黒い海17
突如として後ろから聞こえた声、体を無くして黒い海の中ですすり泣く声とは違う、人の意思が滲む声。
手足を失った自分では、その声の持ち主の方を振り向くことは出来なかったが、
「意識をしっかり保って!!」
声の主は、滅び溶けていく体を背中から抱きしめてくれる。
(……あっ……温かい……)
それは長らく忘れていた感覚……ずっと昔、骸になって朽ち果ててしまう前に感じ事があった温かな温もり。
(………………もっと……もっと抱きしめて…………)
その温かさに抱かれると、さっきまでの終わりを望んでいた感覚が何処かへと消えていく。
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時間は少し遡り、礼人が黒い穴の中に入り込んだ時に戻る。
光の届かない黒い穴の中…そこは人の目では決して見渡すことの出来ない黒い世界……
沈んでいく……まるで底の見えない海に落ちたかのように……
もしこれが、並の人間なら黒い穴に落ちた瞬間に光を、大地を奪われ、それだけでパニックになってしまうだろうが、
(相変わらず不気味な所だ……)
礼人の目の中に映る世界は少し違う。
彼の目に映る世界は、
『お…おぉ…おぉぉぉぉ…………』
苦しげに声を漏らす歪んだ人の顔であった。
外から見た時は黒い穴は黒い世界でしかなかったが、中に入るとそこは怨霊の深海。
礼人は光の羽を展開し、経文で自分の周りを囲っているお陰で、まるで深海スーツを着ているかのように苦しみに歪んだ顔と距離を保つことが出来ている。
亡者の巣食う世界、そこを単身で沈んでいく。
沈んで目に入るのは人の歪んだ顔、耳に入るのは怨嗟の声……
まるで地獄に来てしまったかのように錯覚してしまうが、ここは地獄ではない。
ここは死んでも成仏出来ない……死んでも死にきれなかった魂が集まる所と言うのが正しい。
自然の摂理、太陽の熱によって海から蒸発した水が水蒸気になって空に上り、空の上で水蒸気になった水が冷えて氷となって地上に向かい、地上に向かう途中で溶けて水に戻り、雨となった水が大地に落ち、大地を通って海に還る。
人の魂も同じようなものだ。
本来なら死んだ人の魂は天国か地獄に向かう、天国と地獄、これを善行を積んだ人が天国、悪行を積んだ人が地獄にというイメージがあると思う。
その考えは概ね正しいが、本当に重要なのはその先のこと、天国に行ったから幸せになり、地獄に行ったから不幸になるというのは早とちり。
天国と地獄、この二つの過程は確かに雲泥の差があるが、最終的に辿り着く意味、人の魂を清い洗い、新たな命になる者の欠片にしてこの世に還す。
それが天国と地獄の役目。




