5話
保科の長い正月休みが終わった。
長いと言っても実際にはほんの5日程度だったが、これほど休みが早く終わって欲しいと思ったことはかつてなかった。
年明けの元旦、保科は昼過ぎに中学時代の友人たちと初詣へ行くため、駅で待ち合わせた。ほとんど集まるための口実で、毎年同じメンツで参拝に行き、大人になってからはそこに宴会が加わった。
一人が遅れるというので駅前で雑談をしていた時に、成田が通りかかった。グレーのシンプルなコート姿は、これといった特徴もないのに目を惹いた。
目が合うと成田は軽く会釈をした。保科も控えめに目で挨拶をする。改札に消えるのを見送った。スーツケースを引いていたので、これから帰省するのだろう。
「知り合い?」
気づいた仲間の一人が保科に聞いた。
「ああ、ちょっと」
保科は言葉を濁した。聞いた相手はすぐに元の会話に戻った。
仲間内で彼を知る者はいないようだ。保科はほっとしている自分に気づいていた。
翌日は何冊か買った文庫本の1冊に手をつけてみたが、一向にページが進まなかった。
成田が今何をしているかばかりが気になる。
家族と出かけているのか。食事をしているのか。眠っているのか。
気晴らしに高校時代の親友を飲みに誘ったが、ほとんど上の空だった。
そうこうするうちに、ようやく正月休みが終わった。
仕事始めも落ち着かないまま過ごした。ミスが増え、普段は気のいい上司に正月呆けかとため息をつかせ、散々だった。
世界が変わってしまったようだ。
「放って置けないんだよな、あの人」
家で一人になり、ぼんやり映画の画面を見ながらつぶやく。言い訳じみて聞こえた。本が駄目ならと見始めたのだが、ただ映像が流れていくだけだった。
成田があんな風に泣くとは思わなかった。抱き寄せた肩と、そのあとの笑った顔が忘れられない。
手のひらで目元を覆い、ため息をついた。
金曜の夜だ。ちょうど酒も切れている。保科はダウンジャケットを羽織って表へ出た。
空気が頬に刺さるように冷たい。昨日から急に寒さが厳しくなっていた。ショートブーツにしておいてよかった。
最寄りのコンビニまで来たが、立ち寄る気になれず通り過ぎ、駅へ向かった。人の流れを見ながらそこも通り過ぎ、何となく三原珈琲店の前へ出た。
店は真っ暗だ。明日から営業という貼紙が出ている。しばらく眺めていた。未練がましい。もう少し回り道をして帰ろうと前を向いた。
「……保科」
ダウンコートにニット帽を被り、さらにマフラーをぐるぐる巻きにした人影がこちらへ近づいてきた。
「成田」
「あけましておめでとう」
成田がゆっくりした口調で言った。
胸を風が通った感じがした。
「おめでとう。じゃない。何だ、その格好」
「うん……ちょっとポスターを替えに」
成田は肩から下げた鞄から紙を取り出し、保科に見せた。
都合により8日から営業いたします、と書いてある。
「風邪ひいちゃって」
目が笑うが声はかすれている。明かに熱がある声をしていた。
「……俺が貼ってやるから。テープは」
「……この中」
手袋をはめたまま、肩に下げた鞄をあさるが、なかなか出てこなかった。保科は黙って成田の鞄を取り、テープを取り出した。そのまま重ねて貼ろうとし、成田に止められた。
「……元のを取ってくれるかな」
言われた通りにはがし、新しいものに替える。相変わらず仕事が雑だと反省した。
「ありがとう」
鞄を受け取ろうとするのを持ち替え、成田の肩を軽く押し、来た道へ向かせた。
「送ってく」
「え……」
「そんなぼーっとしてたら心配だろ」
「……うん」
うつむき気味に成田は答えた。
並んで歩きながら、成田に会えたことを喜ぶべきなのか考えた。
肩を丸めて隣を歩く成田に、店にいる時の凛とした雰囲気はなかった。思ったより小柄な気がする。守ってやりたいと思わせる。そういえば子供の頃も同じように思っていたかもしれない。
保科は自分の目線のやや下にある成田の横顔を見下ろした。
風は身を切るように冷たい。この体調で誰かに頼らないのかと、保科は内心腹立たしかった。
「マンションの前まででいいよ」
成田は吐息まじりに言った。
「……夕めしは」
「……食べた」
食ってないだろ、と言おうとしたがやめた。
成田はゆっくりとした歩調で、ほとんどつま先だけを見て歩いていた。保科もそれに合わせて歩く。裏道だが、駅に抜ける道なので人の往来がある。何人かが二人を追い越して行った。
「……この間は、ごめんね」
「俺が余計なこと、聞いた」
「そんなことない。……タイミングって、すごいよね」
成田は手袋をしたまま口元を押さえた。
「……誰かに、はじめて話した」
指のすきまから、白い息が漏れた。
「いつも、なかなか本当のことが話せない。もっと普通のことでも。話したら、みんななくなりそうで」
保科は手を上げかけ、コートのポケットにしまった。
成田は苦しげに一つ息をはいた。
「ごめん、愚痴った。熱のせいかな……保科が優しいから、甘えてるんだね」
「……甘えろよ」
成田がゆっくりと顔を上げ、目が保科の方へ動いた。かすかに笑ったようだった。
保科は曲がりくねる、先の見えない道の先を見た。
成田のブーツが一歩ずつアスファルトを踏む。うつむいて歩くのは癖なのか、と保科は気づいた。
「つらくないか」
成田が口をつぐみ、熱のある目で保科を見上げた。
「いや、体。座れるところあったら休むか」
「大丈夫だよ。もう少しだから」
成田は微笑み、また足元に目を落とした。
ずいぶん歩いたような気がした。
ようやくマンションにたどり着き、部屋まで送り届けた。鍵を開けておくように言って近くのコンビニまで走り、食料と飲み物を調達して部屋へ戻った。
勝手に上がり込むと、成田はスウェットに着替え終え、厚手のカーティガンを羽織ったまま、上半身をソファーに伏せていた。マフラーもコートもハンガーに掛けられている。脱いだ服もどこかへ片付けられているようだ。
「おい。ちゃんとベッドに入れよ。それか何か食べるか」
保科は成田に声をかけた。
「うん」
どちらかわからない返事をし、成田はソファーに肘をつき体を起こした。
保科はセンターテーブルに買い物袋を置いた。部屋はずいぶんきれいに整っている。
成田はソファを背もたれにし、ラグに座り込んだ。その目の前にレトルトパックやペットボトルを袋から出し並べていく。
「保科に会えると思わなかった」
「ん?」
「……風邪移るから、早く帰ったほうがいいよ」
「俺は風邪をひいたことがない」
「うそ」
「本当」
言いながら成田の額に手を当てた。
「高いな」
「そうかな」
そのまま成田の前髪をすいた。額があらわになり、成田がわずかにまぶたを伏せる。小さく吐息をもらした。惹き寄せられた。
成田の顔が近づき、唇が目の前にあった。その端に触れた。息をつく。成田の目が保科の目の奥を確かめるように動いた。頬に触れ、そのままもう一度唇を合わせた。成田の手が保科の胸元に届き、掴む。唇が薄く開く。柔らかい感触に、壊れないよう繰り返し触れた。
唇を離すと、成田の熱に潤んだ目が見ていた。保科は成田を抱き寄せた。大きくため息をついた。
「成田が病人だってことを忘れてた」
体が熱い。熱が上がったかもしれない。
「保科」
保科は体を離し、立ち上がった。
「寝たほうがいいよな。……水分だけでも摂るか?」
「……うん」
キッチンから適当なグラスを持ち出し、ペットボトルからスポーツドリンクを注いで成田の前に置いた。成田は両手でグラスを持ち、半分ほど飲んだ。
「ありがとう」
「じゃあ、俺は帰るから」
眠るまでいたかったが、成田は気をつかうかもしれない。調子に乗ったおろかな自分の熱も冷ましたかった。
成田がふわふわした足取りで玄関までついて来た。
「ちゃんと寝ろよ」
「……保科。店が始まったら、来て」
ドアを閉める間際、成田が心許なげに言った。
「行く。風邪、治せよ」
成田の笑顔を残し、扉が閉まる。保科はしばらく扉を見ていた。諦め、歩き出すと背中でロックが落ちる音がした。
マンションを出ると保科は駅へ向かう道を避け、川べりに出た。川上へとのぼる遊歩道を歩く。
途中点在するベンチの、舗装されていない足元に、こぶしの半分ほどの石が埋まっていた。常夜灯が照らし出している。保科はつま先で地面を掘り返した。何度かつま先を当てていると、石くれが転がり出た。点々とし、止まったのを見届けると、保科はベンチに座り足を投げ出した。
上を向くと木の細い枝々が黒く、くっきりと浮かび上がり、その向こうに藍色の空が見えた。足元から凍るような冷気が這い上がってくる。
弱っているところへつけ込んだようで、後味が悪かった。
しかし、多分、成田は受け入れた。
そうだろうか。
もしそうだとして、成田はどうするだろう。
黙って枝の隙間の空を見上げていた。何度か、遠くで電車が通り過ぎる音が聞こえた。耳に届かないほどの、人が生活している音がしている。川が流れている。星が瞬いていた。
目を開けているのに眠っているような時間が過ぎた。
保科は下を向き、頭をかき回してから小さく息をついた。そして膝に手をつき、勢いをつけベンチを離れた。
遊歩道を外れ、住宅街へ戻った。
ポケットに手を入れ、歩く。
最寄りのコンビニが見えて来た。
成田はもう眠っただろうか。
成田がいないと、彼のことばかり考えている。
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