1話
枯葉を連れ去る、乾いた風の音がした。
成田は飴色のカウンターを磨きながら、窓の外を見る。
日はすっかり暮れ、店の前は帰宅する人々が行き交う。厚手のコート姿が増えた。
師走を前にして、急に寒くなった。古い木枠の扉のすき間から、冷めたい空気が忍び寄る季節だ。
成田のいる三原珈琲店はコーヒー豆の専門店で、駅へ抜ける裏通りにある。日中はまばらだが、この時間はそれなりに人通りがあった。
去年祖父が引退してから成田が店を任されていた。と言っても新しいことを始めるでもなく、常連客と時々来る新規の客で細々と営業している。店の内装は開店当時から変わっておらず、多少の古さと雰囲気に愛着はあったが、あちこち傷んでいた。
7時をまわり、そろそろ閉店準備をする時刻だった。
扉の前に枯れ葉が一枚落ちているのが目に留まった。すきま風に吹かれて揺れている。通りから入ってしまったのだろう。
街路樹はもうほとんど葉を落としている。成田はフロアにまわり、細い指で枯れ葉を摘んだ。下を向くと長めの前髪が顔に掛かった。少し伸ばし過ぎたかもしれない。
顔を上げると、会社帰りらしい男性がガラスの向こうから覗き込んでいた。成田と同じ27、8歳くらいだろうか。背が高く、落ち着いた雰囲気に見えた。髪は短めにカットされ、明るい雰囲気の目をしている。
目が合うと心なしかほっとしたような表情をしたので、成田は扉を開けた。
「まだやっていますか」
「大丈夫ですよ。どうぞ」
「よかった」
彼は明るく笑み、店内に足を踏み入れた。成田は扉を閉め、先に立つ客の背中を見上げた。あたたかな、冬の匂いがする。
彼はフロアを何歩が進むと、足を止めた。
壁側にはずらりとコーヒー豆の入った瓶が並んでいる。この手の店に慣れていないらしい。
「お好みはありますか。合わせてお選びしますよ」
「そうだな……モカはありますか」
「はい。こちらに」
成田が中へ進み瓶に手を伸ばそうとすると、彼は店内を見回した。カウンター席は3席あった。
「そこでいただけますか」
ラストオーダーは過ぎていた。初めての客だし、まあいいかと思った。
「どうぞ」
成田はにこりと微笑み、彼を席へ案内する。彼はまっすぐにカウンター席の真ん中に座った。
水の入ったグラスを置き、成田は薬缶を火にかけた。彼は棚に並んだ瓶やコーヒー器具などをしげしげと眺めている。
「お仕事帰りですか」
成田が声をかけた。
「はい。ずっと寄りたいと思っていたんですけど、なかなかタイミングがなくて。今日やっと来れました」
「そうでしたか。お帰りはいつも遅いんですか?」
「まあまあ、かな」
「お忙しいんですね」
そんな他愛のないひと通りの世間話をした。
変わった客だな、と思った。わざわざ足を運んでくれたのはありがたいが、閉店前とわかっているこの店で、コーヒーを一杯飲んでいくのだろうか。この辺りには、他にまだ営業している喫茶店はある。そちらの方が落ち着けるはずだし、わざわざこの店に来た理由がわからなかった。
薬缶から湯が沸いている音がした。火を止め、湯をポットに移してドリップする。慣れた手順だ。学生の頃祖父に教わってから、ずっと繰り返してきた。
成田はコーヒーをカップに注いだ。
彼は考え事をしているようだった。邪魔にならないよう、客の前にそっと出す。
彼は我に返ったように顔を上げ、前に立つ成田を見た。
目が合った。そのまま、2秒ほど見つめ合う。そらせなかった。
先に彼が視線を外し、手元のカップに目を落とした。ソーサーを引き寄せ、褐色の液体を覗く。
「……綺麗だな」
自然と口からこぼれたようだった。
成田の視線に気がつく。
「あ、いや」
「ありがとうございます」
成田はふふ、と笑った。
大きな形の良い手がカップを取り、ゆっくりとひと口飲んだ。息を漏らす。カップの中を見てもうひと口飲む。気に入ってくれたようだ。
「来た甲斐があったな。三原さん、旨いです」
「私は成田です。三原は祖父の苗字で」
やや驚いたように、彼は目を上げた。看板を見てそう思ったのだろう。
「それは……失礼」
「いえ、うちは三原珈琲店ですから。元々祖父の店で……祖父は母方なんです」
彼は成田を、何か確かめるように見ていた。
「いや……そうか。すみません、勘違いです」
少し笑みを浮かべ、彼はまたカップを口に運んだ。
目を伏せ、カップをゆっくりとかたむける。コーヒーを含み、喉が動く。成田は片付ける手を止め、その仕草を見つめた。そのまま見つめ続けそうになっている自分に気づき、再び手を動かし始めた。客に気づかれないよう、ゆっくりと息を吐いた。
「……子供の頃、この辺りをよく通っていました」
「そうでしたか」
「前にいらしたのは、お祖父さんだったんですね」
「ええ。今は引退しまして。たまに店にも来ますよ」
「……そうですか」
思い出に耽るように手の中のカップに目を落とす。
それからは何も話さなかった。彼はゆっくりとコーヒーを飲んだ。時折こちらに視線を向けることがあったが、そのまま考え込むようにまた正面を向く。
成田は明日の予約表をめくった。すでにチェックしていた文字をたどる。落ち着かないのに、ずっとここままでもいいような、不思議な気分だった。彼がいるだけで空気が違うような、心地よさがある気がする。
しばらくして彼は成田に言った。
「俺は保科です。……この豆、自宅用にもお願いできますか」
豆を挽き、パッキングした頃にはコーヒーは飲み干されていた。
彼は会計を済ませると、今度はもっと早く来ますよ、と言い帰っていった。
時計を見ると閉店時間を過ぎていた。明かりを落とし、ドアプレートをクローズにする。
雑務をしながら保科との会話を思い返した。
何故わざわざ名前を訂正したのだろう。別に言わなくてもよかった。
地元の人はこの店を三原さんと呼ぶ。自分のことを三原だと思っている客はいるし、そう呼ばれることもある。それを特に気にしたことはなかった。
薄暗い店内を見廻し、チェックする。裏口の施錠を確認し、成田は表へ出た。
コートの襟をかき合わせる。そろそろマフラーが欲しい。冷えた空気を吸い込み、真っ暗な空を見上げた。星は見えなかった。
自宅までは10分弱の距離だ。遅い時間でもないのに、自分の足音だけが妙に響いている気がした。
成田はポケットに手を入れうつむき、交互に視界に入るつま先を見た。
綺麗だと言われたのはいつ以来だろう。もちろんあれはコーヒーのことを言っていたのだけれど。
冬になると決まって思い出す人がいた。ずいぶん前のことなのに、きっかけもなく記憶の奥からあらわれる。
大学生の頃、この店でアルバイトをしていた。その頃来ていた常連客の中に、その人はいた。歳は成田よりひと回りほど上で、会社員らしいが、詳しくは知らなかった。
彼は月に1、2回、決まって木曜の夜に来店した。商品も決まっていた。彼女の好みらしい。成田はたいてい祖父と会話をするのを少し離れた場所で聞いていた。帰り際に「秋史くん、また」とこちらにも手を上げ、帰って行く。その笑顔が好きだった。
たまたまバーで会ったのは、彼と知り合って2年が経った頃だった。初めて一人で行き始めた店だ。その日彼は男性と二人連れだった。昔からの馴染みで、たまに顔を出していたらしい。
二人は一定の距離感を保ちつつも、親密そうに言葉を交わす事もあり、成田は軽く嫉妬しつつも困惑していた。関係が気になった。
最初友人だと紹介され、酒が進んでから、実は元彼なのだと冗談ぽく打ち明けられた。今はそれぞれパートナーがいて、良き友人として付き合っているのだという。その頃はまだ、成田にはそんな関係が想像できなかった。
彼がご馳走するといい、いつもより長居した。連れの男性とも打ち解け、いろいろな話をした。
「アキは、綺麗だね」
彼は頬杖をつき目を細めて言った。ほろ酔いで楽しそうだった。成田は笑顔を返した。泣きたいような気持ちになった。
マンションのエレベーターを降りて自宅のドアを開けた。玄関から部屋に通路の明かりが入る。先にある真っ暗な空間を見ると、時々自分でも戸惑うほど寂しさを感じる。成田は部屋の明かりをつけた。
その後、彼とは何度かバーで会った。そのうち彼は珈琲店に来なくなった。それから会っていない。バーにも行かなくなった。連絡先も知らない。
もう気持ちは忘れてしまったのに、思い出ばかりが繰り返される。
成田は帰宅すると、習慣でバスルームへ直行した。外から持ち帰った諸々のものを流したい気がする。
シャワーのレバーをひねる。程なく熱い湯が落ちて頭から打たれた。今日は少し疲れた。湯が骨張った指先をつたい排水溝に流れていく。
そうか、と成田は自分に少し笑った。
綺麗だと言われて、嬉しかったのだ。
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