7話 必要最低限
公爵様の発言によりその場の空気は凍り付いた。
しかし、何としてでも私を公爵家に嫁がせたいお父様は、苦笑いを浮かべるだけで何も言い返さなかった。
それから30分後、お父様との話し合いが終わった公爵様を見送るため、私は彼と2人で玄関に移動していた。
「本日はありがとうございました」
結局、公爵様主導であれよあれよという間に話が進められ、両家の間で2つの盟約が結ばれることとなった。
1つは、婚約することはメルディン侯爵家とクローディア公爵家間だけで内密にすること。
もう1つは、ちょうど半年後にある建国祭の場を借りて、私たちの結婚を発表することだ。
「……いつから公爵家に来れそうだ?」
「離婚状を提出し次第、公爵様がよろしいタイミングに合わせます」
「そうか。離婚状は今日提出できそうか?」
「はい。これから教皇庁に向かう予定です」
「ふむ……それなら、明日から来るといい。馬車を遣わせよう」
今日の話で色々と察したのだろうか。
顔色は変えていないし、同情的な声音ではなかったが、彼が意図的にその判断を下したことだけはわかった。
「ありがとうございます。では、明日お伺いします」
そう返事をすると、彼は目で頷き無駄ひとつない動きで馬車に乗り込んだ。
それを合図にゆるゆると動き出した馬車の背を、私は姿が見えなくなるまでしばらく見つめ続けた。
その後、私は一度邸内に戻ってから、お父様とともに教皇庁へ離婚状を提出しに行った。
待ちに待った離婚成立により、解放感に伴う高揚が胸を駆け上がる。
しかし、感情の高ぶりが冷めた後の心には、ほろ苦い後味が残った。
◇ ◇ ◇
かつては新鮮だった道のりを馬車に揺られながら、私は再びクローディア公爵家に向かっていた。
その道中で思い出すのは、先ほどメルディン侯爵家を出たときの会話だった。
「レオニー、くれぐれも公爵によろしくな。いやぁ、お前のことを見直したぞ。クローディアとのつながりで、メルディン侯爵家はこれからもっと――」
「お父様」
「ん?」
「どうか、期待なさらないでください」
私の発言を聞くや否や、お父様は訝しげに顔をしかめた。
「……どういうことだ?」
思わず身体が強張る。
しかし、私は平静を装いながら答えた。
「結婚後、私は積極的にクローディアの恩恵をメルディン家に施すつもりはございません」
「なぜだ!?」
なぜかって?
本気で分からないのかしら。
私は泣きたい気持ちで自嘲の空笑いを堪えながら、お父様の質問に答えた。
「これ以上、あなたの便利な道具になるつもりがないからです」
「何を……! お前を育てる金は誰が出したと――」
「はい。ですから、積極的にと申しているのです」
本当は少しでも嫌だが、領民のためにはそんなことを言ってはいられない。
私は度し難いという表情で瞳を揺らすお父様に、最低限の言葉をかけた。
「数日間お世話になりました。邪魔者はこれにて消えますので、ご安心ください。それではごきげんよう」
そう告げると、お父様はどうしたことか愕然とした様子で口をパクパクとさせていた。
その顔を思い出しながら、私は馬車の壁に頭を預けた。
――あまりにも、子どもっぽすぎたかしら……。
今の私はどうにも、心が狭量になっているようだった。立て続けに蔑ろにされたからだろうか。
どこか自棄な陰鬱さを覆い隠したくて、私は目を閉ざした。
そのとき、ふと公爵様の言葉が脳裏を過ぎった。
『この家の誰よりも、彼女を大切にすると約束しましょう』
……意外だった。
しかし、だからといって、私もこれを鵜呑みにして期待する気は無い。
どうやら私の心には、思った以上に大きな傷がつけられていたようだった。
◇ ◇ ◇
公爵邸に到着し馬車から降りると、以前と同じ人物が私を出迎えてくれた。
「ようこそお越しくださいました、レオニー様」
「アルベールさん、お出迎えありがとうございます」
私が彼の名を告げると、丁寧にお辞儀をしていた彼が跳ねるように顔を上げた。
「覚えていてくださったのですか?」
「え? は、はい……つい先日教えていただきましたから」
そんなに驚くことでもないでしょうに。
数度目を瞬かせながら私を見る彼の反応は、まるでこんなことが初めてだと思わせるような挙動だった。
「随分と打ち解けているのだな」
突然、横から昨日ぶりの声が耳に届いた。
そちらに顔を向けると、正装に身を包んだ公爵様がこちらに歩いて来ている姿が視界に映った。
「公爵様!」
まさか、彼が出迎えてくれるとは思ってもみなかった。
だが、これだけ綺麗な服を着ているということは、偶然出かけるところだったのだろうか?
「もしや、お出かけなさるところでしたか?」
「いや、あなたを出迎えに来ただけだが」
「えっ……でも正装を……」
意味が分からず彼の服に焦点を合わせると、公爵様はようやく納得した様子で口を開いた。
「これは君を出迎えるための服だ。未来の妻が来る日くらい、正装で出迎えるべきだと思ったのだが……」
「そこまでお気遣いくださったのですねっ……。ありがとうございます」
礼を告げながら、私は内心で綺麗な服を着てきて良かったとホッとしていた。
一方、公爵様は私の礼に1つ頷きを返して、腕を差し出した。
エスコートしてくれるのだと察し、私は彼の腕に手をそっと添える。
「とりあえず、あなたの部屋へ案内しよう」
「っ……!」
この言葉に私は背筋を伸ばし、身を引き締めた。
こうしてついに、私は客ではなく婚約者としてクローディア公爵邸に足を踏み入れたのだった。
玄関のドアを通り抜けると、使用人たちがずらりと並ぶ圧巻の光景が目に飛び込んできた。
すると、そんな彼らに公爵様が口を開いた。
「彼女はメルディン侯爵家のレオニーだ。私の未来の妻として丁重に接しろ」
「はい、承知しました」
一挙手一投足が揃った様子で、使用人たちが返事をし、目を伏せながらも顔を上げた。
その瞬間、彼らは私に決して好感を抱いているわけではないと痛感した。
どこか怪訝な面持ちの使用人たちが大勢いたのだ。
――まあ、それはそうよね。
彼らにしてみれば、なぜルースティンの嫁が? と思うはずだもの。
しかし、例外もいた。
アルベールさんのように目をキラキラと輝かせ、目を伏せることすら忘れたように私を見つめる人もいたのだ。
ごく少数だが、どうしたことだろうかとギョッとしてしまう。
「こちらだ」
公爵様の声で我に返り、私はいったん思考を停止させて彼について行った。
それから数分後、私たちはある部屋の前に辿り着いた。
「今日からここがあなたの部屋だ」
「ここが私の……」
彼がそう言って扉を開けた部屋は、どの邸でも女主人の部屋に相当するような部屋だった。
このとき初めて、私はこの人の妻になるのだという実感が湧いた。
「失礼します」
「あなたの部屋なのだから、そのように言う必要はない」
先に入室した公爵様が私に振り返り、軽くからかうような声をかけてきた。
つい赤面してしまう。
しかし足を踏み入れると、勝手について来ていたアルベールさんを締め出した彼が私に向かって、椅子に座るよう促した。
大人しく言われた通り座る。
すると、斜め前の席に座った公爵様が口を開いた。
「これからについてだが……」
「はい」
「別に俺たちは愛し合って結婚するわけじゃない。だから、必要最低限の夫婦でいよう」
ふと、彼の本当の1人称は俺なんだなんて思った。
そんなことを考えながら、私は彼の言葉に同意を返した。
「はい。そういたしましょう」
それが互いに取って楽なのは、今の私はよくわかっていた。相手に不必要な情まで湧いてしまえば、要らぬしがらみも増える。
しかし、最初にこうした線引きがあれば、その心配もないのだ。
何となく負荷が減ったような気持ちで、僅かに私の口角は弧を描いた。
すると、その私の返事を聞いた公爵様は私の顔を見て安心したのか、続きを口にした。
「同意に感謝する。そこで1つ大事な話がある」
「はい、何でしょうか?」
「君はこれから公爵夫人、つまりこの家の女主人になる。したがって、使用人の雇用は君に任せることになるが、使用人に高圧的な態度をとるのはやめてほしいんだ」
彼は何を言っているのだろうか。
女主人は使用人にとっては最高権力者だろう。
しかし、彼らが団結すれば女主人の最大の脅威は使用人にもなるのだ。
だというのに、どうしてわざわざ高圧的な態度をとる必要が?
まったくもって、あえてこんな忠告をする意味が理解できなかった。
「当然では? もし手に余る問題がございましたら、公爵様にご相談させていただきますが……」
「っ! そうしてくれるとありがたい。だが、慣れたら君にその裁量も任せたい」
「はい、承知しました」
私が頷きを返す間も、彼は微かに目を見張っていた。
何をそんなに驚くことがあるのだろうか?
不思議な気持ちになっていると、彼はスッと真顔を取り戻し、再び口を開いた。
「あなたは……あまりにも物分かりがいいな」
「そうでしょうか? 身内には頑固だと言われるのですが」
言いなりだと思われたくない。
そんな気持ちで冗談を返すと、彼は「そうか」と言って、口元に微かな笑みを湛えた。
直後、彼はすぐに笑みを消し、今日一の真剣な表情で言葉を続けた。
「正直言って……俺はあなたを利用しているんだ。家門継続のため、そして結婚という社会的ステータスを保つため、君の人生を奪ってだ」
そう言うと、彼は射貫くかのように私を真っ直ぐと見つめて言った。
「だから、君も俺を遠慮なく利用しろ」
「……本当に仰っているのですか?」
耳を疑い尋ねるも、返ってきた答えは肯定だった。だが、彼は補足を加えた。
「分別があるあなただからこそ言った、ということだけは覚えておいてほしいがな」
彼はそう言って、肩を竦めて見せた。
最も自然体に近い彼の姿を見たような気がした。
案外、私たちはうまくやっていけるのかもしれない。
そう思った私は、自然と笑みを零して彼に手を差し出していた。
「もちろんです。……公爵様、これからどうぞよろしくお願いいたします」
そう告げると、彼は「ああ」と告げながら口元に弧を描き、私の手を握り返してくれた。
「よろしく頼む」
こうして私たちは、これからの人生のパートナーとして握手を交わしたのだった。