6話
雪が降っていた。
真上を見上げると渦を巻くように舞い降りてくる。影がかかり灰色の埃のように見えるのに、うつくしい。
成田は傘をさすのをやめ、立ち止まって見上げた。
空気が滲み入るように冷たく、息をはくと白く浮かび消えた。額に雪がひとひら落ち、溶けて流れた。建物に縁取られた空が、大きく広がり、迫る。また距離ができる。冷気が体に入り、透明に澄んでいく。
横を人が通り過ぎた。
成田は傘をひらいた。
また歩き出した。
少し早く家を出た。年が明けて早々に寝込むことになり、今日ようやく店を開けられる。熱とともに体の不純物が吐き出されたようだ。
午後から大雪の予報だった。
集客は見込めない。限定でテイクアウトの看板を出すのもいいかもしれない。元々扱っていたがあまりオープンにはしていなかった。豆とカップの在庫、次の仕入れのことなどを計算した。
店の前に着き、貼紙を丁寧に外す。
空模様を見上げた。
足元では、雪が薄く積もり始めている。
午前中に何人かの常連が来店し、昼過ぎからは予想どおりほぼ途絶えた。テイクアウトの売れ行きはまあまあだった。年始の営業としてはいい結果とは言えないが、こんな日もある。
雪はくるぶしが埋まるほど積もっていた。
夜の7時半を回った。あとは閉店して戸締りをするだけだ。成田は迷い、ドアプレートをクローズに下げなおした。レジ周りを残し、照明を落とす。
成田は普段座ることのないカウンター席に腰をかけた。向かいは早々に店を終え、シャッターが降りている。綿のような雪が降りしきる狭い通りは橙の街灯に照らし出され、知らない場所のように見えた。
さっきチェックしたニュースによれば、電車はほとんど動いていないらしい。保科は今日来ないかもしれない。店が始まったら、と言っただけで、今日とは約束しなかった。
今さら保科の連絡先も知らないことに気づいた。よく考えてみれば会ったのは片手で余るくらいで、最後の一度は偶然だった。
保科が帰った後、眠れなかった。自分の部屋にいた保科の存在を探し、唇に残る感触を確認した。熱を持っただるい体で何度も寝返りをうち、朝方に眠った。
あのままずっと一緒にいたかった。
また来て欲しいと言いながら、ひとりでいると自分に言い聞かせながら、ずるずると引き延ばしてきた。それも終わりにしようと思った。
それなのに今、待つ時間が成田の気持ちを鈍らせている。
まだ保科のことをよく知らない。
彼がずっと成田と一緒にいてくれるのか、保証はない。保証は誰にでもないけれど、それが他の人たちよりも遠く思えた。
保科は成田と同じとは思えない。今だけかもしれない。
成田はカウンターに両腕をつき、その中に顔をうずめた。
今頃になってこんなことを考えるなど、自分でも呆れる。苦しさを追い出すように息をはいた。
「保科、来ないかな……」
成田は顔をかたむけ、外に目を向けた。
ドアの前に人影が見え、成田は体を起こした。背の高い影が傘を閉じ、コートの雪を払っている。
成田は席を立ち、ドアをそっと開けた。保科がこちらを向いた。凍るような空気が店に流れ込んだ。
「もういないかと思った」
「……なんとなく、帰れなくて」
成田がドアを大きく開け、保科は靴底の雪を落とし中に入った。
「電車がなかなか動かなくて、遅くなった」
「大変だったね」
そう言いながら成田はカウンターに入った。
「寒かったでしょう。コーヒー淹れるよ」
「もう片付けてるだろ」
「大丈夫。少し待たせるけど」
保科は席に腰を下ろした。コートとマフラーを取り、鞄とともに空いた席に置く。ようやく落ち着いたという様子だ。きっと疲れているだろう。
無音の空間に密やかに音が響く。
明かりを落とした店の中に、保科がいることが不思議だった。
「体調、どう」
保科が尋ねた。
「治ったよ。充分休めたから」
成田はゆっくりと手を動かした。少し緊張していた。気をつけないと取り落としそうだ。
「……落ち着く店だな」
「そうだね。古いからかな」
「元はお祖父さんがやっていたんだっけ」
「そうだよ。祖父と祖母で。こっちに住んでた頃は学校が終わるとここに帰ってたんだ。家は別にあったけど」
「知ってる。俺、成田のあとをいつもついて帰ってたんだ」
「本当? 知らなかった」
成田が目を丸くすると、保科が苦笑した。
「いつも下向いて歩いてたからな」
「……俺も保科のこと知ってたよ。女の子に人気があった」
「そうかな」
「いつもうらやましかった。女の子たちが楽しそうに、好きな男の子の話をしているのが」
外では雪が次々と降っていた。店の中は暖かく、街に誰もいなくなったように静かだ。
どう話そうか迷っていた。保科は成田の返事を聞きに来ている。そのためにこの雪の中来たのだ。
「……保科は、本当にいいの」
成田はカップを取ろうと背を向けた。
「俺じゃなくても、もっと、普通の相手を選べるでしょう」
「……俺さ」
成田は肩越しに保科を見た。
「成田がいない世界を想像してみたんだよ。俺は化石になってた」
保科が笑った。
「ずっと成田のことを忘れられなかった。多分これからも忘れられない。どこにいても、何をしていても、会えない成田のことを考えて、うずもれていくんじゃないかって。そう思ったら、アンモナイトになってた」
「なにそれ」
「だから、いいんだよ」
保科の声は柔らかかった。力が抜けた。成田も思わず笑ってしまい、取り出したカップを並べた。
薬缶がさかんに沸騰しはじめ、火を止めた。いつもの手順でコーヒーを淹れる。保科がそれを見ていた。少ない明かりのせいか、表情が和らいで見える。
コーヒーを注いで保科の前に出した。
「いつもとカップが違う」
「今日はね」
「洒落てて、年季が入ってる」
「うん。店が始まった時からあるものだから」
保科は手の中で眺めてから、口に運んだ。
もうひとつを保科の横に置き、カウンターを出る。保科の左側の空いた席に座った。
「新鮮だな」
「たまにはね」
成田は少し笑い、両手でカップを持った。
ふわふわするような、ちょっと据わりが悪いような感覚だ。
はじめて保科が店に来た日から、彼のいる空間は特別だった。
冬のはじまりの、あの夜のことを思い出す。
保科が入り口のドアから覗いていた。目が合った時のことを。保科が店に足を踏み入れた時の、冬の匂いを。
「成田、寒くない」
「急に?」
「寒いの」
「……寒いかな」
くだらない、と自分で笑いながら保科が成田の手をにぎった。
「保科、浮かれてる」
ひそやかな声で成田が言った。
「俺はどこへも行かない」
保科が低くささやいた。にぎった成田の手を自分の方へ軽く引き寄せる。成田はそのまま保科の肩にもたれた。
ひとつだけ残した明かりが天井を照らしている。
今までまともに息をしていなかったのかと思うほど、体の力が抜け、呼吸ができた。隣にいるだけで安心する。
「……雪、いつやむのかな」
「朝方にはやむって言ってたけど……明日、昼からの出勤になった」
「じゃあ、朝はゆっくりできるね」
保科が目だけで成田を見たあと、ひとつ長い息をついた。
「店の前、一緒に雪かきしようか」
「会社に間に合わなくなるよ」
「早起きしてさ。雪かきして、二人で朝めしを食べて、成田は店、俺は会社」
「楽しそうだね」
「いいだろ」
「そんなふうになったらいいな」
「……そうしようか」
前を向いたまま、保科が言った。
「……うん」
成田は肩に体をあずけたまま、深く息をついた。目を閉じる。
保科が成田の髪を抱きしめ、顔をうずめた。
「アキ」
成田は笑った。
「急に呼ばないでよ」
「泣くなよ。おまえって結構、泣きむし」
「保科といると、泣いちゃうんだよ」
「ずっと一緒にいよう」
保科が手をほどく。額を寄せた。
鼻先が触れ、まつげが触れた。
成田は保科の首に腕をまわし、まぶたを伏せる。
「……雪って落ちる時、カサ、ていう音がするんだよ」
「へえ。俺も聴いてみたいな」
「うん。聴こうよ」
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