8話 不思議な気持ち
シャルリーにとって、レオニーという新しい婚約者はとても異質に映った。
『アルベールさん、お出迎えありがとうございます』
彼女が馬車から降りてすぐ告げたこの言葉を聞き、シャルリーは目が覚めたような気持ちになった。
ただただ当たり前のことしか言っていない。
しかし、以前の婚約者はアルベールを「あれ、これ、それ」と指示詞で呼んでいた。
それか、存在すらしていないかのように無視していただけに、レオニーのアルベールへの声がけは、シャルリーに衝撃を与えた。
その後の話し合いでも、シャルリーは驚かされてばかりだった。
あまりにもレオニーの聞き分けが良すぎたのだ。
その様子に、彼は少し危うささえ感じていた。
だが同時に、彼女は肝が据わっているとも思った。
シャルリーは絶世の美貌の持ち主だ。
しかし、その美貌がゆえ、少しでも鋭い表情をすれば迫力が何倍にも増し、人々から怖がられていた。
だが、レオニーはそんな彼と話していても、警戒したり怖がったりする素振りは見せず、笑いかけてきた。しまいには、レオニーからシャルリーに握手の手を差し伸べたのだ。
この体験や感覚は、シャルリーにとって初めてのことだった。
プリムローズはただの恐れ知らずだったが、レオニーの方は彼女とは違う何かを感じた。
その何かが何なのかは分からないが、シャルリーは珍しく気分が良くなった。
だからだろう。
もともとそんな予定はなかったが、彼はレオニーを食事に誘ってみることにした。歓迎の意を込めて、彼女をもてなそうと思ったのだ。
すると、彼女はその誘いを快く受けてくれた。
それから、シャルリーは彼女と別れて自室に戻った。そして、違和感を覚えた自身の左頬を右手の指先で押さえ、ポツリと呟いた。
「痛いな」
◇ ◇ ◇
公爵様が話の終わりに、私をディナーに誘ってくれた。
「苦手な食べ物は無いか?」
「特にございません」
「分かった。じゃあ、今からアルベールに邸内を案内してもらってくれ」
そう言うと、公爵様はスクッと椅子から立ち上がった。私はそんな彼に思わず尋ねた。
「公爵様はこれからどちらに?」
「書斎に行って仕事を処理する」
「左様ですか。では、ディナーでお会いしましょう」
そう返すと、彼は「ああ」と言い残し、アルベールさんに指示を出して出て行った。
それにより、私は現在アルベールさんの案内を受けながら邸内巡りをしていた。
「アルベールさん」
「アルベールで構いませんよ」
彼は首を傾けてふわりと柔らかい濃紺の前髪を揺らし、生真面目そうな見た目とは裏腹の愛嬌ある笑みを浮かべて告げた。
「では、アルベール」
「はい、どうされました。奥様?」
ある意味聞き慣れた言葉を、慣れない場所で言われると違和感を覚える。
その呼称で呼ぶには早すぎると何度も言ったが彼は言うことを聞かないため、私は諦めて続きを話した。
「公爵様は、とてもお忙しい方なのですね」
何となくアルベールを見上げる。
すると、ちょっと引いてしまうほど満面の笑みを浮かべた彼の、爛々と輝く瞳と目が合った。
「ええ、とっても。もしや……公爵様が気になりますか!?」
「気になるというか……まあ、これから夫婦になる仲ですから、一応……」
「ああ、なんと素晴らしい知的好奇心! 分かりました。このアルベール、奥様にすべての情報をご説明いたします!」
「あの……」
「ああ、何からお話ししようっ……! 奥様、どのような情報をご所望ですか!?」
何だか、止められる気がしない。
そう思い、私は嬉々とした様子で邸宅案内をするアルベールの話を、延々と聞き続けた。
その後、ディナーの時間が近付いたことで、ようやくアルベールが暴走モードを停止した。
「もうすぐでディナーのお時間ですね。ダイニングに行きましょう。ご案内します」
ようやく話から解放されるとこっそり息をつく。
そんな私は、軽い足取りの彼の後ろについて歩いた。
そうしてダイニングの入り口まで来ると、ちょうど公爵様と鉢合わせた。
「では、お2人ともどうぞごゆっくり」
アルベールはそう言うと、私たち2人が席に座るのを確認してから、そそくさとどこかに消えてしまった。
思わず、堪えていた分まで深い息をつく。
そのときだった。
「そのため息は、アルベールのせいか?」
「いえ! まあ、あの……はい」
突然声をかけてきた彼の探るような目つきに耐えられず本音を告げると、彼は微かに眉を曇らせた。
「すまないな。後で忠告しておく」
「大丈夫です! 非常にためになる話もお伺いできましたからっ……」
それは本当だった。彼の話は意外と重要な内容が多かったのだ。
聞くと、彼は子どもの頃からこの屋敷に居るという。
その彼がこれまでこの邸で培ってきたノウハウや、豆知識をたくさん教えてくれたのだ。
多少暴走気味ではあったが、そのおかげで今回の邸宅案内は私にとって意外と実りあるものになっていた。
「ならいいが……」
公爵様は私の答えを聞くと、少し探るような目つきを残しながらも淡々とした様子で言葉を返した。
すると、ちょうどそのタイミングでオードブルが運ばれてきた。
私は彼の顔色を窺いながら、その場の空気を誤魔化すように早速届いたオードブルを口にした。
刹那、衝撃が走った。
――美味しい!
ルースティン侯爵家や、メルディン侯爵家の料理人の腕が悪いわけではない。
しかし、このオードブルの味は、今まで私が食べてきたものとは一線を画するほど美味だった。
だが、公爵様は無表情のまま淡々と食べ進めているため、私も一切喋らず食事を口にした。
それから多種多様の美味な料理が運ばれてくるなか、ようやくメインがやってきた。
だがその瞬間、私は思わずやって来た料理を見て固まってしまった。
目の前にあるのは大きな牛の肉塊、ステーキ。
私がこれまでずっと避け続けてきたものだった。
そのきっかけは、ある母の一言から始まった。
『太っている女はとっても醜いの。だから、痩せていないと嫌われるわよ』
幼いころからずっと言われ続けていた言葉だ。
まるで呪詛のようなこの言葉の影響により、私はカシアス様への恋心を自覚してからは決してステーキは口にしないようにしていた。
痩せていないと嫌われるから。
――ルースティンでは出ないのが当たり前だったから、すっかり抜かっていたわ……。
普段からあまり多い食事量を摂っていなかっただけに、これだけ食べてさらに禁忌のステーキを食べるとなると、何だかとても悪いことをしているような気持ちになった。
――どうしよう。
もし太ったら、公爵様にも婚約破棄されるかもしれないっ……。
私は形式上ナイフとフォークは手に取ったものの、そこから固まってしまった。
すると、それを不審に思ったのだろう。
食事を始めて以来、初めて公爵様が口を開いた。
「もしや、ステーキは嫌いだったか?」
「いえ、嫌いというわけではないのですが……」
肉を見れば、かなり良い部位だということは分かる。これだけもてなしてくれているのに、食べないというのは非常識過ぎないだろうか。
でも、食べるのが怖い。
これは参った。
どうしよう。
そう思っていると、公爵様が優雅な手つきで自身のステーキを切り、その一切れを私の皿に載せた。
「まだ口はつけていない。試しに一切れ食べてみろ」
「えっ……」
公爵様が切り分けてくれたステーキは、一口サイズの小さめのものだった。
これだったら食べられるかもしれない。
「あ、ありがとうございます。では……」
手に持つフォークで肉を突くと、さほど力も入れていないのにスッと綺麗に刺さった。
その肉を持ち上げて、ゆっくりと口に運ぶ。
――小さいから大丈夫よ。
心の内で自身を鼓舞し、私はパクリとステーキを口にした。
その瞬間、ジューシーな肉汁のうまみが一気に口の中に広がり、あっという間に肉が溶け消えた。
――なんて美味しいのっ……!
込み上げた背徳感が、心の中で止めどなくグルグルと渦巻く。
だが、やはり私の心は最終的に1つの感動で満たされた。
「美味しいですっ……!」
人生史上最高に美味しいステーキを口にした私の顔から、賞賛の言葉とともに笑顔が溢れ出した。
すると、公爵様がそんな私を見て「だろ?」と片眉を上げ、口元にいつもより微かに大きな弧を描いた。
「なら、もっと食べるといい」
公爵様はそう言うと、私の皿を取ってステーキを全部切り分けてくれた。
何だか自分が子どもみたいで恥ずかしかったが、私は公爵様の好意に甘えてステーキを食べ進めていった。
その様子が面白かったのだろうか。
「俺の分も食べるか?」
私がステーキを食べ進める中、公爵様がからかうようにそう告げてきた。
その言葉につい羞恥を感じながらも、私はゆるゆると軽く首を横に振って公爵様に返答した。
「私の分はこのステーキで十分です。その代わり、このお肉の美味しさを公爵様と共有できたら嬉しいです」
「っ……ああ、ではそうさせてもらおうか」
公爵様は微かに目を見張り、ようやく自身もステーキを口にした。そして、咀嚼しながら仄かに微笑んだ。
「確かに今日のステーキは美味しいな」
ステーキを飲み込んだ公爵様は、目が合った私に同意するかのように頷いた。
その頷きが私の気持ちを肯定してくれているようで、不思議と嬉しさが胸に溢れる。
そのおかげだろうか。
公爵様との食事は、いつもの食事よりもずっと美味しく感じられた。