の情報源を見つけたとばかりに、青年が私に祈りを捧げるように両手を握り合わせ、うるうるとした眼差しを向ける。
涙自体は生理的な要因だろうが、参っているのは本当のようで、心から治すことを彼は願っているのだと伝わってきた。
「あなた、名前は?」
「私ですか? オ、オリエンと申しますっ……」
「そう、オリエンね。私、1個だけ症状を軽減させる治療方法を知っているの」
「本当ですか!?」
「ええ。でも、その治療をするには、必要な材料を取り寄せる時間が必要よ」
私のその言葉に、オリエンはしっぽが垂れた犬のようにシュンと項垂れた。
しかし、彼の見えないしっぽは、私の次の言葉でぶんぶんと振り回された。
「大丈夫よ。3日もあれば届くわ」
「そんなに早くですか!?」
「そうよ。そこで、オリエン。あなたに大切な役割を任せるわ」
私の言葉に彼が喉仏を上下させ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「大広間で治療方法を解説するから、その日までに同じ症状の使用人に声をかけて誘ってあげてちょうだい」