通報
社会福祉課への児童虐待に関する通報はここ近年、増加の一途をたどっている。通報義務が周知されてきた結果であり、児童保護の面からも、実に前向きで望ましい結果とも言える。
しかし正直なところ、非常に面倒臭い。
虐待をする親はまともじゃない。そんな家に通って説得を試みたところで状況改善を促せるはずがない。「行政の犬には関係ない」「税金泥棒」と言われ、精神削って帰路につくのがオチだ。結局、骨折り損のくたびれ儲けで、成果らしい成果がほとんど得られない。
でも、通報は無視できないから下っ端に白羽の矢が立つ。ガセでもなんでも一度は『確認した』という既成事実を作っておかねばならない。そうすれば最悪の事態を避けられる。あくまでも自分たち主体の『最悪の事態』なのだが――
手にしたメモに視線を落とす。
『○○4丁目15―1 美幸アパート203』
「ここだよな」
昭和後半に建てられた築年数の相当古いアパート。ここの203号室の住人、井田千鶴子が娘を虐待しているという。
玄関側から裏へ回る。ベランダに洗濯物が干されている。女性ものの他に子供用の衣服が熱気と湿気を含んだ風に揺られていた。ぱっと見、虐待している様子は見受けられない。スマホを見る。午後十五時半。小学校低学年の子供なら、今の時間は帰宅しているはず。それなのにこの暑さの中、エアコンの室外機が動いていない。
やれやれと階段を上り、部屋の前に立つ。ドアチャイムを鳴らすと、待っていたかのように扉が開いた。
数センチ開いた隙間から二つの目が薄闇に浮かぶ。同時にむあっとした空気が這い出てきた。生ごみが腐ったような饐えた臭い。ウッと吐き気がこみ上げる。一歩後ずさる。嫌な予感を抱きつつ『井田千佳ちゃん?』と声を掛けた。
おずおずと扉が開く。大きな二重の目の上で真っ直ぐに切り揃えられた黒髪。異様に白い肌が印象的な美少女が微かな声で「うん」と返事した。
「お母さんいる?」と口元を抑えながら問う。千佳は「いない」と答えた。
「待っていてもいい? ぼくは役所から来た片山って言うんだけど」
千佳がパッと顔を輝かせた。
「助けに来てくれたん?」
「ええっと。それはちょっと」
「あがって」と千佳に手を引かれた。汗をかいてぬるっとした手。スリッパを持ってこなかったことを後悔した。床がペタペタしている。カーテンは閉まっていて、窓も開いていない。充満した異臭のせいで、目がしばしばする。吐き気がひどくなるとともに頭も痛くなる。これはまずい。早々に退散したほうがいい。
千佳は構わずに居間へ自分を連れて行った。「座って」と座布団を差し出された。擦り切れて、赤黒いシミがついている。蛍光灯は薄暗く、時折明滅する。
床に敷き詰められた新聞紙や広告にも赤黒いシミがたくさんついている。乾いてパリパリになったものや、まだ乾ききっていないものもある。そこに獣の毛のようなものがこびりついていて、コバエがたかっている。台所なのか、風呂場なのか。ぴちょんっと断続的に水の音がする。
最近、ここの近所で野良猫やカラスが殺されて、死体がいくつも捨てられている。幼い子供の行方不明事件も起こっているが、もしかして――
千佳を見れば、彼女は嬉しそうに笑っている。通報者は子どもだった。彼女自身から出た『SOS』ならば、親が帰ってこないうちに連れ出したほうがいい。とにかく、この場にいるのは危険だと、全身に走る悪寒が知らせている。
「千佳ちゃんはここを出たい?」
千佳は「うん」と大きく頷いた。
「ママにどんなことをされるの?」
「ぶたれたり、しばられたり。どこにも行っちゃダメ。チカは悪い子だからって閉じ込められる」
証言は得た。これでいい。
彼女の手を取り、玄関へ向かう。グズグズしている暇はない。靴を履いた。取っ手を握ると自然に扉が開いた。誰か立っている。
「あなた、誰!」
女性の金切り声。千佳にそっくりな女性が蒼白な顔で自分を見つめている。
最悪のタイミングで母親が帰ってきた。マズい。このままでは自分も千佳も無事では済まない。
「この子を保護しに来た社会福祉課の者です。そこを……」
「逃げて!」
母親が叫んだ瞬間、腰に違和感を覚えた。熱い。そして強烈な痛み。手を這わせるとぬるりとした生温い感触があった。手が真っ赤だ。これは血? 視線をずらすと、自分の腰に包丁を突き立てた千佳の笑顔があった。
膝から力が抜けた。かちゃりと鍵が閉められる音が続く。
ドンドンドンドン。
扉を殴る音が聞こえる。一体、何が起こった?
「ママが悪いんだよ。チカを閉じ込めたりするから。でも、ごちそう手に入ったから許してあげる。ね? ママ。この人、どうやって食べよっか?」
【了】