4話(2)
3時過ぎに、続いていた客足が途切れた。
バックヤードで休憩を取り戻ると、狭い通りをはさんだ向こう側に、背の高い姿が見えた。
成田と目が合うと彼は曖昧に笑った。
1台通りかかった車をやり過ごし、こちらに渡ってくる。
時間が、とても長く感じた。
ドアを開け、保科が入ってきた。
カジュアルなコートにマフラーをゆるく巻き、前とは別人に見える。
成田はいま、自分がどんな表情をしているのか、自信がなかった。
「もう、来てくれないと思ってました」
「コーヒーが旨すぎて」
保科は軽く笑って続けた。
「というのもあるけど、成田さんの顔、見たくなった」
「……どうぞ、座ってください」
笑顔を作ったつもりだったが、そう見えているだろうか。
「今日はブレンドコーヒーにしませんか。うちの看板なんです」
「それ、もらいます」
保科はカウンターの奥の椅子に座った。
「これ、忘れ物?」
成田は振り返った。
保科がネクタイピンを取り上げているところだった。さっき夏生が置いてから、接客が続いたので忘れていた。
「それは……」
うかつだった。保科に見られたくなかったが、もうピンは彼の手の中にある。成田は諦めて、言った。
「以前、好きだった人のものです」
保科は目の前でピンを眺めていたが、カウンターにそっと置いた。
「前に住んでいた部屋に残っていたらしくて。今日、偶然戻ってきました」
「プレゼント?」
「もらったというより……盗んだ、に近いかな」
「どうして」
「その人に、もう会えないと思ったから」
成田は自分の手元を見た。
寒い日だった。成田が一人で飲んでいると、彼があとから来た。待ち合わせをしていたわけではない。なんとなく同じ曜日、同じ時間にそこで顔を合わせていた。
彼はウイスキーソーダを注文した。今にしてみれば、酔うつもりがなかったのだろう。
席に着くと、彼はネクタイピンを外してカウンターに置き、ほんの少しタイを緩めた。
小一時間ほど話し、成田に近々結婚すると告げた。その後の会話を、成田は覚えていない。
彼が店を先に出たあと、ネクタイピンを置いたままだと気づいた。成田はすぐに追いかけた。
もつれそうになる足で彼に追いついた。自分の息が白く暗がりに消えていった。彼は振り返り、成田を見ると眉をひそめた。成田はその胸にすがり、抱いて欲しいと懇願した。
返ってきたのは、彼のキスだけだった。あいさつをするほどの軽さの。
去り際に、成田を見る彼のまつ毛がひとつまたたいて、もう会わないのだと思った。
成田はふたたび立ち去る彼の背中を追ってまで、手にしたものを渡したくはなかった。
それきりだ。
多分、彼といるには、おさなすぎた。
彼が、それまでネクタイピンを外すのを見たことがなかった。その意味がもしかしたらあったのかもしれないが、考えても仕方のないことだ。
「……その人のこと、忘れられないの」
保科が言った。
「もう、忘れた。忘れたけど」
涙が落ち、成田は手のひらで口元を覆った。
泣くつもりはなかった。
椅子が動く音がした。
成田は手近にあったキッチンペーパーを取り、その場にしゃがみ込んだ。
早く涙を止めなくてはならない。今日は来店予定の客がまだいる。
「成田……ごめん」
すぐそばで保科の声がした。
「あなたのせいじゃない」
空気が動き、気配と体温を感じた。顔を上げると間近に保科がいた。成田はやや身を引いたが、保科はかまわず成田の頬に触れ、肩を軽く引き寄せた。考える間も無く体は動き、保科の胸に収まった。
お互いの心臓の音が交わるようだった。
呼吸を繰り返した。
緊張した体から力が抜けていき、血がめぐっていく。
「……その人、男?」
成田はうなずいた。保科は息をつき、成田の髪に顔をうずめた。
「よかった」
「どうして」
「俺は成田が男でも女でもかまわなかったけど、成田も同じか、わからなかった」
「わからないのに、俺に好きだって言ったの」
「諦めようと思ってた。今、逆転した」
保科は笑い混じりに言った。
入り口のドアが開く音がした。
保科は顔を上げ、成田の肩に手を置いてから立ち上がった。カウンターを出ていく姿を成田は見ていた。
フロアの方から、保科の丁寧に詫びる声が聞こえた。客が来たようだ。
年配の女性で知った声だった。成田はしゃがんだまま天井を仰いだ。少し冷静になってきた。たしかにこの顔で接客はできない。
客は成田が30分ほどで戻るとわかると、出直すと言って出て行った。保科は客のオーダーも聞き取っていた。
再びドアが閉まる音がし、保科がカウンターの裏へ顔を見せた。
「また来るって」
「ありがとう。……お客さん、笠井さんでしょう。年末に必ず来る方で……助かった」
保科が差し伸べた手を取り、立ち上がった。
成田はふっと笑った。
「成田って、ほんとは自分のこと、俺って言うんだな」
「……うん」
保科が表情を緩めた。
「顔、洗ってこいよ。俺が店番しようか」
「コーヒーの種類、知らないでしょう?」
保科は顔をしかめた。
「まあ、せいぜい成田はいませんって言うぐらいかな」
保科は成田を呼び捨てにしていた。
「じゃあ……ドアの看板をクローズにしてもらえるかな」
「わかった」
「コーヒーも淹れ直すよ。まだ時間はある?」
「今日、予定はないよ」
保科の返事に微笑み、バックヤードに入った。
ハンドタオルを取り出し、蛇口をひねって顔を洗った。タオルを水に浸し、絞って顔に当てる。大きく息をついた。
驚いた。突然泣いてしまったことも、さっきまで保科の胸にいたことも。
体が緊張したせいか、腕が痛んだ。息とともに力を抜く。体の芯が軽く痺れるようだ。
間近にあった保科の顔が浮かび、成田はタオルを握った。
もう一度顔を洗い、鏡でチェックして店に戻った。
保科はカウンターの奥の席に座り、文庫本を広げていた。
「おかえり」
「……ありがとう」
成田はドアプレートをオープンにし、保科に客のオーダーを確認した。棚から瓶を取り出し、カウンターに入る。
薬缶を火にかけた。保科は文庫本に目を落としている。
ほとんど日も落ちかけていた。ガラスに仕切られた向こう側では、相変わらず人々が行き交っている。店の中は二人だけだ。
保科がため息をつきながら姿勢を変えた。なんの本を読んでいるのかカバーが見えないが、表情が変わる。
客のための商品を用意し、コーヒーを落とし終えるまで保科は本に没頭していた。
コーヒーカップをそっと置くと、保科は目を上げた。
「どうぞ」
「ああ、ありがとう」
文庫本を閉じ、コーヒーを飲む。口角が上がり、成田を見上げた。
「やっぱり旨いな」
成田は微笑んだ。
先刻の客が入ってきた。保科を見つけ、さっきはありがとうね、と声をかける。成田が子供の頃から知っている常連の一人だった。
成田は不在を詫び、商品を渡した。
「アキちゃん、珍しいわねえ。お友達が来てるなんて」
「ええ、今日はたまたま」
どう言えばいいのかと思ったが、否定しなかった。
良かったわ、と彼女は言った。
年末の挨拶をし、扉を出て見送った。
中に戻ると保科がにやにやしていた。
「お友達、だってさ」
「いいじゃない」
「アキちゃんね」
「昔からのお客様なんだよ」
「そっか。……」
保科は何か言いかけるように口を開き、やめて代わりにコーヒーをひと口飲んだ。
「成田、年末年始は」
保科が尋ねた。
「こっちで年越しして、元旦に帰省するよ。店は6日から。……保科は」
何と呼ぼうか迷い、呼び捨てにした。
「俺は実家でおせちでも食って、友達と初詣ついでに飲みにでもいくかな」
それから30分ほど話をし、保科は席を立った。会計は断った。また来ると言い、保科は店を出た。次の約束はしなかった。
ドアが閉まり、ガラスの向こうに遠ざかるコートの背中を見送った。
店はまた静かになった。
カウンターにグラスとコーヒーカップが残っていた。
保科がまだすぐ近くにいるような気がしたが、店には成田一人だった。
いつもと変わらない。
今年も、もうすぐ終わる。
年明けに、保科とすれ違った。
成田は小さめのスーツケースを引いて駅前を改札へ向かって歩いていた。保科は数人と談笑していた。待ち合わせだろう。
目が合い、軽く会釈をする。
そのまますれ違った。
成田は改札を通り、ホームに降りた。
保科は多分、成田とは違う。
周りにいる友人たちや、あの人のように、普通の道を進めるのではないだろうか。そしてこれまで通り、成田は店を続ける。
ホームに電車がすべり込む。風が巻き、減速した車両は定位置に止まった。決まったテンポでドアが開き、成田は乗り込んだ。
車内は明るい。夢から醒めたように、ここはどこかと思う。なんとなく自分だけが浮いているような居心地の悪さを感じた。他人は全く気にしていないだろう。
成田はシートに座った。
これから実家へ向かう。その電車の中。
帰ってきたらまたあの店に戻る。
晴れ上がった空の下、見慣れた景色が流れていった。
お読みいただきありがとうございます!
毎日11時に更新します。