あいつの『めぞん一刻』
大学を卒業してから15年。それ以来初めて、大学近くの喫茶店「銀座亭」に行った。
マスターもおばちゃんも、私の事を覚えていてくれていた。老舗の部類に入るその店の常連はそれこそ何百人といるはずで、私はその中の一人にすぎないはずなのに。
カウンターのそばには、当時と同じようにピンク色の公衆電話があった。そのさらに脇には、大きめの本棚があり、漫画本がぎっしりと詰まっていた。
「東京ラブストーリー」「冬物語」「究極超人あ~る」「火の鳥」「じゃりん子チエ」……いまや漫画界の古典と言って良いタイトルが並んでいた。
これらは、私の友人の重岡が大学を卒業する時に、貯まったツケの代わりとして、本棚と一緒に店に押し付けたものだ。
それがまだあることに私は驚いた。本はどれも年月を経て痛んでいたが、丁寧に補修がなされていた。これらの本を目当てに店に通う学生が今も多いとマスターは言った。そして、盗まれた本があっても、この文庫を愛する常連の学生が代わりの本をブックオフなどから買ってきて、一冊の欠けもないと、おばちゃんは言った。
私はカウンター越しにモーニングセットを頼み、当時のように、表通りの見える窓際の席に向かい、そこに腰を下ろした。
当時と違うのは、向かいの席に重岡がいなくて、代わりに私の手元には文庫から抜き出した「めぞん一刻」がある事、そして、私が15年分の歳を取っている事だ。
あの頃、私と重岡は、このテーブルに向かい、成績の悩みや恋の悩み、進路の悩み、さもなくば他愛もないバカ話や、パチンコの話を延々と続けたものだった。
久々に読む「めぞん一刻」の、今にして思えば恥ずかしいくらい純粋な恋愛と、そして今も色あせないコメディセンスの世界に、私は引き込まれた。
1巻だけ読むつもりが、どんどん読み進んでしまい、やがて昼時になり、ランチも頼んで、読み続けた。
最終巻を読み終えた頃には、夕方となっていた。私はちょっと早めの夕食までこの店で取った。
3食分の勘定を済ませて店を出るとき、マスターが聞いた。
「重岡君は、元気にしとらすかね」
「はい、最近ちょっと便りがないけど、元気にやってるみたいです」
私は一瞬ためらった後、笑顔を作って答えた。おばちゃんは笑顔で言った。
「じゃあ、重岡君にもまた顔を出すように言っといて」
帰りの新幹線の中で、私は後悔した。
重岡は、年の初めに、病気で死んだ。それを言うのが、ためらわれたのだ。(了)