24話 衝撃エンカウント
プリムローズがやって来た。
それにより、好奇の視線が私と彼女を行き来するのが、手にとるように分かった。
非常に気まずく、一気に居心地が悪くなる。
だからこそ、私はあえて彼女を気にしていないよう振る舞った。気にしたくなかったし、彼女に反応すると思われたくなかったのだ。
その効果があったのだろうか。
今日のサロンが音楽家を集めての演奏だったということも追い風となり、いざサロンが始まると皆がそちらに意識を傾けた。
1つの視線が私に鋭く突き刺さったまま、という気配は感じていたが。
しかし、私自身は無視を貫いた。
そうして、美しい音色を聴きながら時間が過ぎるのを待っているうちに、サロン自体は恙なく終わりを迎え、私たちは解散することとなった。
――はあ、ずっと見られていたわね……。
私は別れの挨拶をしながら素早く会場を出て、1人になった途端にホッと息を吐いた。
執拗な彼女のまるでヘビのような視線が、今も私に付きまとっているかのようだ。
「ちょっと、寄り道をして帰りましょうか」
流石に気分転換して帰りたい。
そうすれば、きっとあの視線を少しでも忘れられるだろうから。
そう考えた結果、私は自由に出入りできる王室の庭園に足を運ぶことにしたのだった。
◇ ◇ ◇
「ここはいつ来ても綺麗に管理されてるのね」
風に揺れる木々の葉が奏でる音を聞きながら、私は色とりどりの花々が端正に咲き誇る庭園をぐるりと回っていた。
手入れが行き届いた人気のない庭園を歩いていると、徐々に心が落ち着きを取り戻していく。
――やっぱり、ちょっとは堪えていたのね。
カシアス様のことは好きではない。むしろ嫌いだ。
だけど、傷付けられたという記憶は心に残っているわけで、今日の彼女の存在自体によって、心に嫌な靄がかかっていた。
しかし、心が落ち着くとともに、その靄は少しずつ晴れていった。
「そろそろ馬車に行かないと」
庭園から馬車乗り場には直行できないため、一度王宮の回廊に戻らなければならない。
そういえば、シャルリー様も今日は仕事で王宮に来ていると言っていたし、運が良ければ会えるかもしれない。
「ふふっ」
結婚して半年経つが、私は以前と変わりなく、いや、それ以上に彼のことが好きになっていた。
彼のことを想い脳裏に浮かべると、自然と笑みが零れる。
――一緒に帰れたらラッキーね!
振り返って、そこにいてくれたら最高なのに。
なんて考えながら、回廊がある背後に回れ右をした瞬間、予期せぬ人物が目の前に現れた。
「レオニー!」
回復しかけの私の気分は一気に低迷した。
振り返ったその先に、カシアス様がいたのだ。
彼と会ったのは結婚発表の日以来だったが、久しぶりに会った彼は以前よりもずっと弱った姿をしていた。
だが、彼の見てくれがどうであれ、私には関係ないこと。ここは無視に限ると、そのまま進もうとしたのだが、カシアス様がその行き道を遮った。
「っ……通してください」
「レオニー……僕が悪かった。全部悪かったっ……。だから、どうかもう一度僕にチャンスをくれないか?」
何が有ったら私にチャンスをくれだなんて言えるのかしら。それ以前に、チャンスっていったい何なの?
「チャンスですって?」
「ああ、一時の欲に溺れて君を失ったことを後悔している。どうかっ……戻って来てくれないだろうか?」
「何があったか知らないけど――」
「プリムローズが変わったんだ。昔の彼女とは別人みたいで、使用人たちも困ってる」
「っ……」
「妊娠中は負担をかけてはいけないと仕事はさせなかったが、乳母もいるから出産後に仕事を任せ始めたんだ。だが、君が簡単にしていた仕事の1つもまともに出来ない。もう今のままじゃ、領地経営に多大な支障が出てしまう!」
カシアス様はそう言うと、私たち以外見当たらない場所と言うこともあってか、憚ることなくその場に跪いた。
「レオニー、本当に悪かった。彼女の妊娠中に溜まった仕事も多い。どうか、もう一度僕とよりを戻してほしい。これからは一生、君以外の人は見ないか――」
「馬鹿は治らないって本当だったのね」
「レオニー……?」
彼の言い分はあまりに一方的で、内容も呆れるものばかりだった。
自分から裏切ったくせに、謝ったら私が戻ってくると少しでも期待しているその性根。
隠す気もなく、私を都合良く仕事をする機械とでも思っているかのような口ぶり。
すべてすべてが私の神経を最大に逆撫でた。
「私は今、シャルリー・クローディアの妻よ。つまり、言い方を変えると既婚者。カシアス様、あなたが今していることは不倫による略奪の提案よ? 同じ過ちを何度繰り返せば気が済むわけ?」
彼を軽蔑する気持ちは止まらず、嫌悪感がどんどん加速していく。
短絡的な彼の思考が、本当に浅ましく感じて仕方がない。
環境が要因していたとはいえ、こんな人を一時期でも好きだった自分を消したくて、私は彼になお言葉をぶつけた。
「あなたの発言は、今の私も、私の夫であるシャルリー様も軽んじて愚弄しているも同然よ。私たちが、あなたにそんな扱いを受ける謂われは無いわ」
「そんなつもりじゃっ……!」
「どんなつもりかなんてどうでもいい。自分自身の責任だと腹を括ってよ。子どもに恥ずかしくないの?」
「っ……!」
「私はあなたが嫌いよ。夫婦に戻るなんて天地がひっくり返ってもあり得ないわ。どうしても領地経営に難が生じるなら、国王陛下に相談してちょうだい。だから、もう二度と私に話しかけてこないでっ……」
息継ぎをする間もなく彼に言葉をぶつけた。
すると、カシアス様はぐうの音も出ないという様子で、がっくりと項垂れた。
せっかく気分を良くするために来たというのに、とんだ誤算だ。
「はあ……」
思わずため息を漏らしながら、私は彼の元から去るように回廊に戻った。
嫌な気持ちが心で渦を巻いている。
早くシャルリー様に会って、この胸のモヤモヤをどうにかしたい。
そう思いながら歩き続けていると、いつしか廊下にサロン帰りの夫人がちらほら現れ出した。
すると、そのうちの1人がハッと驚いた顔をして、私に声をかけてきた。
「クローディア夫人!」
声をかけてきたのは、結婚発表以来最も親しくなったミュラー夫人だった。
「夫人、どうなさいました?」
「ちょうどあなたを探していたのよ」
「私を?」
――どうしてかしら?
訳が分からず首を傾げると、夫人はそれは喜色を帯びた表情でその内容を告げた。
「クローディア公爵様が、サロンが終わったと知ってあなたのお迎えに来ていたのよ。でも、どうやらすれ違ったままのようね」
「夫がですか?」
「ええ」
ああ、嬉しすぎる。一緒に帰れるのね!
今の私にとって、シャルリー様はオアシスそのもの。
早く彼を見つけないと!
「夫人、夫はいまどちらに?」
「あなたが会場にいるかと思っていたから、会場なのではと答えてしまったの」
「そうだったのですね。でしたら、一度会場に向かってみます」
「ええ、そうしてみて」
「夫人、ありがとうございます」
思わず笑みが零れてくる。
そんな私を夫人は微笑ましそうに見つめながら、優しく手を振って見送ってくれた。
◇ ◇ ◇
――シャルリー様があまり移動していなかったら良いのだけれど……。
この道を通らなければ、会場には行き来ができない。
だからきっと会えるはずだ。
もしそれでも会えなかったら、シャルリー様は馬車のところで待ってくれているだろう。
その答えも、この最後の角を曲がれば分かる。
会場付近に近付くと人影が無くなったため、私はワクワクして逸る胸を抱えながら、気持ち小走りで目の前の角を曲がり終えた。
その瞬間、思いもよらぬ光景が視界に飛び込んできた。
――何をしているの……?
会場を出てすぐの廊下の前。
そこにあったのは、シャルリー様の背中に抱き着くプリムローズの姿だった。
身体の末端から、氷漬けにされるような感覚が襲ってくる。そんな中、彼の顔を見て私はなお衝撃を受けた。
「えっ……」
思わず声を漏らしてしまうほど、本当に嫌悪と絶望に塗れたひどく可哀想な顔をしていたのだ。
――シャルリー様にこんな顔をさせるだなんて。
思わず、悲憤が込み上げる。
そのときだった。
「レオニーっ……!!」
私が漏らした声が聞こえたのだろう。
シャルリー様がこちらを見て、私の名前を叫んだ。
その顔は出会ってから未だかつて見たこと無いほど、焦りに焦った表情だった。
いつも冷静沈着なシャルリー様。
そんな彼の形容しがたいほど、あまりに酷く焦り慌てた姿を見ると……何だか怖くなってきた。
自分のことよりも私を気にかける様子に、緊張や危うさを覚えたからだろうか。
そして、そんな私の口からは恐らくシャルリー様にとって、予想外の言葉が飛び出した。
「あの、わ、私、気にしていませんからっ……」
誤解はしていないという気持ち、その姿を見たくなかった気持ち、過去の経験が起因となる複雑な感情が綯い交ぜになり、パニックになった。
そのため、私は混乱した思考の中でそんな酷い言葉だけを残し、慌ててその場から立ち去ろうとしてしまった。
だが、そんな私の背後から、すかさずシャルリー様の声が飛んできた。
「違うんだ! 待ってくれっ……!」
その声が耳に入った途端、私は釘で打ち止められたかのようにその場から動けなくなった。
そして、ゆっくりと進行方向を回れ右した瞬間、シャルリー様がプリムローズを引き剥がす姿が視界に映った。かと思えば、彼は私に向かって全力疾走で駆け寄ってきた。
「気にしないなんて言わないでくれっ……。言い訳もできない。君に不快な思いをさせてすまなかった。ただ、彼女とは何もっ――」
「もちろん分かっております! ただ、あまりに驚いてしまって……」
「っ! ああ、本当に驚かせて悪かった。油断した俺が悪い。本当にすまない。君をこんな形で傷付けることになろうとはっ……」
悔しさのあまり、酷く痛ましげな表情を滲ませるシャルリー様。その顔を見て、私まで心が痛くなってきた。
「私は大丈夫ですよ。それよりも、シャルリー様の方が心配です。もう謝らないで」
私はそう声をかけ、眉間に皺を寄せている彼をそっと抱き締めた。
その瞬間、シャルリー様の身体がビクンと跳ねて強張った。
しかし、次第にその強張りは緩んでいき、彼は私を思い切り抱き締め返した。
「レオニー……レオニー……」
彼は私の名前を何度も呼ぶ。
その様子が何だかいつもの彼よりも子どものように思えて、私は彼の背中を軽くさすった。
すると、シャルリー様は顔を上げて、何度も私の顔にキスの雨を降り注いだ。
「レオニー、俺には君だけだ。愛してる」
そんな愛の言葉を溺れそうなほど囁く彼に、私の心は自然と解れ、今までの出来事をすべて忘れそうになっていた。
しかし、甘く低いシャルリー様の声に交じった響きの悪い鈴の音が、ふと私の思考を現実へと引き戻した。
「何で、どうしてよ……」
その声はシャルリー様にも聞こえたようで、彼は私から身体を離し、私を庇うように彼女に向き直った。
シャルリー様の身体越しに、彼女の様子を窺う。
すると、穴が開きそうなほど私たちを見つめた彼女の、茫然自失の表情が視界に映った。