2話
店を出ると保科は人の流れに逆らい駅へ向かった。駅を通り過ぎ、今度は人の流れに乗り大通りに出る。程なく住宅街が広がった。
この辺りは道が入り組んでいるが、どこがどう繋がっているか、ほぼ頭に入っている。保科はいつもの道を外れ、遠回りをした。
カーブした細い道を進むと少し広い道路に出た。横断歩道を渡り、道なりに進む。この辺りはあるかなしかくらいの傾斜がついている。隣を自転車のライトが追い越していった。
大人になってみるとどうということもない出来事が、子供の頃は重大事だった、ということがある。後から客観的に見る視点と、当時受けた感情は乖離していて、思い出すと笑ってしまうのだが、同時に痛みも蘇る。
たいていの出来事は大人になるにつれ忘れ、整理され、感情も差し引かれていくものだが、そのまま保存され、なかなか忘れられない。
三原珈琲店で彼を見かけたのは1ヶ月ほど前のことだった。たまたま通りかかった。そういえばこの道は小学校の通学路だったと気づいた。
ちょうど店のドアが開き、客が出て来た。見送りに出たのは若い男の店員だ。少し長めの柔らかそうな髪が、頭を下げるとさらりと顔にかかる。細身で、優しげな綺麗な顔をしていた。女性客が放っておかないだろうな、そう思って通り過ぎただけだった。
それから何かずっと引っかかっていた。そしてあの思い出と繋がった。
このところ、そのシーンが何度も繰り返し頭に浮かぶ。他愛のない出来事だが、一旦思い出すと一瞬で解凍されたように、感情や映像が鮮明に目の前に広がる。
小学2年の新学期に、隣のクラスに転校生がきた。転校生は珍しく、女子たちがしきりに噂をしていたが、保科は友だちと遊ぶのに忙しくあまり興味がなかった。
新学期が始まり数日経ったある日、廊下で見知らぬ女の子を見かけ、これがあの転校生かと知った。小柄で可愛らしい。彼女は通学路が一緒だった。
下校時間友人たちと別れると、彼女はいつもうつむいて歩いた。最初は泣いているのかと心配になったが、そうではなかった。
保科はいつも少し離れて後をついていく。声をかけることは出来ず、彼女も振り返らない。そのまま三原珈琲店の扉に入っていくのを見届けると、保科はほっとし、誇らしいような気分になった。遠くから見守っているつもりになっていた。
その彼女がある日、泣いていた。
理由はわからない。
梅雨も終わろうという、曇り空の日だった。下校時間いつものように友だちと別れると、真っ直ぐ店に向かうはずの足が別の道へそれた。保科はこっそりついて行った。
その足は帰り道とは反対側にある小さな公園に入った。遅れて中を覗くと、彼女はブランコに座っていた。ブランコは小さく前へ後ろへと揺れている。
保科は気になり、公園の前を通ったり、他の道を回って戻ったりしては彼女の様子を見た。なかなか声をかける勇気が出ない。
何度目かに保科が入り口に立った時、ちょうどブランコの揺れが止まった。彼女はブランコのロープを握りしめている。ショートカットの長めの前髪に隠れて表情は見えない。
しばらく見ていると彼女が泣いているのに気づいた。
保科はどうしていいかわからず何度か足踏みし、ふいに彼女に駆け寄った。
彼女が顔をあげる。
目が合った。
保科はとっさに、ポケットに握りしめていたゴムの毛虫を投げつけた。
彼女は驚いて立ち上がった。後ろに揺れたブランコの板が彼女の細い足にぶつかるのを、視界の隅に見た。
赤くなった頬、小さく開いた唇。見開いた目。
彼女の表情と、自分のしたことに驚き、立ち尽くした。
彼女はやや目を伏せ、袖で涙を拭うと走り去った。角の向こうに見えなくなるまで、ただ見ていた。
それだけの思い出だ。
「子供のすることはわかんねえなあ」
つぶやきは車が通り過ぎる音に紛れた。
新学期が始まった頃には、彼女の姿は見えなくなっていた。名前と、その子が男だと知ったのは彼が転校した後だった。話す間もなかった。
この話を高校時代の親友にしたことがある。社会人になってからのことだ。どんな話の流れだったのかは覚えていない。
「それはあれだな。好きな子につい、いじわるするパターン」
そいつはそう断言した。言われるまで思いもしなかった。彼女は実は彼だったと明かしそびれた。
一人暮らしの部屋に帰った。
明かりをつけ、コートと鞄を置くと、ネクタイを緩めて冷蔵庫を開けた。発泡酒を取り出しプルタブを引く。冷たい液体を喉に流し込んだ。
あの時見た店員が妙に気になり、転校生の三原秋史ではないかと思った。今は成田秋史だろうか。今日話をして間違いないと思った。しかし聞けなかった。
「何しに行ったんだ、俺は」
本人だと確かめてどうしたかったのか。本人すら忘れているであろうことの、謝罪でもしたいのか。
そうではなく、幻のようにいなくなってしまった彼が存在して、元気に暮らしていると知りたかった。どちらにしても自己満足だ。
もう一度会うとは思わなかった。
成田の横顔と、コーヒーを淹れる手つきを思い出す。
綺麗だったなあ、と缶に口をつけたまま、つぶやいていた。
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