26話 私のあなた、あなたの私
無言で歩みを進めた私たちは、待機していたクローディアの馬車に乗り込んだ。
思いがけない出来事があったせいで、私の心はざわつきがなかなか収まらなかった。
そのときだった。
「シャルリー様?」
馬車に乗り込むなり、彼は隣に座る私の手を離すと、指と指を絡め合うように握り直した。
そして、先ほどとは一転、恐々とした様子で声をかけてきた。
「レオニー、改めてすまなかった。一生の不覚だ……。もう二度とこんなことは起こらないようにする。本当に悪かっ――」
「謝らないでください。あれは不可抗力ですし、あなたは何も悪くありません。私はシャルリー様が傷付いてないなら大丈夫ですから」
「レオニー……」
本当に大丈夫だと見えるように、私は彼に優しさを意識して微笑みかけた。
すると、効果があったのかシャルリー様の頬の強張りが解れたのが分かった。
その途端、私は張り詰めていた気持ちを一気に放出させるかのように息を吐きながら、シャルリー様の肩にもたれかかった。
「どうした、レオニー?」
真顔に近い表情のままため息を隠すこともなく、私が突然体重をかけたから驚いたのだろう。
シャルリー様は私の顔を覗き込むと、少し不安げな表情で口を開いた。
「やはり……怒っていたか?」
私はそう言う彼を上目に見つめ、フッと笑ってゆるゆると首を横に振り、再び目を伏せた。
「怒って無いですよ。ただ、あんなにしょうもない男だったけど、好きだったなんてと思って……。何だかつらいですね、ははっ……」
かつての自分の見る目のなさと言ったら……。
何だか酷く疲れ、やるせない気持ちが込み上げて胸が苦しくなる。
そのとき、ふと私の横髪をシャルリー様が耳にかけた。
思わず見上げると、私の顔を覗き込みながら、慈愛に満ちた眼差しを向けるシャルリー様と視線が交わった。
「……狭い鳥籠のような環境で苦境に立たされたら、あんな男でも輝いて見えることもあるだろう」
「っ……」
「だが、レオニー。今の君は俺の妻だ。俺は夫として、君を愛する1人の男として、君に後悔させない男でいると約束する」
「もう十分すぎるくらいですよ」
そう、本当に十分すぎる。
彼の熱意に心をくすぐられるような気持ちになりながら、私は口元を緩ませ彼の頬に手を添えた。
ほんのりと伝う人肌の温もりに触れ、親指の腹で彼の目の下をそっと撫でる。
すると、彼は唇に小さな弧を描き、頬に添えた私の手を上に自身の手を重ね頬擦りをしながら、私の手首にキスを落とした。
「十分すぎるくらいがちょうどいい。レオニーには、いい思いばかりをさせてやりたいんだ」
「……不思議です」
「ん?」
「あなたはいつも、魔法みたいに私の心を軽くしてくれますね」
彼のその言動1つで、心の澱が溶け消えていくようだった。
普通なら建前の言葉だと思うけれど、シャルリー様の発言というだけで信じられた。
――言葉一つで、こんなにも救われるだなんて。
彼の想いが痛いほど伝わり、気を抜いたら勝手に涙が出てしまいそうになる。
そのため、私は彼の頬から手を下ろし、隣に座る彼を横から抱き締めた。
「レオニー?」
シャルリー様は突然の抱擁に戸惑ったような声を上げながらも、私の背中にその腕を回した。
そして、グイッと私の耳元に顔を寄せた。
「もしや、サロンで何かあったのか?」
彼の胸に半分顔を埋める私の耳に、吐息とともに心配そうな彼の低い声が掠める。
私はその声に対し首を横に振りながら、さらに彼を抱き締める力を強めた。
「違います。サロン自体には問題ありませんでした」
「では――」
「ただ、あの人が私のシャルリー様に抱き着いたのが嫌だったんです」
シャルリー様とプリムローズが妙な関係であるなんて疑念は、まったく気にしていなかった。
むしろ、彼は被害者だし。
だが、どうしても私以外の誰かが、しかも彼を裏切ったプリムローズが抱き着いていたことは、どうしても癪に障ったのだ。
「だから……これは消毒です」
そう言って、より一層彼を抱き締める力を強める。
刹那、彼の震える声が私の耳をくすぐった。
「もう一度言ってくれ」
「え?」
「私のシャルリー様と、今そう言っただろう?」
彼のこの言葉を聞くなり、私の身体は火が付いたように熱くなった。
気持ちが昂ったとはいえ、そんなことを無意識に口にしてしまうだなんて。
でも、私の公爵様という言葉には……まあ違いはないだろう。結婚したのだもの。
とはいえ、改めて言うには恥ずかしさが込み上げる。
だが、彼の心の傷を考え、もう一度だけ言うことに決めた。
「もう1回しか言いませんよ」
「ああ」
「……私のシャルリー様」
小さな声で早口で告げた。
だというのに、シャルリー様は私の言葉を聞くなり、嬉しそうな吐息を漏らしながら、さらに力を込めて私を抱き締めた。
ついでとばかりに、耳にキスの雨を降らせる。
しかし、それから間もなく、シャルリー様は腕の力を緩めて頭上から声をかけてきた。
「レオニー、顔を上げてくれ」
「無理です」
「君の顔が見たいんだ」
「見せられません」
今の私の顔はきっと林檎のように真っ赤だろう。
恥ずかしさのあまり、どうにかなってしまいそうだった。
だが、シャルリー様はなかなか諦めなかった。
「レオニー……」
いつも氷のように厳しいと言われる彼が時折出す、この切なく弱ったような声。
それに私が弱いと自覚しながらこんな声を出すだなんて。
――本当にずるい人ね。
そう思いながらも、私は内心でクスリと笑ってゆっくりと顔を上げた。
「あなたは本当に賢い人ですね」
「ありがとう」
シャルリー様はそう言うと、私の額に口付けた。
溶けるような笑顔を浮かべた今の彼は、とても冷血、冷徹、冷酷の三拍子が揃った氷の公爵と言われる人とは思えぬほどの別人だった。
「レオニー、君の言う通り俺は君のシャルリーだ。そして、この世の誰よりもかわいく愛おしい君は、俺のレオニーだ」
シャルリー様はそんな胃もたれしそうなほど甘い言葉を吐くと、私の顎のラインに手を添わせた。
そんな彼の優しい眼差しに、別の種類の熱が垣間見えていると気付く。
その瞬間、私の唇に柔らかい感触が触れた。
最初は短く軽いものだった。
それを数度続けると、彼の口づけは徐々に深みを増していった。
角度を変えながら時折交わる視線は、無言であるにもかかわらず互いの感情を雄弁に語っていた。
彼の胸に添えた手に伝う鼓動と私の鼓動、互いの息遣いが徐々に同期していく。
こうして溶け合うような口づけの最中、私は自身の手をゆっくりと滑らせながら、彼の首の後ろへと回した。
その動きに合わせ、彼は頬に添えていない方の手を、私の髪を梳ように撫でながら後頭部に添えた。
そんな互いの情熱が行き来する甘やかな口づけは、私が息切れするまで続いた。
「シャルリー様、激しすぎですっ……」
「君が可愛いから仕方ない」
「っ……! でも、ほどほどにしてください。持ちませんから……」
「大丈夫だ。俺がすべて介抱する」
「ああ言えばこう言うんだから」
何を言っても通じないと諦め、私は身体のすべてを委ねるように彼の胸にもたれかかった。
「怒ったか?」
「……いいえ」
怒るはずがない。
むしろこれだけの幸せを与えてくれる彼が夫で良いのだろうかと、たまに怖くなるくらいだ。
それを分かっているのだろう。
シャルリー様は訊ねながらも、その表情には麗らかな笑みを浮かべていた。
その顔を見ると、私の顔にも自然と笑顔が浮かんだ。
「怒っていませんが、思ったことがあります」
「ん?」
「良かったです……あなたと出会えて。私の夫がシャルリー様で私は幸せ者です」
私はそう言って、余裕のある表情から一転し、面食らった表情の彼に笑いかけた。
案の定、その後はシャルリー様からの溺れるほどの愛が、私にこれでもかと降り注いだのだった。
◇ ◇ ◇
サロンから一カ月後。
サロン会場での出来事は、瞬く間に居合わせたご夫人たちによって社交界に広められた。
その後、カシアス様とプリムローズは本当に離婚した。
トル公爵家も何度も続くプリムローズの醜聞を庇い切れなかったのか、家門全体を貶めたとして、離婚した彼女を監禁状態にしたと噂に聞いた。
この出来事により、社交界でも腫れもの扱いになった彼女は、かつての社交界の華の座からは完全に陥落した。
一方カシアス様はというと、子どもの親権を取り、ちゃんと育てているようだと、これまた風の噂で聞いた。
昔から一緒に居たからこそ、この噂はきっと真実なのだろうと思う。
彼はずっと、自分の血の繋がった家族をほしがっていたから。
いつか生まれた子どもには、自分のように寂しい思いをさせたくないと一度聞いたことがある。
いつ何があるか分からないから、できるうちに愛情を注いで育ててあげたいとも言っていた。
どうやら、カシアス様にも最後の良心が残っていたようだ。
私は裏切られたが、どうか子どものことは裏切らないで欲しい。
そう願いながら、私は彼との過去を思い返すことはやめた。
これからは、シャルリー様との未来に目を向けよう。
私は新たな人生を生きていくんだ。
私はようやく、そうして心の踏ん切りをつけることができたのだった。
26話で終わると言っておきながら長くなったので、2話に分割しました。
本編は次話が最終話となっております。
どうぞよろしくお願いいたします<(_ _*)>




