負傷兵
ここは戦場であった。だが、もう戦場では無い。戦いは終わったのだ。あちこちから鳴り響いていた銃声は途絶え、衛生兵が立ち回り、補給が行き渡り、ようやく穏やかな空気が漂い始める。
銃火器の時代の戦闘である。頑健に立てられた近代の建設物も、同じく近代に開発された兵器にあっては脆くも崩れ去る他は無く、町並みは既に瓦礫の山と化している。その山に散らばる兵士達は、この町の守護にあたっていたのだろうか。あるいは、この町に侵略した者共なのか。それはさしたる問題では無い――。
「……いる。いる。俺には判る。どこだ。どこにいるんだ……」
――ここに一人の負傷兵がいる。
四肢や体幹、あちこちの治療の跡が痛々しく、頭部に巻かれた包帯のために片目が塞がれている。残る片目すら虚ろで焦点が定まらず、とても見えているとは思えない。
未だ、彼の戦いは終わっていなかった。彼の意識は未だ戦場にあった。未だ負傷の癒えない身体で、未だライフルを抱きかかえたまま、未だに見えない殺気に怯えている。何やらブツブツと唱えながら、虚ろな視線をあちこちに走らせ、緊張に体を強ばらせていた。そんな、未だ怯える負傷兵に声をかける者がある。
「ジャック、おい、ジャック」
配給で回ってきたらしい食料を突きつけながら、同僚らしい別の兵士が声をかけた。お陰で負傷兵の名前が判ったが、特に名前に意味は無い。親切な戦友の気遣いに負傷兵は一切応じず、念仏のようなうわごとを唱え続けている。既に心を閉ざし、視覚、聴覚などの五感も完全に閉ざされているかのようだ。戦友は「だめだコイツ。もういかれてやがる」と肩をすくめて――といっても蔑んでいる訳ではない。気の毒そうに気遣いながら、そっとその場を離れようとした、その時であった。
「――国王陛下!」
嬉々とした歓声が上がった。どうやら兵士達の近代国家は絶対王政を敷いているようである。兵士達の目を見れば判る。彼らの喜びに満ちた表情を見れば、その忠誠心が絶対王政で然るべき絶対のものであることを――ああ、国王陛下! こんな危険な辺境の最前線の、こんな下々の兵士達のために、足をお運び下さるなんて!
国王陛下は兵士達と同じく、同じデザインの軍服を身につけていた。だが、兵士達のように泥にも埃にもまみれておらず、下ろしたてのように色鮮やかで、今からパーティーに出かけても遜色は無いほど美しい――いや、そうでなければならない。絶対王政なのだから、絶対に国王陛下の玉体はおろか、衣服すら傷がつくことがあってはならない。泥にも、そして埃に汚れることも、ほころびなどもってのほか。
そんな立場の陛下が最前線へと足を運ぶ。尚武の国なのだろう。国の若者を鼓舞するために、あらゆる手を尽くさなくてはならない。国の為に命がけで戦わせるため、スタイルだけでも「私も戦う。皆も戦え」という振りをみせなければならない。果たして善政を敷いているか、圧政を重ねているのか知らないが、素振りだけでも好意的に兵士達に働きかけることは、決して悪いことでは無い。
兵士達は熱に浮かされたように立ち上がり、手を打ち振って国王を讃える。高い士気が保たれ、忠誠心が純粋である証が示されている。本当なら戦闘が終わった今こそ、ゆっくりと体を休めて食事を取り、傷ついた体を癒し、来たるべき次の戦闘に備えるべきなのだが。
いや、ここに一人。陛下を讃えず未だ座り込んでいる不敬の者が一人。
「おい、ジャック! 御前だぞ! ジャック!」
あの負傷兵である。未だ体を強ばらせて銃を抱えて虚ろなままだ。もうすぐ目の前に国王陛下が通りかかる、名誉な瞬間が迫っているにも関わらず。
今度こそ親切な戦友が彼を無理にでも立たせようとする。それはそうだろう。陛下に対して不敬な者を放置することほど、不敬に当たることはない。
だが、陛下はそんな負傷兵の有様に気付き、「そのままにしておきなさい」と大らかに手を振った。戦友は高揚した面持ちで頬を紅潮させ、国王陛下の恩赦に最敬礼する。いや、どちらかというと、声をかけられたことに感激したのだろう。誠に健全きわまりない絶対王政である。ここまで下々の兵士に忠誠心が行き渡っているのなら、陛下の王国は安泰だろう――いや、その王国の危機がすぐ目の前にあった。周囲の兵士達は響めいた。
「――陛下!!」
国王に銃口が向けられた。それはあの負傷兵であった。やにわに負傷兵は立ち上がり、あろうことか、敬愛すべき、忠義を尽くすべき、己が主君にライフルを向け、引き金に指をかけているのだ。
側近達は蒼白となり、周囲の兵士達は狼狽し――いや、狼狽している場合では無い。我が身を盾として陛下を守り、負傷兵を取り押さえるのが先決だ。だが、刹那の事態である。ただ立ち上がり、発砲するだけの一瞬に、気付いただけでも優秀だ。
周囲の者が取るべき行動に移ろうとした時には既に銃声が鳴り響いていた。
ダンッ……。
見事に命中。銃弾は国王陛下の背後に迫っていた敵兵に、正しく見事に命中した。
物陰に隠れていたのか、瓦礫に身を潜めていたのか、死んだ振りをしていたか、あるいは自分自身も死んだと確信していたのかもしれない。故に存在を気付かれず、最大のチャンスを獲得したのだ。そして、もう少しで成功するところだったのだ。あの、負傷兵がいなければ。
お手柄である。勲章の授与は間違いない。もし、狙いがはずれたらどうするつもりだったのかと、叱責を受けるのは仕方が無いにしても、かの大らかな国王なら苦笑いで済ませてくれるだろう。尚武の国であるならば、その意気や良しと。
そして負傷兵もまた、「やれやれ、これでやっと戦いは終わった」とニヒルな笑顔をみせて、緊張を解くべきところだろう。彼は初めから気付いていたのだ。そして、国王陛下が通りかかる瞬間が、敵の尻尾を捕まえるチャンス到来であったと、主君を囮扱いした不敵なやり口を誇ったかもしれない。
――だが、彼は負傷していた。敵を討ち果たして手柄を立てたその後もまた、しゃがみ込んでブツブツと何かを唱え続け、未だライフルは手放さない。周囲の者達が叱責を浴びせたが梨の礫で、ライフルを奪おうと手を伸ばせば、ビクリと構え直して、相手は思わず後ずさりする。これでは、手の付けようが無い。
その様子を見て、物わかりの良さそうな将校が割り込んだ。負傷兵の名前と階級を確認して、彼の前に立つ――なんのことはない。コイツはまだ作戦行動中なのだ、と。
「ジャック上等兵、戦闘中止。休め」
負傷兵はハッと銃を下ろして敬礼をする。
「上等兵、装備を解いてこちらに来い。君には治療が必要だ」
負傷兵は、驚くほど素直にライフルを相手に渡して、将校に後から従った。拘束も不要であった。そして、改めて武装解除を受けて、衛生兵の本部へと連行された。
国王陛下がこの事態について何かを仰られようとしている。その機先を制して、先程の将校が陛下に申し上げた。
「陛下。あの者の処分はお任せ下さいますよう」
「処分だと? 彼は儂を救ったのだぞ。手柄を讃えるべきだと思うがね」
「陛下。彼は優秀な兵士でしたが、その度を超えて、兵士であるだけの人間になってしまったようです」
「意味が判らぬ。どういうことかね」
「陛下、我が国で人間と呼べるのは、国王陛下を讃える者だけでございます。兵士として優秀でも、陛下を讃える忠誠が失われてはなりません」
「――ふむ」
体が傷つき、精神も破綻し、五感も失い、だがしかし、「兵士」で在り続ける人間――もはや人間では無い。彼は幾多の戦いを経て、「兵士」という名の生物と化してしまったのだ。
陛下は仰られる。
「その忠誠が過ぎれば、己自身を見失うのではないか。あの者のように――」
「陛下」
将校は窘める。
「戦争は未だ終わっておりません。その仰りようでは、兵士達の戦意、忠誠を損ない兼ねませんので」
陛下は将校に対し冷たい視線を向けた。お前は人間として負傷している、と。
麗しき国王陛下もまた、尚武の国の国王として治療が必要な、不敬な負傷兵であるようだ。
(完)