番外編1 重なる姿
母親を生まれた時に亡くしたシャルリーは、肖像画で父に寄り添い微笑む母の顔しか知らない。
だが、彼にはその母の分までも愛を教えてくれた人がいた。
10歳の頃に亡くなった彼の父だ。
父はシャルリーに寂しい思いをさせまいと、父でありながら母の分までシャルリーに愛情を注いだのだ。
こうしていつも優しい父だったが、唯一非常に折り合いの悪い人物がいる。
母の実父であり父の義父にあたる、シャルリーの祖父だった。
なぜなのだろうか。幼少のシャルリーは、ずっとそんな疑問を抱いていた。
だが、父が病死して祖父が後見人となるなり、シャルリーはその理由を身をもって知ることとなった。
それは、シャルリーの父の葬儀後の出来事だった。
「シャルリー。今後、あの腑抜けの言ったことはすべて忘れろ」
「腑抜け?」
「はあ、それすらも分からぬか。……お前の父親のことだ」
「っ……! 父上は腑抜けでは――」
ゴンッ!
頬に強い衝撃を食らい脳が揺れると同時に、鈍い音が静かな部屋に響いた。
拳で殴られたのだと理解するまで、シャルリーは頬の痛みすら気付かずに、呆然とフリーズしていた。
しかし、徐々に頬に走る痛みが熱を持ち始めるにつれ、シャルリーは正面の厳めしい顔つきの祖父に視線を戻した。
「なぜ殴るのですか」
「戯けたことを申したからだ」
「戯けた発言などしておりません。訂正してください」
シャルリーが食ってかかると、表情を一気に憤怒へと染めあげた祖父は、反対の頬を再び殴った。
「何を偉そうに! とにかくすべて私の言う通りにしろ。考えも改めろ。分かったな!?」
「分かりませんっ……!」
「何をっ……! っ……最愛の娘の犠牲の末に生まれたのが、こんな奴だったとは……。頑固なところまで父親に似よって!」
完全に失望したとでも言うように、祖父は額に手を当て、首をゆるゆると振った。
「もう良い、喋るな。頭を冷やすために、お前はこの部屋から3日間1歩も出るな」
そう告げると、祖父はシャルリーを置き去り部屋から出ていった。
奇しくも、この会話こそが、父の死後に祖父と孫が交わした初めての会話となったのだった。
◇ ◇ ◇
父の死により始まった愛のない日々は、シャルリーの世界から1つずつ色を消していき、そのたびに彼は感情を1つずつ失っていった。
どれだけ父親に守られていたのだろうか。
毎日、それを痛感するばかりだった。
祖父の厳しく辛辣な言葉は、シャルリーの心を徐々に殺していった。
それに加え社交の仕事が始まると、変な貴族連中たちの言動が彼の心を壊していった。
だが、貴族として生きる以上この環境から抜け出す方法はない。
それを悟って以降、シャルリーは心を守るために感情や自由を捨て、正しい選択ができるようにという思いだけで、淡々と生きるようになった。
そうして過ごしていると、いつしか氷の公爵なんて通り名ができていた。
祖父はこの通り名だけは、なぜか気に入り喜んでいた。
しかし、シャルリーにとってはそれすらもどうでも良かった。
実名や通り名が何であろうと、彼自身を見る人間など誰1人いないのだから。
その後、シャルリーは遺言に基づく法的効力により、祖父が勝手に決めたプリムローズを婚約者にした。
だが、彼女の最悪な人間性を目の当たりにした彼は、彼女との婚約破棄を真剣に考え始めた。
その矢先、プリムローズの不倫が判明したのだ。
それにより、婚約破棄の意思は磐石のものとなった。
しかし、この状況で自身の結婚問題をどう解決すべきか、その正しい選択は正直分からなかった。
そんな中、シャルリーなりに出した答えは、レオニー・メルディンに結婚の打診をすることだった。
よく知らない相手を結婚相手に選ぶことは、人生をかけた博打だ。
それでも彼女に打診を決めたのは、妻が離婚を願い出たなんて馬鹿なことを言っている奴に、きちんと離婚を宣言したという気心を買ってのことだった。
ただ、シャルリーはレオニーに唯一懸念を抱いていることがあった。
――離婚するといいながら離婚していないが、彼女は本当に離婚する気があるのだろうか?
そんな憂慮をしつつ、いざレオニー・メルディンに会った。そして、彼女が実家に戻っても離婚しない理由を知り、シャルリーは耳を疑った。
まさか、父親の許可が下りないからだとは。
事情を知ったシャルリーは、自分でも驚くほど自然と彼女に父親への説得を申し出ていた。
それだけでも驚きだったのだが、彼女の父親に会ってシャルリーはさらに衝撃を受けた。
彼女の父親が、あまりにも彼女を悪しざまに言うのだ。
彼女が離婚状を取りに行った時も、彼女の父親の愚かな口は止まらなかった。
「いやあ、離婚すると言い始めた時はどうなることかと思いましたが、こんなにも役に立つとは思いませんでしたよ」
「……役に立つとは? まさかレオニー嬢のことですか?」
「もちろんですとも! なにせ、クローディア公爵と縁を作ってくれたのですから!」
ほくほくと嬉しそうな顔で微笑む彼女の父は、彼女の心などまるで気にも留めていないようだった。
幸いなことに、シャルリーは父からの愛情というものを知っていた。
それだけに、血の繋がった自身の娘に対する侯爵の態度は、シャルリーの心を戸惑わせ酷く逆撫でした。
「……侯爵」
「はい!」
「彼女は道具ではないです。その言い方はいかがなものでしょうか?」
「あっ! す、すみません……。公爵の前だというのに無礼を――」
「私の前だからということは関係ありません。そもそも口にするようなことではないのです。特に、彼女の前では」
調子に乗り過ぎたと笑いながら自身の眉を撫でさする侯爵は、シャルリーの言葉を聞くなり固まった。
しかし、すぐに誤魔化すように侯爵は笑った。
「は、ははっ……。戸惑わせてしまいましたね。しかし、これはいつもの身内の乗りなのです。気分を害したのでしたら、申し訳ございません」
笑いながら身内の乗りなどというが、本当にそうなのだろうか?
本当であれば不快であるし、本当でなくとも本心であることには変わらず胸くそ悪かった。
そうしてしばらく侯爵の話を一方的に聞いていると、離婚状を手にした彼女が戻ってきた。
その後、再婚時期の話になりシャルリーは思わず計画外の提案を口にした。
結婚するまでの半年間を、クローディア公爵家で過ごさないかというものだ。
当初はもちろん、結婚してから一緒に暮らすつもりでいた。
だが、目に余る彼女の父親の態度を見ていると、どうにもそれが酷に思えたのだ。
しかし、侯爵はシャルリーの懸念を更に上回る言葉を発した。
「実のところ、兄夫婦もいますし、皆、この出戻り娘の存在が煩わしく困っていたのです」
夫に裏切られ未だ傷も癒えぬであろう実娘の前で、嬉々としてこのよう発言をするとは。
シャルリーはあまりにも度し難いその言動に、頭痛がした。
忠告したばかりなのに、悪びれもせずこのありさまとは。
気付けばシャルリーの視線はレオニーに向いていた。
視界に映った彼女は……笑っていた。
だが笑っているはずなのに、今にも泣き出しそうなほど悲しそうで、諦めたような表情をしていた。
シャルリーはその姿を見て、妙な既視感を覚えた。
今の彼女はまるで、祖父を前に心を殺してしまっていた、幼い頃の自分のようだと思ったのだ。
シャルリーは考えた。
父を亡くし、祖父と一緒に過ごし始めた当初の自分は、どのような感情を抱いていただろうかと。
誰かに助けてほしいと思っていた。
誰かに祖父を諫めてほしかった。
誰かに傷を癒してほしかった。
誰かに裏心無く接してほしかった。
自分という人間を疎むことなく、誰かに受け入れてほしかった。
心を殺し、現状を割り切れるようになるまでの間は、心のどこかでずっとそう思っていた。
彼女と自分が違う人間ということは、シャルリーも十分承知している。
しかし、昔の自分と重なって見える彼女を前にし、自然なほどにある言葉がシャルリーの口を衝いて出た。
「……この家の誰よりも、彼女を大切にすると約束しましょう」
彼女には、彼女だけには優しくしてあげたい。
そんな他者に対する人間らしい感情が、数年ぶりにシャルリーの心に芽生えた瞬間だった。
そして、その彼女が愛おしくてたまらない日々を送ることになるとは、このときの俺は夢にも思っていなかった。
本編完結からかなり間が空いてしまったにもかかわらず、番外編を読みに来てくださった皆さま、誠にありがとうございます。
こちらの作品ですが、有難いことに第12回ネット小説大賞の小説部門で入賞いたしました。
そのため、書籍化されることが決定しております。
これもひとえに、応援してくださった読者の皆さまのおかげです。
ブックマークや、お優しいご感想、評価をつけてくださった方、本当にありがとうございます!!
これからも番外編を更新していきますので、応援していただけますと幸いです。
内容としては、読者さまにリクエストいただいたもの、裏話やほっこり話を更新していく予定です。
多くの人に楽しんでいただけるよう頑張りますので、これからもどうぞよろしくお願いいたします!