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チャガタイ叙事詩 1 母、ホルフェ

ネーミングについては、

極力、普通にあるような名前。そして、既存の名前を援用いたしました。


歴史が好きな方。

そして、宗教、哲学・思想にも興味を持っておられる方に読んでいただければ、と思います。

主要な登場人物のかっこよさ。

そして、彼らの台詞のやり取りには、かなりの意を注ぎました。

           

 草原の一部族である突厥の汗キプタヌイの愛妾ホルフェは、長らく病床に臥していた。

 医師より

「余命幾ばくもない」

と告げられたキプタヌイは、ホルフェとの間に生まれた四歳の男児チャガタイと、二歳の女児クサンチッペを連れて、ホルフェが療養するゲルを訪れた。


 ゲルの入口にキプタヌイの姿を認めたホルフェの顔が一瞬輝いた。しかし、ホルフェの口をついて出たことばは

「あなた、どうかそれ以上は近づかないで下さい」

というものであった。

 ホルフェは伝染性の胸の病であった。

 一年以上の病臥生活にもかかわらずその美しさは少しも損なわれてはいなかった。むしろその顔色は健康を失った代わりに、より白く、より透明感を増していた。

 ホルフェのことばにもかかわらず、キプタヌイはホルフェのベッドの傍らにやってきた。

「そういうわけにはいかぬ。今日はお前と最後の別れをするためにやってきたのだ。チャガタイとクサンチッペも連れてきた」「ああ」

ホルフェの目から涙があふれた。

「チャガタイ。クサンチッペ」

ホルフェの両手がその顔を覆った。

しばし涙に暮れたあと、ホルフェは顔をキプタヌイに向けた。


「あの子たちに病が移ったら大変です。でもどうか一目だけ逢わせて下さい」

「一目ではない。このベッドに連れてくる。あの子たちに母として最後のことばをかけてやってくれ。チャガタイとクサンチッペもどんなにお前に逢いたがっていたことか。せめて最後の時くらい抱いてやってくれ。それで病が移ったりするものか。偉大なる薬師如来もきっとお許しになる」

 ホルフェもそのことばにすがった。信じてもよいと思った。ホルフェはどんなにそれを望んでいたことだろう。


 キプタヌイはゲルの入口を出てそこに佇む従者にチャガタイとクサンチッペを連れてくるように告げた。

 しばらくして、キプタヌイとともにチャガタイとクサンチッペが入口から姿をのぞかせた。

「お父さま。お母さまのところに行ってもいいの」

四歳のチャガタイがおずおずとキプタヌイに訊きただした。今まではずっと母のゲルに近づくことをかたく禁じられていたのだ。「ああ、今日は最後のお別れだ。行きなさい」

そのことばを聞くやいなやチャガタイは母の元に駆け寄った。クサンチッペもあとに続く。


「お母さま」

「おお、チャガタイ、クサンチッペ」

親子は抱き合った。

一年数ヶ月ぶりの抱擁であったが、クサンチッペには母に抱かれた記憶はない。チャガタイにとってもそれは極めて淡い思い出でしかない。

そして、チャガタイとクサンチッペは、ホルフェの記憶にあった姿からはるかに大きくなっていた。

もし、逢うことが許されるなら。

ホルフェには我が子に話したいことはいくらでもあった。しかし、それが現実になると様々な想いが胸に溢れてことばが出てこなかった。

 ホルフェは涙に暮れながらしばらくじっと二人の子供を抱きしめた。

 だが、偉大なる薬師如来から許された時間は決して多くはないはずだ。

 ホルフェは我が子をそっと胸から放し、涙を拭きながらその全身をじっと眺めた。ホルフェはやっとの思いでことばを紡ぎだした。

「チャガタイ、クサンチッペ、大きくなったわねえ」

「お母さま。僕は今度、お父さまに馬をもらうんだ。スダホルクとサンドピアリーの間に生まれた初めての子供なんだよ。名前は僕がナイスケイチャとつけたんだ。」

 草原の民とともに生きる馬は、世界の中で、最高の能力をもつ馬である。

スダホルクはキプタヌイの愛馬であった。

そしてサンドピアリーはかつてホルフェの愛馬だった。

葦毛と鹿毛のその二頭の馬はそれぞれ、草原に存在する数多の馬のなかでも最も速く、最も賢い牡馬と牝馬であった。


「そう、サンドピアリーが子供を産んだの」

ホルフェはかつて自分を乗せて草原を疾走した愛馬に想いをはせた。あれからどれだけの月日が流れたのだろう。

ホルフェが病に倒れたあと、サンドピアリーはその背に誰も乗せようとしない、ということは、ホルフェは自分を看護する従者からすでに聴いていた。

「チャガタイももう馬に乗れるような年齢になったのね」


チャガタイが話せたのはそれだけだった。

それからあとはクサンチッペが自分のことを話し続けた。

まだ二歳のクサンチッペに系統だった話ができるわけではない。クサンチッペが思いつくままに色々な話をする。

ホルフェはそれにいちいち頷きながらニコニコと聴き続けた。

それはまさに病床にある間中、ホルフェが思い描いていた光景だった。

夢はかなった。たった一度だけ。

別れの時が近づいた。


「チャガタイ、クサンチッペ」

ホルフェが話し始めた。 愛するわが子に最後のことばを遺さなければならない。

「私はもうすぐ、偉大なる薬師如来様に召されて天に行きます。あなたたちの前からいなくなってしまいます」

チャガタイが目に涙をいっぱい浮かべながらもじっと聴き入った。そのことはチャガタイは既に父親から言い聴かされていた。クサンチッペには母のことばはまだよく理解できなかったが、兄を見習って同じように黙って頷いていた。

「病気になってしまって、私はいつも寝てばかり。あなたたちとちっとも一緒に遊んで上げることが出来なかった。でも私はいつもいつもあなたたちのことばかり考えていました。逢いたくて、逢いたくて。でも私の願いを今日、お父さまが叶えて下さいました」

ここまでしゃべるとホルフェは再び、二人の我が子を抱きしめた。

「ああ、チャガタイ、クサンチッペ。愛しています、愛しています。私がこの世界からいなくなっても寂しがらないで。私はいつだって天からあなたたちのことを見守り続けています。今までは一緒にいることが出来なかったけれど、これからはいつだって一緒にいます」

しばらくただ抱き合う時間が続いた。

「私のことをどうか忘れないで」

チャガタイがこっくりと頷くのをホルフェは胸に感じた。

ホルフェはかたわらに立つキプタヌイに視線を向けた。

「あなた、ありがとうございました」

チャガタイとクサンチッペをそっと胸から放した。

キプタヌイが頷く。

「さあ、チャガタイ、クサンチッペ。行こう」

チャガタイは泣きじゃくりながらも頷いた。

キプタヌイは左手でクサンチッペを抱き上げ、右手でチャガタイの手をひいた。

草原の民、突厥の汗、キプタヌイもまた、目に涙を浮かべていたが、そのままホルフェに笑顔をひとつ残してベッドを離れ、ゲルの今は閉まっている扉に向かった。

夫と二人の子供の背中が一歩、一歩ホルフェの視界から遠ざかる。扉に着いた。

「あっ」

ホルフェが思わず一声発した。キプタヌイが振り返った。

チャガタイの頭をなでて母の方へ振り向かせた。

キプタヌイとその胸に抱かれたクサンチッペとそして横に立つチャガタイと。

三人が並んだ。

チャガタイは必死に涙をこらえている。

ホルフェは三人の姿を、その目に、その胸に灼きつけた。

永遠の一瞬が過ぎた。

ホルフェはこっくりと頷いた。

キプタヌイが頷き返した。

三人の姿が次々に扉から消えていく。

消える瞬間、三人とも、ホルフェに向けて、その持てる最高の笑顔を残した。

ホルフェは目を閉じた。

今、自分の網膜にある映像を他の光景によって置き換えることを拒否するかのように。


 ホルフェは家族との最後の別れを行った翌日、静かに息を引き取った。二十七歳だった。


 葬儀の行われた日の夕べ、チャガタイは独りナイスケイチャの背に乗って、ゲルの集まった領域を離れて草原を疾駆した。

どこまでも、どこまでも。

 彼は母と話がしたかった。

抜群の視力を誇る草原の民。彼もその例にもれなかったが、彼の視力をもってしてももうゲルは見えなくなった。

 見渡す限りの草原。周囲全ての方向に広がる地平線。天はそれがありうる最も低い位置から地を覆っていた。

 チャガタイはナイスケイチャの背からおりた。

 チャガタイは寝転んだ。そして天を見た。

そこは母のいる場所だった。

チャガタイはいつまでもそうしていた。


 夜になった。

 この時、月は新月の時期で、天においてはその最も鋭利な姿があった。そして雲は一片も存在しなかった。

 満天に星が溢れる。その全ての星にただ独り向かい合う少年。


 天と対峙するチャガタイの心中に存在したもの。それは、彼はまだ知るべくもない概念であったが「永遠」ということばが最もふさわしいものであったろう。

 あるいは「神」と呼ばれうるものであったかもしれない。


 チャガタイが生まれて最初の記憶。

 それはおのれを抱く母の姿であった。彼にはもうそれが現実のことだったのか、夢の世界のことであったのか判らない淡い映像であった。

 彼は全てを母にゆだねていた。ひたすらな安心感。慈愛、美。 これらのことばが意味するものはチャガタイにとってはこの時の母の姿に他ならない。

 しかし、その慈しみ深き人はチャガタイの元からいなくなってしまった。

 母が病臥するゲル。その存在を意識した時、チャガタイはどんなにかその場所に憧れたことだろう。何度、その扉を開けようと想ったことだろう。

それをさせなかったのは父の言った

「ホルフェもそれを望んでいない」

という一言があったからであった。


 憧れぬいた末にようやく逢うことが出来た母。母はチャガタイの記憶のとおり、いやそれを超えて美しい人だった。

そして優しい人だった。

 チャガタイは天を見る。そこは母のいる場所だ。

「人は天から降り立ち地に生まれる。そして、死して再び天に還る」

 チャガタイはそのように教えられた。

 チャガタイは天に行きたいと想った。

 母の元に行きたいと強く想った。


 突然、チャガタイは自らの全身が何者かによって包まれたのを感じた。

体が浮遊する。

満天に散らばる星がチャガタイの方に近づいてくる。

いや、そうではなかった。チャガタイが天に向かって飛んでいた。

星がその光度を増してくる。

さらに天に近づく。

もう星は個々の姿としては存在せず、チャガタイの目にはただ光だけが溢れた。

光の中に飛び込んだ。

チャガタイは光につつまれた。

光の彼方に母の姿があった。

母はあの至上の優しさをたたえた笑顔でチャガタイを見つめていた。

チャガタイは母の胸に飛び込み、母に抱かれた。

チャガタイは母と自分をつつむ光に目を凝らした。


 チャガタイのもつことばではその光景を、そして今、その心に満たされた想いを表現することは出来なかった。

いや、たとえどんな碩学であっても人間には表現できることではなかった。

しかしチャガタイは……

全てを理解した。


 翌朝、チャガタイは幼なじみのワンフーに発見された。

寒さ厳しい草原で一夜を明かしたチャガタイは、瀕死の状態であった。

彼の傍らにはやはり幼い当歳馬ナイスケイチャがいて、その鼻先をチャガタイの体にこすりつけていた。


 三昼夜、生死の境をさまよったのち、チャガタイは生還した。


 チャガタイは変貌していた。 元々、母親に似たとても美しい少年であったが、優しい心の克ったやや弱々しい印象を見る人に与えていた。

 生還したチャガタイには、彼を見る人が思わず頭を下げざるをえない威があった。

 それはたかだか四歳の子供が、本来もてるようなものではなかった。そして、その容姿は人を超えた神聖なるものを感じざるをえないものとなっていた。


 チャガタイとクサンチッペの兄妹の日常は、母が病に倒れてからは、マンドハイという名前の少女が面倒を見ていた。

 ホルフェが亡くなったときで、まだ十五歳であったが、母がいなくなったこの兄妹に対して、それまでにも増した愛情で接し続けた。



「吉祥天」

いつもそうあるように、目を閉じて、無色界にその精神を遊ばせていた観世音の瞼が開き、傍らにあった妹の方にその精神を向けた。

「はい、観世音お兄さま」

「あなたも感じましたね」

「ええ」

「今、無色界に何か別の世界のものが訪れました。六年前にもここを訪れるものがいましたが、これは……」

吉祥天が観世音の精神を静かに受けとめ、その先をうながした。


「何かが始まろうとしているのか。それとも……」

観世音は再び目を閉じた。

しばらくして、その瞳から再び光が発せられた。

「何かが終わるのか」

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