16話 参ったな
シャルリー様の誕生日も無事終わり、いつもの日常が始まった。
だというのに、私は仕事をしている今この瞬間、別のことに気を取られていた。
誕生日前日のシャルリー様との出来事。
あれにより、私は心の中の自分の想いを強制的に自覚させられてしまったのだ。
「本当にこんなつもりじゃなかったのに……」
誰もいない部屋で、私は机に肘を突いて頭を抱えた。
まさかシャルリー様に恋してしまうだなんて。
5カ月前の私には、まったく想像できないことが起きている。
厳しい氷雨のような方だと思っていたのに、ともに過ごす時間が増えるにつれ、彼の心地よい優しさに気付いた。誠実さを知り、異名の「氷の公爵」とは程遠い彼の温かい思いやりに触れた。
夫がいたならば、どれだけ優しくされても好きにはならないし、恋にも落ちない。
だが、その歯止めとなる存在が居ない今、そんな彼を知って好きにならずにはいられなかった。
しかし、ふとある言葉が私の心を咎める警笛のように脳裏を過ぎった。
『別に俺たちは愛し合って結婚するわけじゃない。必要最低限の夫婦でいよう』
その言葉を思い出し、私は身体が末端から中心にかけて、徐々に凍てつくような感覚に襲われた。
これは、彼なりの警告なのだ。
互いが快適に過ごせるようにするために。
また、恋愛感情を持っていないし、持つつもりも無いという線引き……。
なのに、私は同意を示したくせに、彼の引いた線を勝手に越してしまった。
しかし、私は越えた線のその向こうに駆け出すつもりはない。
恋愛結婚でもない限り、夫を好きになってもろくなことにならないと既に身をもって学んだ。
恋に恋し、夢見る少女の時代は終わったのだ。
もしシャルリー様の愛情が私以外の誰かに向いたら、私はきっと胸の傷を抉られるだろう。
妊娠までさせたら、それこそ本気で立ち直れなくなってしまう。
私はもう二度と傷付きたくはなかった。
だったら、最初から好きにならない方がマシだ。
そう思うほど、私にはカシアス様とのあの出来事が、トラウマになっていたのだ。
「このままじゃダメよ。これ以上もっと好きになったら引き返せないわ」
この想いは何としてでも、今のうち押し殺さなければ。
しかし、そうは言っても簡単では無い。必然的に彼と接さなければならない場面があるのだ。
やはり好きな人と会えば会うほど、その気持ちは膨れ上がるもの。
だからこそ、私はあることを決意した。
「今日からシャルリー様との接触は、必要最低限にしないと……」
◇ ◇ ◇
仕事が一段落し、背もたれに身体を預け小さく息を吐いた男は、懐から1枚のハンカチを取り出した。
少し前に一緒に狩りに行った婚約者のあどけない笑顔。
心底美味しそうに食事をする、人懐っこい彼女の微笑み。
いつも仕事中に見せる凛とした姿。
ハンカチを渡してくれたとき、面映ゆそうにしていた彼女のいたいけな表情。
広げたハンカチを眺める彼はそんなことを思い出しながら、微かに口角を上げた。
すると、同室で仕事をしていたアルベールが、そんな彼の様子に目を見張りながら声をかけた。
「シャルリー様」
「何だ?」
低く淡々とした声を返すも、その瞳はアルベールではなく手元のハンカチに一点集中している。
その様子を見て、アルベールはからかうように言葉を続けた。
「ぞっこんなんですね」
「ああ。…………は?」
シャルリーは一瞬肯定したものの、アルベールの言葉に違和感を覚え戸惑いの声を漏らした。
いつもならば有り得ないそのシャルリーの反応に、アルベールは堪えきれず笑いを漏らした。
「何を驚いているのですか? ははっ、まさか氷の公爵ともあろうお方が、こんなにも変わってしまうだなんて……」
「アルベール、はっきり言え。何が言いたい」
あまりにも笑う彼にシャルリーは苛立ち、彼をギロリと睨んだ。
しかし、アルベールはそんな視線などものともせず、目元に浮かぶ涙を長い指で拭いながら、彼の質問に答えた。
「まさかご自覚が無いのですか? 奥様にいただいたハンカチを、それは愛おしげに見つめていらっしゃるではありませんか」
「なっ……」
アルベールの言葉に酷く動揺し、シャルリーの大きな瞳が微かに震えた。
なにせ、彼にはそのような自覚が一切無かったのだ。
ただ、ふと見たくなって見た。そうしていると、自然と彼女のことを思い出していた。
それくらいの感覚だったのに、愛おしげという予想外の言葉で言及され、シャルリーはハンカチを握ったまま固まってしまった。
「アルベール。いったい何を言って……」
乾いた口で何とか言葉を絞り出す。
しかし、そんなシャルリーの声を上書きするかのように、アルベールは言葉を被せた。
「奥様のことを愛しているのですね。ああ、なんて素晴らしいことでしょう。私、感無量でございます」
そう言うと、アルベールは満悦の表情を向けシャルリーに笑ってみせた。
幼くしてすべてを1人で抱え込み、私情を捨て大人にならざるを得なかった幼馴染の心に春が芽生えた。
このことは、アルベールにとって心の底から嬉しいことだったのだ。
一方、こうして喜ぶアルベールに反し、シャルリーは依然として困惑したままだった。
「俺がレオニーを……愛しているだと?」
自問自答するように呟く彼は、握り締めたハンカチに視線を落とした。
途端にハッと目を見開き立ち上がると、キツく握ったハンカチを慌てて机の上に綺麗に広げ、手でシワを伸ばし始めた。
しかし、その手は机に置いたハンカチのシワを数回伸ばしたところで、ふと止まった。
「どうされたのです?」
挙動不審なシャルリーに、さすがのアルベールも心配そうに声をかける。
すると、机上のハンカチに目を向けていたシャルリーが、ガバッと顔を上げた。
「っ……!」
アルベールは時が止まったと錯覚するほど、息を呑み言葉を失った。
いつも恐ろしいほど怜悧かつ冷酷な印象を与えるシャルリー。そんな彼が、端麗な顔をバラ色に染め上げ潤んだ瞳を向けてきたのだ。
まさに恋に落ちた男そのもの、そんな表情だった。
長年一緒に過ごしてきたアルベールでも、こんなシャルリーの顔を見るのは生まれて初めてだった。
だが、彼の心情を察したアルベールは安心したように深く息を吐いて彼を見守った。
すると、声だけは落ち着いた様子のシャルリーが、ゆっくりとアルベールに話しかけた。
「アルベール」
「はい」
「どうやら俺は……知らぬ間に彼女を愛してしまったみたいだ」
◇ ◇ ◇
レオニーへの恋心に気づいたシャルリーは、アルベールが退室してから彼女について考えていた。
最初は夫に不倫された憐れな女だと思った。
その次に、この女はプリムローズの代わりになれる存在だと思った。
だが、今の彼女は彼にとってかけがえのない存在になっていた。
「たったの5か月で、こんな気持ちを抱くことになろうとは……」
シャルリーはそう独り言ちながら、人生で初めて自分の頬を抓った。
これが夢では無いのか、自身が正気を保っているのかを確かめるためだった。
しばらくし、彼は微かに眉をしかめて、力を入れていた指を頬から離した。
「現実か……」
どうにも浮ついたこの気持ちが現実だと悟ると、彼の胸には困惑が広がった。
いついかなる時も、冷静に物事に対処してその場を乗り越えてきた。
だが、そんな彼でも恋愛は初めてのことで、これからどうしたら良いのか分からなかったのだ。
しかし、彼は1つだけ確信したことがあった。
「彼女が同じ想いを抱いてくれたら、きっと幸せになれるのだろうな……」
今までの人生で恵まれていると感じたことはあれど、純粋に幸せを感じたことは無かった。
仕事に忙殺され、老獪相手に社交関係を築き、ただただ領地や家門のために尽くしてきたのだ。
そのため、自身の幸せについて考える暇もなく、そういったものに無縁なシャルリーは、初めて戸惑いながらもその可能性を思い描いた。だが、その過程であることが気にかかった。
「そもそも、レオニーは俺のことをどう思っているのだろうか」
天を仰いで目を閉じ、いつもの彼女を脳内で再生する。すると、真っ先に思い出されたのは彼女の笑顔だった。
それだけで、胸がじんわりと熱くなる。
……期待してしまう自分がいた。
だが、それはあまりにも自分にとって都合の良い想像のように思えた。
だからと言って、都合の悪い方が現実であることも嫌だった。
そんなシャルリーは、目を開き背もたれから身体を浮かせた。そして、机に肘を突き眉間に手を当てて熱いため息とともに呟いた。
「参ったな……。何も考えられない。恋とはこんなにも恐ろしいものだったのか」