3話
客を街灯の向こうに見送り店内に戻ると、成田は息をついた。
ポケットから時計を取り出した。夜7時前だ。今日も何事もなく終わろうとしている。
昨日保科が来たのは今より少し遅い時間だったな、と考えかけて、切り替えるために店内を軽く見まわした。
商品の向き整えてから、作りかけのミニギフトに手を延ばす。この季節はこういった小さな贈り物がわりと出る。
成田は深い緑のリボンを手に取った。蝶結びを作りながら、目がカウンター席に向いた。
保科はあの真ん中の席に座っていた。
成田が差し出したカップに指を絡め、持ち上げる。口元に寄せ、かたむけ、コーヒーを口にし、のどが動く。
目の前で保科の姿が再生された。
今そこに彼がいるように魅入っていたが、まばたきをすると一瞬で消え去った。
手元を見ると、結んでいたリボンがほどけていた。成田はため息をついた。今日はずっとこの調子だ。ちょっとした隙間さえあれば、彼のことが浮かぶ。
保科が来るのを待っているのだろう、と他人事のように考えた。
昨日来たばかりの客が、今日も来ることはほぼない。また来ると言って来ない客もいる。近くに住んでいるようだから、気が向けばそのうち来るだろう。来なくてもいい。
保科の雰囲気がちょっと気に入って、印象的な言葉を話しただけだ。彼はそういう種類の人に見えない。冬が、成田を寂しくさせている。
リボンを結び直し、かごに並べた。
ドアが開く音がし、成田は顔を上げた。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
冷えた空気をまとい入ってきたのは保科だった。反射的に挨拶をしたものの、すぐにその後の言葉が出なかった。
昨日と同じ、スーツにコート姿だ。成田の顔を見ると、保科は目を細めるようにして笑った。
「昨日のコーヒー」
「え? 何かありました?」
「いや、朝自分で淹れたんだけど、全然旨くできなくて、また来ました。まだオーダーストップ前?」
「ええ」
「それじゃ、何かおすすめ、ください」
「……マンデリンはどうですか」
「それ、お願いします」
保科はコートを脱いで昨日と同じ位置に座った。成田はカウンターに入り、保科の前に水を置いた。グラスに延ばす手を見ないようにし、棚へ向かった。
彼が店に足を踏み入れると、空気が明るく色を変えた。店内の照明が一段明度を増した気さえする。体が軽くなるようだ。
「年末って、やっぱり忙しいですか」
背後から保科が聞いた。成田は瓶を持ってカウンターへ戻った。
「そうですね。ちょっとしたプレゼントとか、お歳暮なんかでも使っていただいているので。この時間になると落ち着くことが多いけど」
「そうなんだ」
薬缶を火にかけた。1杯分の豆を挽き、フィルターに落とす。
保科の顔がまともに見られない。ついさっきまで繰り返し思い出していたことを、彼が知るはずもないのに、まるで見られていたかのように緊張した。
しばらくして、おもむろに保科が口を開いた。
「成田さん、子供の頃この辺に住んでましたよね」
年配の客の話題に上ることはあるが、同世代から聞かれることは今までなかった。
「ええ。3ヶ月くらい、小学2年の頃」
「俺、隣のクラスでしたよ」
成田が目を向けると、保科は少し笑った。
「通学路も一緒だったんです」
「すみません、気づかなかった」
保科は成田を知っていたのか。苗字を訂正したときに見せた、保科の表情に納得がいった。
「女の子の間でいつも噂されてた。かわいかったからかな」
「……それは知らなかった」
成田は苦笑した。
「でも夏休みが終わったら、もういなかったんだよな」
「それは母が再婚したからですよ」
「……そうか」
「前は母の旧姓でしたけど、成田に変わって。父の急な転勤もあって、遠くへ引っ越したんです。ちょっと大変だったな」
軽く言ったつもりだったが、返答を探している保科に、成田は笑いかけた。
「でも家族仲、いいんですよ。妹もできたし」
「成田さん、妹いるんだ」
「ええ。両親が再婚した後に生まれて。今、高校生です」
「女子高生か。いいなあ。うちは男ばっかり三人兄弟だよ。むさ苦しい」
「長男?」
「そう」
「いいじゃないですか、弟も」
「今となってはなあ。ガキの頃は喧嘩ばっかりだよ。物を壊してよく親に怒られた」
薬缶から沸騰する音がし始め、会話が中断した。火を止めると店内が静かになる。
成田は薬缶から湯をコーヒーポットに移し、適温に冷ました。それからフィルターに少し注ぐ。蒸れた頃にまた注ぐ。コーヒーの粉からゆっくりと泡が立った。徐々にしぼみ、また湯を注ぐと泡が膨らむ。
「覚えてるかな、公園で」
再び話し始めた保科に、成田は目を上げた。すぐにまた手元に視線を戻す。
「公園?」
成田は頭の中で近所を探した。一番近いのは小学校の先にある小さな公園だ。
「俺ね、そこで泣いている成田さんに虫を投げたんですよ。おもちゃだったけど」
成田は手を止め、保科を改めて見た。記憶の中の少年の面影が、保科の輪郭に重なった。
「……浩平くん」
保科は笑顔を作った。
確かにそんなことがあった。
成田が転校する少し前のことだ。
「あれでみんなにいたずらしてたんだよな。結構気に入ってたんだけど、あのあと失くしちゃって」
成田はポットを置き、しぼんでいくフィルターの泡を見つめた。
転校することを母親に告げられた翌日だった。
新しい学校にもようやく慣れ、このまま安心できる日々が続いていくのだと思っていた。
母に結婚する人がいるのは知っていた。父ができるのはなんとなく嬉しかったし、その人のことも嫌いではなかった。
大人たちは突然変更になった予定に合わせることに忙しく、成田を気遣ってくれてはいたが、自分の気持ちを言い出すことができなかった。
大人たちの前で泣くことはできなかった。
すっかり忘れていたことだ。
あの頃の心細さと寂しさが、体に広がっていくようだった。
「失礼かもしれないけど、成田さんのこと、女の子だと思ってたよ」
「昔、よく間違えられました」
「……なんで泣いてた?」
カウンターに肘をついた姿勢で、保科が見上げた。
保科の声はほのかに灯る明かりのように成田を緩ませた。どう言おうかと迷った。
「何ででしょう。……思い出せない。友達と喧嘩したのかな」
「悪かった」
保科は妙に生真面目に詫びた。
その表情に、心当たりがあった。
公園でブランコに座って泣いていた時、足音が聞こえた。
目を開けると小さなスニーカーが見え、顔を上げた。保科浩平だった。
話したことはなかったけれど、いつも走り回っていて、明るくて、ちょっと面白くて、女の子からも人気があった男の子。その彼が立っていた。
「……保科さんも、泣きそうでしたよ」
「え?俺が?」
成田はうなずいた。
「そうかな。いや、そんなことないよ」
保科は神妙な表情で否定した。
「それにしても、泣いている子に虫を投げるなんて」
「意味わかんないよな。多分……」
保科は考え込むように頬杖をついた。
「元気づけたかったんだろうな。驚かせて、笑わせたかった」
成田はうつむき、笑いをもらした。
「そんな……」
「笑うなよ」
「だって全然、逆」
「だからわからないんだって」
成田はカップにコーヒーを注いだ。足元の扉を開ける。かがんで目尻を指先でこすり、小さなクッキーを取り出した。
ソーサーに添えて、保科の前に出した。
「これは、お礼」
「え? 泣かせたのに」
「泣かされてませんよ。励ましてくれようとしたんでしょう」
保科は成田の顔を見上げた。
目を外して口元に笑みを浮かべる。
クッキーの包みを取り眺めると、スーツのポケットに入れた。
保科はソーサーを引き寄せ、コーヒーを飲んだ。昨日と同じようにカップを見つめるまなざしを、成田は見ていた。
「成田さんは、俺の初恋なんだよな」
保科はカップの中を見つめて言った。
ふいに口にされた言葉に、成田はすぐに返事ができなかった。
「……女の子と間違えて? 男で残念でしたね」
成田はフィルターからコーヒーかすを落とした。蛇口をひねり、フィルターを洗う。少し雑になったのを自覚し、手を緩めた。
「いや」
その先を言わず、保科はコーヒーを飲んだ。
肯定してほしかった。今の自分に言われているように錯覚しそうだ。期待を早く潰してしまいたい。
成田は洗い終えたフィルターを片付けた。
「そうだって、言わないんですか」
保科が目を上げた。
思いがけず言葉が強くなり、自分でも驚いていた。
「男じゃ、初恋にならないでしょう」
「そうだよな」
保科は成田を見つめた。
「そうなんだけど……」
成田は保科の言葉を待った。
保科は立ち上がった。
「今日は帰るよ。変な話、した」
保科は鞄から財布を出した。コーヒーはほとんど残っていた。
「これ。お釣りはいいから」
「待って」
カウンターに千円札を置き、コートと鞄を取りドアへと向かう。成田はフロアへ走り、保科の腕をつかんだ。
「……失礼なことを」
保科は立ち止まると、うつむいて大きく息をはき、成田の顔を見下ろした。
「俺、成田さんのことが好きなんだよ」
成田の手をそっとつかみ、下ろす。
「ごちそうさま。コーヒー、本当に旨かった」
「あの、私……」
保科の顔を見上げた。
成田は口から出かけた言葉を言おうとし、言えず、足元に視線を落とした。
「……また、来てください」
保科はしばらく成田を見ていたが、軽く微笑むと店を出た。
成田はゆっくりと閉じるドアの向こうの、背中を見送った。すぐに見えなくなった。
店内を振り返ると、カウンターに保科の残したコーヒーのカップがあった。重い手つきでソーサーを取ると、マンダリンの濃い香りがした。
シンクにコーヒーを流し、カップを洗った。ポットやデキャンタを洗い、水気を拭き取った。何も考えなくても手は動いた。やがて視界が歪み、見えなくなる。成田はシンクの縁についた手の上に顔をうずめた。
店を引き受けるときに、ひとりでいようと決めた。
あの人をまだ忘れられなかったあの頃、この先誰かに出会うとは思えなかった。
それなりに忙しく働く中で、繰り返し思い出すたびに記憶は濾過され、彼への気持ちは忘れていった。失ったさびしさだけが、すくい切れない不純物のように残った。
保科に応える勇気がなかった。
成田は体を起こし、フロアの照明を落とした。カウンターの明かりだけが残る。多分、もう閉店時間は過ぎているだろう。時計を見なくても時間の感覚は体に染みついていた。
ほんとに、俺ってばかだな、とつぶやいた。
マンダリンは、あの人が買っていたコーヒーの香りだ。
お読みいただきありがとうございます。
毎日11時更新です。