9話 あの日の少女は今
紳士淑女の語らう声が、優雅に波打つ絹のドレスの間を通り抜けて広がっていく。
ある者は慕わしき人物に想いを馳せ、またある者は企みに口元を綻ばせる。
親交のある者たちと和気あいあいとした時間を過ごす者もいれば、静かに世情を把握するために耳を澄ませる人物もいる。
そんな何の変哲もない、いつも通りの夜会になるはずだった。
だが、そのいつも通りの夜会は突如として終焉を迎えた。
レオニーとシャルリーの婚姻発表が、夜会を行うホール内を一瞬にして非日常へと塗り替えたのだ。
『私、シャルリー・クローディアは、このたびレオニー・メルディンと婚姻を結びましたことを、この場を借りて皆様にご報告いたします』
シャルリーの宣言を目の当たりにしたミュラー夫人は、たおやかな微笑みを浮かべるその裏で、全身が痺れるような感覚に襲われた。
冷血、冷酷、冷徹の三拍子が揃った、あの〝氷の公爵〟がついに誰かと結婚したから、という訳では無い。
その〝氷の公爵〟の結婚相手となる女性が、夫の不貞により半年ほど前に離婚したという、あのうら若き少女だったからだ。
レオニー・メルディン――その名をミュラー夫人が初めて意識したのは、彼女が齢十歳にして政略結婚させられたと耳にした時だった。
両思いが実を結び、幸せな新婚生活を送り始めたばかりのミュラー夫人にとって、その少女の知らせはあまりに気の毒で、思わず胸が締め付けられるものだった。
それからおよそ七年の月日が経った頃、ただでさえ不憫な子だと思っていたご令嬢が、さらに嫁ぎ先で憂き目にあった。
その原因に、集まりのたびミュラー夫人に対し、何かと挑発を仕掛けてくるプリムローズ嬢が関わっていると知り、夫人はなおさらレオニーへ一方的な哀れみの情を抱いていたのだ。
そんなレオニーが夫との離婚後、この国で最も美しく恐ろしいとされる男と婚姻を結ぶとは。
――もしや、何かしらの弱みを握られているのではないかしら。
レオニーの両親であるメルディン侯爵夫妻らは、娘に親としての愛情を抱いているとは今一つ考えづらい性格をしている。
また、レオニーの新たな夫となるシャルリーは、貴族の誰よりも誠実ではあるものの、色恋どころか、愛情というものがどこか欠落してしまっているような人物。
社交界の花として長年君臨し続ける中、誰よりも人を見てきた彼女の心には、思わず懸念が過った。
心配だったのだ。
これからもまた、不憫なあの子が苦境に立たされ続けるのではないかと。
婚姻発表に対して、周りの貴族は驚きつつも、喜ばしい出来事としてふたりを祝い立てる。
その中で、ミュラー夫人は極めて優美でありながら、厳しい眼差しをふたりに向けた。
刹那、ミュラー夫人はハッと息を呑んだ。
瞳に映るうら若き少女は、今まで見た中で最も生き生きとした表情を浮かべていたのだ。
胸が震えそうになるくらい凛とした気高き彼女の瞳が、ある一点に向けられる。
その視線を追うと、これまた驚く光景が視界に飛び込んだ。
「なんてこと……」
いつも平静を保ち、清く正しく優雅に振舞う。そのミュラー夫人の口から思わず言葉が漏れ出た。
人々が愛しい人を見つめる時の表情を、あの〝氷の公爵〟が浮かべていたのだ。
脳が揺れるような感覚とともに、知らず知らずのうちに作り上げていた偏見の城が崩落していく。
同時に、夫人は目に映る光景によって痛感した。
――彼らはようやく見つけたのね。
かけがえのない、たったひとりの運命の人を。
誰よりも惜しみない拍手を送って、ミュラー夫人は彼らの婚姻を心から祝ったのだった。
◇◇◇
「今日は何やらご機嫌だね」
「ええ、レオニー様が来られていたの。とても楽しいお茶会だったわ」
言葉通りの表情を浮かべる妻を見て、夫であるミュラー侯爵は目を細めながら言った。
「君は昔から彼女を気にかけていたからな。……彼女はクローディア公爵に嫁いで良かったようだな。目覚ましい活躍を遂げているそうじゃないか」
ミュラー侯爵のその言葉にくすりと笑みを返し、ミュラー夫人は最近聞き及んだ噂を振り返る。
クローディア公爵領は、ミュラー夫人が生まれた当時から、シトリア王国で最も豊かな領地だった。
だが、シャルリーが公爵になってからは、その豊かさは更なる発展を遂げた。
しかし、これで高止まりだろう。
誰もがそう思っていたのに、レオニーが砂糖取引を成功させ、クローディア公爵領を、未だかつてないほど豊かな領地へと発展させたのだ。
砂糖の輸入ができる特別な領地として、クローディア公爵領のアイデンティティが高まったのが、最大の要因だろう。
また輸入に伴い、クローディア公爵領内の商業が、さらに活性化した。
それにより、税率を上げずに税収を増加させることにも成功したクローディア領は、それらの税収でインフラの整備を進めることが可能になった。
インフラが整備されると、領内のすべての産業が益々活性化していく。
この好循環を生み出したキーパーソンこそ、レオニーなのだ。
クローディア公爵領の領民たちから、女神と讃えられるのも納得である。
どうしてか、ミュラー夫人はそのことが自分のことのように嬉しかった。
さして、彼女とかかわりがあったわけではない。
だが、昔からずっと心のどこかで気にかけ続けていた少女が羽ばたく姿を思うと、胸がじんとした。
「本当に健気で可愛らしい子なのに、こんなことまでしちゃうなんてね」
夫に向かって、夫人が屈託のない笑みを浮かべる。
一方で、ミュラー侯爵は微笑み返しながらも、その瞳に暗い影を落とした。
「どうしたの?」
「いや……。あんなにも努力家の夫人の父親が、あのメルディン侯爵だというのが何とも皮肉でな」
その言葉を聞くなり、夫人の心に軽蔑の情が湧き出る。
そうだった。
もとはと言えば、自身が利を得るためだけに幼い娘を嫁がせたメルディン侯爵が、レオニーに苦しみの過去を作った元凶なのだと。
「どうやら最近、メルディン侯爵が夫人に接触を図ろうとしているようだ。仲の良い君にも近付いてくるかもしれない。だから――」
「ええ、分かっているわ。接触しないよう気を付けるから、安心して」
夫人のその言葉に、ミュラー侯爵は安堵の表情を浮かべる。
だが、ある噂を思い出した侯爵は、すぐに神妙な面持ちになって言った。
「実は、今日王宮に行ったとき、とある噂を耳にしたんだが――」
こうしてミュラー侯爵家で夫から妻に伝えられた噂は、それから数日後には周知の事実となるのであった。