20話 愛を知った日
彼が向ける感傷を帯びた瞳には、ただ1人私だけが映し出されていた。
「シャルリー様」
再び彼の名前を呼ぶと、シャルリー様の瞳が揺れた。
いつもの冷淡さを失い、何を言われるのかと微かに表情を強張らせたシャルリー様。そんな彼に、私は一歩歩み寄った。
「レオニー?」
突然の私の行動に戸惑ったのか、彼が私の名を告げながら半歩後退する。
しかし、私は気にすることなく、伸ばせばすぐに手が届くまで彼との距離を詰めた。
そして、シャルリー様を見上げて告げた。
「忘れろというのは、私を愛していると仰ったこともでしょうか?」
「っ……ああ、それもすべて忘れてくれ。これからは距離をとるように――」
「忘れたくありません」
「……何?」
私の言葉が余程予想外だったのだろう。
シャルリー様は理解ができないとでもいうように、片眉を上げて目を細めた。
――今ここで、ちゃんと伝えないとっ……。
私は震えを堪えるため強く拳を握り、当惑した様子の彼に喉が絞れた掠れ声で伝えた。
「私も……あなたを愛しているのです。きっと嫌われると思い、言えずにおりましたっ……」
たったの5か月、だけどその短い期間でこれまでの7年を超えるほどの想いが募っていた。
そうした中、彼の言葉を受けたことで、その想いは堰を切ったように溢れ出した。
「例の約束もですが、何よりカシアス様のことがあって傷付くのが怖かったのです。あなたに私ではない他の愛する女性ができたら、もう二度と立ち直れないと……」
言葉を紡ぎ出すにつれ、握る拳に力が入る。
「だから、あなたへの想いに蓋をしようとしたのです。ですが、あなたの想いを知った以上、知らないふりをして堪えるなんてできませんっ……」
これまでずっと隠していた想いを吐露すると、胸に滾るような熱いものが込み上げる。
そんな中、私は彼の紺碧の瞳を見つめ想いの丈を告げた。
「シャルリー様、私もあなたをお慕いしております」
勇気を出し、一心に彼に視線を注ぐ。
すると、ふと私が握る拳に温かいものが触れた。
「そんなに強く握ったら怪我をする」
彼はそう言うと、私の手に視線を落とし固く握られた拳を解き、そのまま私の両手を正面から掬い上げた。
ただ、無言の時間が続く。
それからしばらくし、ようやく彼が口を開いた。
「レオニー、君は優しいから無理に嘘を吐いているんじゃないのか? 君が俺を慕ってくれているだなんて、俺に都合が良すぎでは……?」
長年染みついた癖は抜けないのか、彼の声はいたって冷静そのものに聞こえた。表情も真顔そのものだ。
しかし、その瞳だけは違った。
感傷の色が払われたが、彼の瞳には未だ信じ難いと言う言葉がぴったりな戸惑いが滲んでいた。
そんな彼に、私は涙を堪えながら微笑みかけた。
「それを言うなら私こそですよ。でも、これは夢ではありません。嘘を吐いている顔に見えますか?」
私はそう言って、私の手を掬い上げる彼の手を軽く握り返し、彼を見上げた。
ふと、上下する彼の喉仏が視界に入る。
その直後、彼がゆるゆると首を横に振り、私に真剣な眼差しを向けながらゆっくりと言葉を紡いだ。
「見えない。では、本当にこれからの生涯をかけて、俺は君を愛してもいいということか?」
「っ……! そ、それは、もちろんっ……」
「そうか」
シャルリー様がそんな呟きを零す一方、私の心臓はバクバクと音を立てて鼓動を加速させていた。
生涯をかけて愛してもいいだろうかだなんて……。
あまりにも心臓に悪すぎる。
――どうして平然とそんなことが言えるの?
このままじゃ心臓が持たないわ。
緊張でつい変な受け答えをしてしまった気がする。
シャルリー様は何を考えているのかしら。
恥じらいから思わず伏せた目を上げ、目の前の彼を一瞥した。
すると、喜びを噛み締めるかのように微かに口角を上げた彼が視界に映った。
出会ったばかりの私だったら、今この瞬間、彼がどれほど喜んでいるのか気付けなかっただろう。
だが、今の私にはこの彼の心情が分かった。あまりに嬉しく、自然と私の口角も上がる。
そのときだった。
「レオニー」
シャルリー様が落ち着いた冷静な声で、私の名を呼んだ。その声に釣られるようハッと我に返る。
すると、私の目にかかりそうになった横髪を、シャルリー様が撫でるような手つきで耳にかけ直した。
その後、再び手を握って尋ねてきた。
「……抱き締めてもいいか?」
彼の瞳が微かに不安で揺れているのが分かる。
握り合ったシャルリー様の手にも、僅かに力が籠った。
いつも動じることのない彼に、こんな一面があっただなんて。
私は思わずクスリと笑い声をあげてしまった。
「レオニー?」
「ふふっ、これからは聞かなくても構いませんよ」
不思議がる彼にそう返すと、私は彼と目を合わせたまま繋いだ手を離し、両腕を広げてみせた。
「……抱き締めてください、シャルリー様」
こんなこと今まで言ったことも無い。
そんな私らしくない言葉に自ずと羞恥が募る。
だから、私の言葉に驚き目を真ん丸にした彼を見た瞬間、つい直視できず軽く目を伏せた。
それからどれだけの時間が経ったのだろう。
とにかく緊張しすぎて、10秒なのか1分なのかも分からないあやふやな体感時間が流れる。
しかし、切り出した張本人であるシャルリー様は、なぜか一向に私を抱き締めてこない。
――もしかしてやりすぎた?
引かれたのかしら……。
私は激しく脈打つ鼓動を胸に抱えながら、恐る恐るシャルリー様を見上げた。
その瞬間、眩しいほどの愛情に満ちた視線が私に降り注いだ。
「っ……」
美貌の彼が見せたその表情に、私は思わず心を奪われ息を呑む。そのタイミングで、ようやくシャルリー様が私を抱き締めた。
まるで壊れ物を触るみたいに、優しく包み込むかのような抱擁だった。
その抱擁を受け、私も彼の広い背に腕を回した。
すると、彼は私を引き寄せるように腕の力を少し強め、私たちは存在を確かめ合うかのように、ギュッと互いを抱き締め合った。
彼の胸に頭を預けると、少し早い彼の胸の鼓動がトクントクンと聞こえる。いつもは仄かな彼の香りが、心まで満たすように私を包んだ。
それだけで、じわじわと胸の奥が熱くなってくる。
「レオニー」
「っ……」
心音の温もりに浸っていると、私の名を呼ぶ彼の声とともに零れた吐息が、自然と私の耳をくすぐった。
刹那、私の耳は火のついた薪のように熱を帯びた。
だが、次に続くシャルリー様の言葉で、私の浮つきかけた気持ちは吹き飛んでいった。
「君の人生は決して平坦ではなかっただろう。いつも見せてくれる笑顔の裏に隠してきた傷も、きっと少なくはないと思う」
何でもお見通しな彼は、そう言いながら私を抱き締める力を強めて言葉を続けた。
「ただ、俺にはこれまで君が生きてきたそれらの人生を、変えることはできない」
「っ……」
「しかし、未来は変えられる。これから一生を通して、今までの人生を上書きするくらい、俺が君を幸せにするからな」
シャルリー様の言葉に、私は思わず自身の唇をぐっと噛んだ。
誰かが私をこんなにも大切に思ってくれるだなんて。
それも、私が愛する人がその人だなんて。
本当に夢みたいだ。
「シャルリー様っ……」
胸元から顔を上げシャルリー様を見つめると、彼の美しい紺碧の瞳が柔らかく細められた。
「泣いているのか?」
彼の胸に顔を埋めている間、自分でも気付かないうちに泣いてしまっていたらしい。
そんな私の顔を見た彼は、ひどく優しい笑みを浮かべた。そして、片手で私の腰を抱いたまま、流れるような手つきで自身の胸元にもう片手を滑り込ませ、ハンカチを取り出した。
「レオニーにならばいいよな?」
シャルリー様は独り言ちるように呟くと、そのハンカチを使って私の頬を伝う涙を拭ってくれた。
そして、涙を拭き終えると再びそのハンカチを胸元に戻した。
――このハンカチ、私が贈ったものだわ……。
彼が使っていたハンカチは、私がお礼にプレゼントしたあの刺繍入りのハンカチだった。
わざと仕込むなんてできるわけもなく、彼は普段から使ってくれていたのだと知り、胸を打たれ心が震えた。
その勢いで、私は強くシャルリー様を抱き締めた。
「どうした?」
彼は私の行動に驚きながらも、すぐに私をあやすかのように抱き締め返してくれた。
そんな彼の胸元に顔を埋め、私は先ほどの言葉について言及した。
「幸せにしてくださると仰いましたが、私はシャルリー様も幸せじゃないと幸せにはなれませんよ」
愛する人が幸せでないのに、私が幸せでいられるわけがない。だから、一方的でなく私も彼に幸せでいてほしいと思っていることを伝えたかったのだ。
するとシャルリー様は私に予想外の返答をした。
「それなら安心しろ。すでに達成済みだ」
「えっ?」
思わず漏れた驚きとともに彼を見上げると、シャルリー様は私の前髪を指先でかき分けながら続けた。
「君が傍に居てくれるだけで満ち足りた気持ちになるんだ。これは……幸せということだろう? 俺には君がいたらそれでいい」
ああ、本気なのね。
私しか映っていない彼の瞳を見て、私の胸はこれまでにないほど熱く揺れた。
すると、胸が詰まり言葉が出てこない私に、シャルリー様は言葉を続けた。
「俺たちの出会いは決して良いものでは無かった。少しやり直させてくれ」
やり直しとは何の話だろうか。
そう思っているうちに、シャルリー様は私の左手を胸の高さまで掬い上げた。
「レオニー。他の誰でもなく、俺は君と結婚したい。利用するためではなく、今は愛し合いたいと思っている。この想いを受け入れてくれるだろうか?」
いたって真剣な彼の瞳には、切望が色濃く刻まれていた。その瞳を見て、私が出せる答えはたった1つしかない。
「はいっ……喜んで!」
満たされた心で彼にそう言って笑顔を向けると、私を見つめる水天一碧の瞳が燦然と輝いた。
そのまま、彼は愛おしむような微笑みを見せながら、私の左指に口づけを落とした。
「君と結婚できる日が楽しみだ」
私たちが正式に婚姻を結ぶ日は1カ月後に迫っている。
彼とこうして心が通じ合った今、私もその日が待ち遠しくて堪らない。
――これがきっと、本当に人から愛される喜びというものなのね。
かくして、初めて感じる心の安らぎに浸りながら、私たちは互いに引かれ合うかのように、再び抱き締め合ったのだった。




