イワン本紀 1 皇帝戴冠
ホアキン。
それは帝国の首都の名であり、帝国そのものを表す名でもある。
永遠の都。光の都。
はるかな昔、ホアキンの地に興った民族は、その長き歴史の中で周辺諸領域を征服していき、その国土は拡大の一途をたどった。
今、その国土は全世界と同義であるといっても過言ではない。世界において帝国の命の及ばない領域はただ二つあるにすぎない。
ひとつは無色界につながる高色界。
そしてもうひとつは帝国の北方に広がる草原の地である。
したがって、帝国の住民にとっては、帝国ホアキンはそのまま全世界を意味した。
なぜなら、高色界は人間の世界とはかかわりのない場所であり、草原の地は豊かな森林でおおわれた帝国に居住する民にとっては「我々の世界」とは異質の別の世界であるという認識しかなかったからである。
帝国ホアキンはほぼ、数十年に一度めぐってくる盛典を三日後に控え、活気に溢れていた。盛典とは新しい皇帝の戴冠式である。
長く政情の安定した帝国にあっては、帝位は父子継承が当然のごとくに続いていた。最近の七代については、皇帝が幼少年期に死した例はなく、皇帝薨去の際には必ず後継たる男児がいた。
新皇帝オットー・キージンガーは二十四歳であった。若く、容姿端麗で、その性も極めて温厚との評判も高い新しい皇帝の即位は帝国全土の臣民を沸き立たせた。さらなる善政への期待はいやが上にも高まったのである。
そして、そのような長期的な期待以上に貴族も、庶民も、奴隷にいたるまで、待ちこがれていたのが戴冠式のあとに続く大祝賀祭である。
帝国臣民にとってはそれは三年前、新皇帝オットー・キージンガーの皇太子時代の結婚式以来の大祝賀祭になるはずのものであった。
ダルマティスは三十七歳。伯爵家の当主である。首都内にある彼の邸宅に一人の客があった。 ガレリウス。三十五歳。子爵家の当主である。 身分と年齢に若干の差があることから、常にガレリウスがダルマティスに敬意を表してはいたが、二人は数年前にとある文芸サロンで知り合い、何かと馬が合ったことから以後、急速に親交を深めていた。
ガレリウスの訪問は、名目上は、二人が貴族として招待を受けている戴冠式に着用する衣服の最終的な確認であったが、その用は早々にすませ、二人は応接室で本来の目的であった雑談を楽しんだ。
「新しい皇帝陛下は極めて優秀な方で、少年時代より将来は史上稀にみる賢帝となられるであろうとの声が高かったお方であらせられますし、我ら貴族の一員として、これほど幸せなことはありませんなあ」
客が主人に向かって話しかける。
「うむ、まったくありがたい。これでさらなるホアキンの繁栄は約束されたようなものだ」
「それにつけても、戴冠式はどのようにとりおこなわれますのか。やはり伝統に則ったものになるのでしょうな」
「そう、教皇猊下は既に十日前に都にお入りになられましたし、戴冠式では古式に則り、陛下の御頭に皇帝冠をお載せになられよう」
「先代の皇帝陛下の戴冠式の際は、私は家を継いではおりませんでしたので、戴冠式への列席はかないませんでしたが、ダルマティス殿は列席されたのでしたな」
「うむ、私の父は若くして亡くなったので、幼くしてこの伯爵家を継いだのでな。今でも、教皇猊下から皇帝陛下の御頭に皇帝冠が授けられた瞬間の荘厳な情景は忘れられぬ」
「いやいや、私もこれで老後の語りぐさができるというもの。そしてそのあとは、祝賀祭が楽しみですな」
「そう、三年前の熱狂が再現されることになろうな」
今度の話題は二人が近年共通に体験したことである。二人はしばし、三年前の興奮を思い出していた。
「三年前、オットー陛下の御結婚式ですか。あの時は本当に驚きましたなあ」
「驚いたというのは、皇太子妃、いや、今では皇后陛下となられるシモネッタ陛下のことかな」「さよう」
「うむ。素晴らしく美しい方とは噂で聞いていたが、あれほど美しい方とは思わなんだ」
「さよう、さよう。あのような美しい御一対を拝見すれば臣民があげて熱狂いたすのも当然のこと」
「やはり、神に選ばれた方というのは、ご容姿からして我らとは違っておられる」
「そして、あの……」
ガレリウスが口ごもった。それまでの口調とは異なり言い淀んでいる風があった。意を決したように話し始めた。
「イワン殿下のことは何かお聞き及びですか」
その名を口にする時、ガレリウスの顔に緊張の色が走った。
そして、ダルマティスもまた。
イワン。新皇帝オットー・キージンガーの異母弟。十四歳。
「あの方はいったいどういうお方なのでしょう」「ふうむ」
「私はまだ、一度しかお目にかかったことはありません。今年の新年の皇族方がご臨席になられたパーティーの時です。私はあの方をお見かけした時、あの方から一瞬たりとも目を離すことができなかった」
「ふうむ」
「あの方は、あの方は本当に人間なのでしょうか。たしかにお噂は聞いておりました。あまりにも美しい。ひとたび書物をひもとけば、どれほど難解な書物であってもそこに書かれていることをたちまちにご理解なされ、一度で全てを覚えてしまわれる。はては、此の世に生をお受けになったとき、既に森羅万象をご存知であられた、というようなお噂までありました。あたかも人間が神そのものであるかのような物言い。あるいは噂が噂を呼ぶの類かと想っておりましたが」
ガレリウスはことばを切った。そしてしばし沈黙した後、話を続けた。
ダルマティスは黙って聴き続けていた。ガレリウスのことばはそのまま、ダルマティスの思いでもあったのだ。
「美しい。あの方は美しすぎる。いや、美しいだけでなく」
「……」
「ダルマティス殿。私はあの方を見たとき、なにやら恐ろしくなったのです。皇帝陛下は美しい。それにもまして皇后陛下は美しい。しかし、それは最も美しい人間はかくもあらんという美しさです。しかし、イワン殿下はそれを超えている。いかに皇族であられるとはいえ、我らと同じ人間であることに変わりはないはずです。が、殿下は」 「……」
「ダルマティス殿。あの美しさは人間のものではない。そう、あれは高色界だ。高色界の美です」
「高色界はただ崇めるべし。高色界は地とかかわらず」
ダルマティスは帝国の民であれば、誰もが知っている聖句を唱えた。
「高色界は高色界。ホアキンはホアキン。現世でつながるものではないはずだ」
「判っております。それは判っているのですが」「……」
「ナターシャ殿下のこともお聴きお呼びでいらっしゃいますね。ナターシャ殿下もイワン殿下と同質のお美しさをもっていらっしゃるお方であるとのご評判です」
ナターシャ。イワンの同母妹。十二歳。
ダルマティスは黙って頷いた。その面は疲労の色が濃かった。
ホアキン皇宮、戴冠の間。
壮麗を極める皇宮内における最大の広間は六百人を超す人々を容れて、なお余りあった。
皇帝玉座の元にひざまずく新皇帝オットー・キージンガーの頭上に今、教皇の手から皇帝冠が載せられた。
厳粛なる沈黙は数瞬ののち、轟き渡る歓声に換わった。
しかし、さらに続くはずであった歓声は、皇帝玉座に近い方から寄せ来る沈黙の波に再び換わった。
ありえるはずのないことが起こっていた。
皇帝玉座は大広間の床より十段の階段の上にあり、今そこには三人のみいた。
最上段中央に二つ並ぶ皇帝玉座と皇后玉座。
その前で立ち上がって群臣の歓呼に応える皇帝と皇后と教皇。
その壇上に向かって皇弟イワンが階段を一段、一段昇り、皇帝たちと同じ壇上に立ったのである。
イワンは、皇帝、皇后と教皇の姿をじっと見つめた。
気配を感じて、中央に立つ三人がイワンの方を向き、お互いに見つめ合う。
双方の沈黙にこれが予定にない、突発事であると群臣は気づいた。
戴冠の間を静寂がつつんだ。
「何かな、イワン」
先に口を開いたのはオットーだった。
「兄上」
イワンの静かな、しかしよく通る声が大広間に響きわたる。
「私は、この世界で一番偉い人は兄上である、と想っておりました」
オットーは黙って、イワンを見る。
「そうではなかったのですか。今、兄上の頭上に冠を載せた方は兄上より偉いのですか」
「この方は特別な方だ。高色界を奉じるつとめをなさる教皇猊下であられる」
「では、その方は高色界に属する方なのですか」「高色界に属するなどとはとんでもない」
教皇が口をはさんだ。
「高色界はこの地上にかかわるものではありません。それは無色界につながるもの。私は人として、高色界を奉じるつとめをなす、最高の地位にあるものです」
「そうでしょうね」
イワンがことばを切り、そして口元にうすく微笑をたたえた。
「あなたは人間だ。たしかに人間でしかありえない」
「イワン。お前は何者なのだ。人間ではない、とでも言うのか」
オットーが問うた。そしてオットーは想った。
これこそ、イワンが誕生してより自らの心を占める最大の疑問であったと。
イワンは笑って答えなかった。
戴冠の間を静寂がつつむ。 そこに集う群臣は全て一様に皇帝と同じ疑問を心に抱いた。
「コンスタンチン」
イワンが群臣に向かって呼びかけた。
「はい」
イワンと同じ年頃の少年が最前列に出てきた。「ペーター」
イワンが再び呼びかけた。
「はい」
やはり、イワンと同じ年頃の少年が群臣の中より歩を進めてコンスタンチンに並んだ。
「こちらへ」
「はい」
コンスタンチンとペーターが階段を一段、一段ゆっくりと上がっていく。
皇帝も皇后も教皇も、そして広間に集う群臣も誰もが何もなさず、ただ、見つめていた。
コンスタンチンとペーターは九段昇ってそこで停まった。
「どうした。そこまでか」
「はい、殿下と同じ壇上に立つことはできません」
「そうか」
コンスタンチンとペーターを見守っていたイワンに皇帝が思わず呼びかけた。
「イワンよ」
イワンが皇帝の方を向く。
が、オットーは何も言わずイワンを見つめるのみであった。
イワンは微笑を浮かべてオットーを見る。
オットーには、イワンが我が弟とは想えなかった。それは何か得体の知れない、自分には及びもつかないものであった。
及ばない、そう、オットーには判っていたのだ。たとえ、仮にこの十四歳の少年が自分の弟である、と想われているにしても、自分は決してこの少年の上に立ったり、並んだりできる存在ではない、ということが。
「イワンよ」
オットーは再び呼びかけた。
「お前に今ここで皇帝の座を譲ろう」
群臣はざわめいた。
しかしそれは本来このことばの意味することに比べたら決して大きなものではなかった。
人々の胸にはそれは自然なことのように感じられたのだ。
イワンはゆっくりと頸を降った。
「兄上、兄上はこのホアキンの歴史が始まってから何人目の皇帝ですか」
「五十二人目だ」
「私に五十三人の中のひとりになれ、とおっしゃるのですか」
「で、では、ではお前は……」
オットーが息を継いだ。
「皇帝という称号では不足だというのか。判った。では何か、お前にふさわしい称号を考えて名乗るがよい」
「いいえ」
イワンは否定した。
「私はイワンです。ただそれだけです。「イワン」ただこのことばだけが全てを意味するのです」
皇帝は絶句した。
「どうか、兄上はそのまま皇帝であり続けて下さい」
イワンが右手を挙げた。
群臣がはっとしてイワンを注視した。
「人々よ」
イワンが語った。
「皇帝に歓呼を」
こうして式典は継続した。
戴冠式の際、そこであったことはあっという間に帝国全土に広まった。
戴冠式のあとの祝賀祭は予定通り催された。
だがそこに三年前に帝国全土をおおった、底なしの興奮、陽気さはなかった。
祭りの喧噪に身をゆだねる人々の心の底には常にイワンがあった。
そして人々は自らがよく知る時代が終わり、未知の時代が、何か想像することの不可能な時代が始まろうとしているのを予感していた。