12話 少しずつ通う心
レオニー・メルディンがシャルリー・クローディアの婚約者となってから4か月が経った。
そのころ、ある1人の男は酷い歯がゆさともどかしさに身悶えていた。
「こうしているわけにはいかない。何とか策を打たなければっ……」
その男アルベールは、自身の主人であるシャルリーが心預けられる存在をずっと切望していた。
シャルリーは生まれたときに母親を、10歳のときに父親を病で亡くした。
その後、母方の祖父が後見人となりクローディア公爵となったのだが、この祖父こそが本当の冷酷無情を体現した厳格人だった。
シャルリーはそんな祖父と関わるようになってから、完全に心を殺すようになった。
また、あの美貌と当時の幼さゆえに、変な人間が多く彼に近付いて来た。
それらの害悪を遠ざけるため、心を殺し、より一層冷酷になった彼は、いつしか「氷の公爵」と言われる人間になったのだ。
アルベールは先代公爵の秘書官の息子のため、幼い頃からともにクローディア公爵邸でシャルリーを見てきた。
だからこそ、もともとは愛想が良く温厚だったシャルリーが、貴族たちから「氷の公爵」と恐れられていることに、ずっと胸を痛めていた。
そのうえ、母方の祖父の遺言で婚約者となったプリムローズも大ハズレ人間。
アルベールは主人であるシャルリーが不憫でならなかった。
そこに現れたのが、レオニー・メルディンだった。
彼女については、シャルリーの命令で一度調べたことがある。
だが、実際に見た彼女は人伝の情報と少し違っていた。
噂通りの甘美な面立ちの中に、聡明さまで兼ね備えた女性だったのだ。
これにはアルベールも期待した。
この人こそが、シャルリーの唯一心安らげる存在になってくれると本能的に感じたのだ。
だからこそ、シャルリーが風邪を引いて倒れた日以降、2人が互いに名前で呼ぶようになったと知り、アルベールは心に羽が生えたかのように浮き立った。
2人の心の距離が縮まったことが、自分のことのように嬉しかったのだ。
しかし、名前呼びになってから1カ月が経ったというのに、2人にはそれ以上の変化が無かった。
仕事関係者のような、事務的なやり取りしかしていないのだ。
これにアルベールは焦った。
恋愛感情ではないが、アルベールは彼らが互いに好感を抱いていると確信していたのだ。
だからこそ、2人の関係をどうにか発展させねばならないと、彼は必死に2人の距離を縮める方法を画策した。
こうして悩み考える日が続いたある日のことだった。
「これだっ……! この提案をすればきっと……!」
とうとうある名案を思い付いた。
ということで、アルベールは2人が一緒に揃ったタイミングを狙い、さっそく提案することに決めたのだった。
◇ ◇ ◇
「狩りですか?」
私は話しかけてきたアルベールにオウム返しをした。
「はい。2人は利害の一致で結婚なさったとは存じております。しかし、もう少し仲を深めるのもよろしいかと思いまして」
「なるほど……」
「で、その方法が狩りということか?」
心底興味なさげな声を出すシャルリー様が、面倒さを隠さぬ表情でアルベールを睨んだ。
しかし、その彼の表情に一切めげることなく、アルベールは言葉を続けた。
「その通りです! ちなみにですが、奥様は狩りのご経験は?」
「あ、ありません……」
「だったらなおさらおすすめします! 何ごとも経験です! 狩りに成功したら、美味しいジビエ料理が食べられますし……」
「ジビエ料理ですか?」
「はい。ちなみにですが……」
そこまで言うとアルベールは腰を屈め、書類で口元を隠しながら私の耳元でそっと囁いた。
「公爵家シェフの作るローストや煮込み料理は、頬が落ちるほど絶品ですよ」
この人、私のツボをちゃんと分かっている。
頬が落ちるほどの絶品……なんて心惹かれる言葉だろうか。気になり過ぎる。
私は思わず、アルベールに顔を向けた。
彼はそんな私に、悪い笑顔でにっこりと微笑んできた。
しかし、シャルリー様の顔をチラリと一瞥したことで、途端に私のワクワク感は萎んだ。
「奥様、どうされますか?」
「っ……せっかくのご提案ですが、今回は――」
「行こう」
「え?」
聞き間違いかと思って、私は声が聞こえた方へガバッと顔を向けた。
すると、シャルリー様が私と目が合うなり、口を開いて再び告げた。
「行こう、レオニー」
◇ ◇ ◇
どんな心境の変化があったのか、嫌がっているようだったシャルリー様から行こうと言ってくれた。
その後、私は彼らに弓を持つこと自体が初めてなことを伝えた。
すると、シャルリー様が手ずから弓の使い方を教え、訓練してくれることになった。
その日以来、私は毎日の隙間時間に彼から弓の使い方の訓練を受けていた。
そして本日、ついに実践的な使い方を教えてくれるということで、私は期待に胸躍らせながら、待ちに待った狩場にやって来たというわけだった。
「これを」
必要な装備を身に着け終えた私に、シャルリー様が弓を手渡す。
「ありがとうございます」
受け取った弓を握り、感触を確かめる。
すると、シャルリー様も弓を手に持ち、改めて構え方を教えてくれた。
「このポーズをとってみろ」
そう告げる彼の姿は、まるで一種の芸術作品のように美しかった。
彼に狙われた獲物は、矢を射ずとも視線だけで射止められそうな気もするが。
「どうした?」
「す、すみません。あまりに美しい姿勢だったので、つい見入ってしまいました……」
何もそこまで正直に言う必要はなかったのに。
言ってしまってはもう後の祭り。
私は慌てて誤魔化すように短く笑った後、真剣モードに切り替えて見よう見まねで彼のポーズをとった。
「シャルリー様、どうでしょうか?」
先生である彼に声をかける。
すると、淡々としながらもいつもよりわずかに明るい声が返ってきた。
「練習のときからだが、レオニーは筋がいいな。だが、もう少し改善の余地もあるな」
「っ……! ありがとうございます……。改善点を教えていただけますか?」
「ああ。少し触るぞ」
彼はそう言うと、弓を持つ私の左肘辺りに手を当てながら言った。
「もう少し腕を上げろ。肩はもっと開くといい」
彼はそう言うと、私の背中を指先で2回ツンと優しく突いた。
「ここの骨、肩甲骨を引き寄せるようにして、肩はリラックスした状態にするんだ」
最初は何を言っているんだと思っていた。
しかし、ここ数日の邸での訓練の成果のおかげか、今日は彼の言うことが手に取るように分かった。
「こうでしょうか?」
アドバイス通りに姿勢を正す。
すると、彼が正面に回ってからかうように言った。
「完璧だ。これなら獲物も逃げられないな」
まるで自分を獲物にでも見立てるかのようなシャルリー様に、思わず笑いが込み上げる。
「シャルリー様が逃げられないなら、私は無敵かもしれませんね」
私の言葉を聞くと、正面の彼は表情にはほとんど出さないながら僅かに苦笑した。
「なかなかおかしな冗談を言うんだな」
彼はそう言うと、後ろ手に持っていたものを手渡してきた。
「じゃあ、次は実践だ。この矢を使って、あの木を射ってみろ」
「はい」
近めの木を指さすシャルリー様に頷き、私は矢を装填し弓を構えた。
背後から見られているという状況に、何だか緊張する。
しかし、彼から学んだ通りを実践するのだと心を落ち着かせ、私はその矢を放った。
「っ! 当たりましたよ、シャルリー様!」
「ああ、やるな。よくやった」
振り返って彼を見上げると、言葉少なに私を褒めながら、どこか誇らしげな笑みを浮かべる彼が映った。
その表情は、まるで心から私の成功を喜んでくれているかのように思えた。
――シャルリー様は、こんな表情もなさるのね……。
いつになく機嫌が良さそうなシャルリー様。
そんな彼を見つめる私の胸には、照れくささとともに、心くすぐるような喜びがじんわりと広がったのだった。