19話 不器用な2人と嫉妬の棘
「お話ですか?」
「ああ」
どうしたというのだろうか。
シャルリー様はどうやら苛立っているようだ。
そう肌で感じるほど、彼の周りには殺伐としたただならぬ空気が漂っている。
その様子に、私の心中では思わず緊張が走った。
しかし、そんな雰囲気にも関わらず、私の隣にいる人物は口を開いた。
「し、失礼ながら旦那様っ……」
突然、オリエンがシャルリー様に話しかけたのだ。
この状況において、いったい何を言いだすつもりなのだろうか。
シャルリー様も不審に思ったのか、今にも氷漬けにしそうなほど鋭い眼差しをオリエンに向けた。
「何だ」
「あの、どうやら奥様は熱がおありのようでして」
シャルリー様の視線が恐ろしかったのか、オリエンは目を伏せ尻すぼみになりながらも、何とか言葉を紡いだ。
すると、その声に反応するようにシャルリー様が視線を私に移した。
「レオニー、そうなのか?」
私が赤面していたのは熱のせいではなく、まさに今目の前にいるシャルリー様のせいだった。
オリエンはずっと勘違いをしているが、私はこれを機会に改めて訂正することにした。
「いいえ、熱はございません」
動じなさを装うため、彼の目をしっかりと見て告げる。
すると、眼光の鋭さを緩めた代わり、シャルリー様は酷く冷めた目を向けてきた。そして、軽く頷きながら淡々と言い放った。
「……だろうな」
「っ……」
思いがけない返答に、思わず硬直してしまう。
せめて「そうか」くらいの返事が返って来るかと思っていた。
それなのに、予想通りというような返答に私は違和感を覚えた。
しかし、彼はそんな私に構うこと無く言葉を続けた。
「場所を移して話そう。行くぞ」
シャルリー様はそう告げると、私についてこいと目で合図を送り、背を向け扉の方に向かって歩き始めた。
だが、竦んでしまった私の足では、すぐに彼の背を追いかけることはできなかった。
すると、私がついて来ていないことに気付いたのだろう。
扉前まで移動していたシャルリー様が踵を返し、私の目の前まで戻って来た。
かと思えば、いきなり私の手を握り歩き始めた。
「シャルリー様っ……?」
「……」
別に乱暴に握られたわけではない。
しかし、彼はこちらに一切見向きもせず、私の手を引いて移動を再開した。
私はこの突然の行動に戸惑いながら、ひたすら彼の歩速に合わせて足を進めた。
そうしているうちに、私たちはシャルリー様の書斎へと辿り着いた。
――どうしたのかしら。
私、何か知らないうちにシャルリー様を怒らせたの?
部屋に到着するなり消えた手の温もりを感じながら、私はチラッと彼を一瞥した。
すると、無表情のまま私に視線を注ぐシャルリー様と目が合った。
次の瞬間、彼が口を開いた。
「先ほどの使用人と、何の話をしていたんだ」
「先ほどの使用人とは、オリエンのことでしょうか?」
ここに来るまで数人の使用人たちとすれ違った。
だから念のために確認したつもりだったのだが、私がその名を口にした途端シャルリー様は空笑いをした。
「はっ、名前か……実に親しいのだな。そういえば、アルベールとも随分と懇意の仲になったようだ。っ……まあいい。そのオリエンとやらと何の話をしていたんだ」
なぜアルベールの名前が出てくるの?
何だかいつものシャルリー様と違う意地の悪さを感じる言い方に、少しもやっとする。
しかし、私は平静を装って言葉を返した。
「ただ普通に、彼が私の体調を心配していただけです。それに対して、大丈夫だという話を――」
「そんなわけない。熱でもないのに、何の理由もなく赤くなるはずがないだろう」
私の言葉を最後まで聞くことなく、シャルリー様がピシャリと否定的な言葉を言い放った。
――これはまずいことになったわ。
このシャルリー様の言葉により、私はようやく彼がとんでもない勘違いをしていることを悟った。
だが、同時に困難に直面した。
だって、言えるわけがない。
シャルリー様がその原因だなんて。
今思えば、あの状況に乗って微熱があることにするのが、最も賢い選択だったかもしれない。
しかし、もうすでに手遅れ。
どうやってこの現状を打破しようか。
実際はほんの数秒なのだろうが、体感では非常に長く感じるこの時間に焦燥感が募っていく。
そんな中、シャルリー様が追い打ちをかける言葉を続けた。
「俺には言えないような話をしていたのか?」
「違っ……」
反射的に言いかけた言葉を、私は途中で止めた。
今の彼はいくらそう伝えても、信じてくれそうになかったのだ。
素直にシャルリー様への想いを告げたとしても、その場を取り繕うための嘘だと見なされるだろう。
そしたら、彼の中でもっと疑心が深まるだけ。
元はと言えば、私が越えてはならない感情の一線を越えてしまったから、こんなことになってしまった。
だったらその責任として、諦めの気持ちをつけるためにも、嫌われる覚悟で彼を突き放すしか私に残された道はない。
もう二度と、シャルリー様と今までのようには過ごせなくなるだろうけれど。
――恋愛感情を抜きにしても、本当はもっとシャルリー様と仲良くなりたかったわ……。
自分の欲が招いたこの結果に、酷い虚しさが心を襲う。
だが私は意を決し、彼に心の内を一切悟られぬよう表情を繕って毅然と告げた。
「私がここに来たとき、最低限の夫婦でいようと約束しましたよね? それなのに、会話内容の何もかもを、すべてシャルリー様にお伝えせねばならないのでしょうか?」
ああ、本当に私は可愛くない人間だ。
シャルリー様にしてみれば、逆切れされたも同然。
もう今までの関係性を保てる可能性は絶望的だった。
――でも、これしか方法が思いつかなかったのよ。
彼に嫌われたなら、強制的に私の想いも絶たれるはずだし、期待もせずに済む。
そう心に言い聞かせるも、やはり込み上げるのはやるせなさと悲しみだった。
しかし、表に溢れそうになる感情を堪えようとギュッと奥歯を噛み締め、私は悪に徹するべく目の前の彼を見つめた。
「っ……!」
思いもよらぬ彼の表情が視界に映り、私は思わず息を呑んだ。
先ほどまでの冷酷さが抜け落ち、愕然とした様子で絶句した彼がそこに居たのだ。
そのあまりの様子の変化に驚き、私は取り繕っていた平静な表情を不覚にも一瞬で崩してしまった。
「シャルリー様?」
訝しむ気持ちで彼に恐る恐る声をかける。
折しも、そんな私の耳には予想だにしない彼の掠れ声が飛び込んできた。
「すまない、忘れてくれ」
「え?」
あまりに脈絡のない言葉に、私は聞き間違いかと思わず声を漏らした。
一方、私の正面に佇む彼は、困惑に紺碧の瞳を揺らしながら私を見つめて口を開いた。
「レオニー、すまなかった」
「何がすまないのですか? 忘れてくれって何を? それではまったく意味が――」
「最低限の夫婦でいようと言ったのは俺だ。だが俺は……君を愛してしまった」
「っ……」
予期せぬその言葉に、私の脳内は一気に混とんとした状態に陥った。
――彼はいったい何を言っているの?
私を愛しているですって?
これは私の期待が作り出した幻想なのではないだろうか。もしかして、長い夢からまだ醒めていないだけなのではないだろうか。
そんな思いが呆然とした頭に浮かぶ。
だが、彼は私にこれは現実だと突きつけるように言葉を続けた。
「嫉妬したんだ。他のやつが君と一緒に居る姿を見て。だから君は何も悪くないと分かりながら当たってしまった。俺が言ったことは忘れてくれ、無理に話す必要も無い。もう二度と、こんなことはしない。……本当に悪かった」
シャルリー様は一方的にそう告げると、私を視界から外すようにそっと目を伏せ、酷く痛ましげにしかめた顔を背けた。
「シャルリー様……」
心にしまい込んだはずの欲望と期待が、一気に胸から溢れ出そうになる。
すると、私が名を呼ぶ声が耳に届いたのだろう。
罪悪と背徳に頬を紅潮させた彼が、傷付いたように震わせる瞳をこちらに向けた。
その瞬間、彼の視線と私の視線が一直線に交わった。