祟り神と初登攀
それから俺たちは、それぞれの手荷物を置くために、受付横の階段を上がった更衣室に行った。
「あんな反った壁を登るのに、足が必要っておかしくないか? 早川はどう思う?」
「そうだな、……受付に、金髪男がいただろ?」
「あの、頭振ってた変なやつか」
「ああ。それと、壁にあんな様々な色の石を支離滅裂に配する、崩壊した美的観念……」
「お、おい待て! その二つの関連を認めるっていうのか? そんな! ……そんなことをしたら、堀田先輩も尋常な人じゃないってことに……」
「苦しいが、……現実とはいつも残酷だ」
まあ、クレイジーだったのは俺たちの会話だって、後々気づいたんだけどね!
さて、着替えなど持ってきていないので、とりあえずブレザーを脱いで下へ行くと、リボンをはずしてワイシャツにジャージ短パン姿の、三島さんが待っていた。
「あれ、短パン持ってたの?」
「ううん、堀田って人がいつも持ち歩いてるらしくて。二人の分もあるみたい」
「ああ、複数の短パンを常に持ち歩いているだなんて……!」
「川内、……ここはもう、僕らの知っている世界ではない」
この会話が終わるタイミングを見計らって、堀田先輩が大きなかごを傍に置いた。
「はい、注目! 登るよー、クライマーのための道具だよ!」
そう言うと、三人にいくつか輪のついたベルト(?)のようなものを手渡し、堀田先輩はそれを足元に置いた。
「今から目の前で履いて見せるから、それをマネてね。よーい、どんっ!」
と言い終わる前から、堀田先輩はそのベルト状のものを履きだした。初心者に手取り足取り教える気はないのか? そもそもこの道具はなんて名前なんだ!?
「はいっ、四秒で履けた!」
堀田先輩は誇らしげに胸を張っていた。その履いた姿を見ると、どうやらこれは窓拭きのおっさんたちが履いているような、安全具の類らしい。
「もう一回、ゆっくり履くから見てなよ?」
「早すぎる………」
早川の愚痴も聞かず、堀田先輩はもう一度履いてみせた。どうやら、まず小さな輪に足を入れて、次に腰のあたりでベルトを締めればいいらしい。
バックルの折り返しや、ねじれた部分がないかを堀田先輩が細かく確認すると、今度はかごを引き寄せた。
「ハーネスはOK! 次は登るためのシューズ選び! 足の指先がぎゅって軽く縮まるくらいのシューズを、各自で勝手に選んでねー」
そのとき、堀田先輩の話を聞かずにかごを覗いた三島さんが突然、青い顔をしてその場を離れた。
「三島はどうしたんだろう? あの、これってシューズですよね……おえっ!」
今度はかごの中のものに触れた早川が、急に吐き気を催して後ずさった。
そしてその様子を、一歩離れたところから楽しげに眺めている、不気味な堀田先輩……。
「……次は、君の番だよ?」
何これ、俺死ぬの?
とりあえず、少し離れた位置からかごを眺めると、中には三億年前に作った鰹節のような、細長く黒い物体が入っていた。
「一体、何を躊躇しているの? 足のサイズは?」
「……はあ、二十七センチですけど」
「じゃあ、つま先に『9』の番号が振ってあるシューズを選ぶといいよ」
勇気を出して、俺は言われた通り9の番号が振ってあるシューズを探そうとしたけど、どれもこれも黒ずんだ鰹節にしか見えないぞ。本当にこれはシューズなのか……?
仕方がないので、俺はその物体の一つを触ってみることにした。
「えーと、9は……うっ、しょわわわ!」
持ち上げた瞬間、その物体の穴から人を冥界に誘うような異様なにおいが漂ったので、俺は身の危険を感じて咄嗟に投げ出した。
「あぶねえ! な、なんですかこれ! くさっ! おえっ、シューズじゃないぞ!」
「シューズだよ? ちょーっと、臭いけど」
「ちょっと? これが!? 身の危険を感じましたよ! 絶対日本に持ち込んじゃダメなやつでしょこれ、どう考えても兵器でしょ!」
この異様なにおいを、一体何に例えたらいいんだ? 夏場に三週間放置した生魚のほうが、もうちょっとマシなにおいかもしれない!
先ほどやられた二人もようやく回復したようだけど、立っているのがやっと言った感じだ。
「みんな、落ち着いて。私の話を聞いてくれる?」
三人とも疑いの目で堀田先輩を睨んでいたが、それでも小さくうなずいた。
「クライミングシューズはね、ほとんど全体がゴムでできていて、そのせいで通気性がほとんどないために、……祟り神になってしまったの」
もはや神になっちゃったよ! やっぱりシューズじゃないじゃん!
「みんなが倒れかけたにおいの正体は、今までその靴を履いた人の体臭、皮脂、汗、垢でできているの。つまり! この祟り神を生み出したのは、人間自身……」
何この、衝撃の結末的展開? まだ壁にすら触ってないぞ、俺ら!?
いや、そもそもシューズが黒っぽく見えるのってまさか、ゴムの部分を除いたら、先人の残していった汚れってことなのか? うう、考えただけでも気持ち悪くなってきた……。
「だから、みんなで闇鍋をするような、明るい気持でシューズを選んでね?」
「いや、闇鍋超えちゃってるでしょこれ!」
闇鍋はいろいろなものが混ざっているけど、まだ食べ物だから悪ふざけで済む、当然だ。
でも、……でもクライミングシューズに詰まっているのは、人間の持つ、あらゆる汚れと悪臭だろ? みんなでキャッキャウフフと騒ぐ、楽しい要素なんてないじゃないか!
「おい、川内。ここはもう僕らの知っている世界じゃないって、さっき言っただろ? なら、行けるところまで行ってやろうじゃないか」
そう言うと、意を決した早川はかごの中に手を突っ込んだ。続いて三島さん、そして半泣きの俺も、祟り神の中に手を突っ込んだ。
俺らはオエオエゲーゲーと野鳥のように騒ぎながら、なんとかそれぞれ、自分の足に合うサイズのシューズを見つけ出そうとした。しかし、……
「すみません、このシューズ、全部小さすぎるんですけど?」
早川の言うように、確かにシューズは小さくって、まるで足が入らない(そして臭い)。
「うん、普通の靴と違って少しきついくらいがいいの。それに、本来はそのシューズ、裸足で履くのよ?」
裸足?
先人の汗や垢にまみれた、祟り神の中に裸足!?
「あの、それだけは命ある限り、避けたいんですけど……」
「うーん、つま先がぎゅって軽く縮まるくらいがちょうどいいから、……じゃあ、もうハーフサイズ大きいのを探して、履いてみて」
「そもそも、なんでこんな小さなシューズ履くの?」
三島さんは、シューズを履いたがために汚れた靴下を見て、震えながら尋ねた。
「それはね、つま先に自分の体重をかけるからなの」
「土踏まずを、どんと乗っけたほうがよくないですか?」
俺も文句を言ってみたが「登ればわかるよん」と、まるで取り合ってくれなかった。
ぶつぶつ言いながら探すと、堀田先輩の言うように9の横に1/2と書かれた、ハーフサイズ大きいシューズがあって、それなら靴下を履きながらでも、無理に足を突っ込むことができた。
このシューズを履くための俺らの死闘は、ちゃんと後世に伝説として残してもらいたいね。
「みんな準備できたー? じゃっ、誰から登る?」
あれだけ頑張って(そして文句を言って)シューズを履いた三人だったけど、いざ準備ができると躊躇してしまった。
いや、本当のところは騒ぐだけ騒いでおいて、無意識に登るまでの時間を稼いでいたのかもしれない……。
「よーし、……誰から行こうか?」
つぶやいてみたが、返事は帰ってこない。
そりゃビビるよ! だって、着衣でもわかる巨乳のように壁がせり出してるんだぜ? しかも高さは十五メートル!
「あの、こんなのいきなり無理じゃないですか?」
「あはは、さすがにこのオーバーハング壁じゃないよ。こっち、この壁!」
なんだ、よかった!
堀田先輩の指定した壁は軽く傾斜しているけど、ほぼ地面に対して垂直な、言うなれば貧乳な壁のほうであった。
「なんだ、これなら余裕でしょ。俺から行きます!」
「お、活きがいいね! じゃあ、こっち向いて」
そう言うと、堀田先輩は俺のハーネスとやらに、カギを束ねておくのに便利な、あのカラビナのでかいバージョンをつけた。そのカラビナには、ロープの先端を結んで作った輪も通されていた。
「君につけたロープがまっすぐ伸びて支点、……壁の中間で折り返しているでしょ? あそこまでたどり着けたらゴールね」
「この石をつかんで登るんですよね?」
「石じゃないで、ホールドね。初心者よ、とやかく言わず登ればわかるさ!」
それもそうだな、まるで指導してくれないけど、とりあえず登ればいいや。ゴールがあるのは壁の中間で、高さで言うと八メートルくらい、これなら非力な俺でも登れそうだ。
「落ちそうなときは、壁の金属類に触っちゃダメだよ。潔く落ちてねー!」
触っていいのはホールドだけってわけか。まあ、どうせ落ちないだろうけどね。
「はいはい、了解。では、行ってきます! さよなら、大地よ」
別れの言葉を述べて、壁の乳首……じゃなかった、ホールドをつかむと、最初の一足をホールドに乗せて俺の戦いが始まった。そのつま先の驚くべき力強さ!
確かに堀田先輩の言う通り、このシューズだと小さな足場にも体重をかけられて、楽々体が持ち上がった。ギア付きの自転車に乗ったような感じだ。もっと正確に言うと、巨乳にマイクロビキニのコンボくらいパワフルだね。
また、スリルもたまらない。よく木登りをすると、高いところは危ないと近所の人に怒られていたけど、今はその危ないことが奨励されて自ら突き進んでいく、この価値観の転倒!
ただ、壁についているホールドは腹立たしいことに形が一定じゃなくて、電車のつり革のように持ちやすいものもあれば、大きすぎてつかめないもの、同人誌並みに薄くて指がかからないもの、右手で持ちたいのに、左手じゃないとつかめないようなものまでご丁寧にあった。
「横にもっと持ちやすいのがあるよー、青い四角のテープが傍に貼ってあるやつ!」
堀田先輩が下からアドバイスをくれるけど、壁にくっついているから視野が狭くて、どこに持ちやすいのがあるのか、まるでわからない。
それにテープがどうのこうのと言ってるけど、ホールドの周りにはバツ印のテープや四角いテープ、横棒テープなど、色とりどりのテープが貼られているから、アンダーラインを引きすぎた教科書のように訳が分からない。
それに、手こずっているうちに、腕が……。
「ちょ、ヤバいんですけど! 腕がパンパンでつかめないです!」
「ガンバ! 足をしっかり置けば大丈夫!」
足? 腕がヤバイって言っているのに!
確かに、いつの間にか俺はつま先ではなく、土踏まずをホールドに乗せていた。それと、なぜか膝の震えが止まらない!
ついでにどうでもいいけど、なぜ「頑張れ」の「れ」だけがディスられたんだろう?
「言われなくても、頑張ってますよ! って、ひょわああー!」
土踏まずでうまくホールドが踏めず、何度も乗せなおしていると、突然目の前の壁が素早く上へと飛び去っていった。
一体、何が起こったかわからなかった。ただそのときは、内臓が持ち上がるような不快な感覚に耐えて、しばらくして目を開けると、俺は緩慢に伸縮するロープにぶら下がっていた。
「はい、お疲れ様でしたー!」
「ハハ、なんだよ『ひょわああー』って」
今まで登っていたはずの俺はなぜか、憎たらしい早川の嘲笑に迎えられながら、下へと降ろされていた。
「え、え? なんで俺、降ろされてるんですか?」
「なんでって、落ちたんだよ。お前、わからなかったのか?」
恥ずかしいけど、早川に言われて初めて気づいた、俺は落ちていたのか!
「え、でも、七メートルくらい登ってたよな?」
「全然、あの大きな赤いホールドのあたり」
三島さんが指さすあたりは、床からわずか、三メートルほどの高さだった。
三メートル! 俺の命がけの奮戦は、たかだか三メートル地点で行われていたのか!?
「うわっ……、俺の実力、低すぎ?」
「最初はそんなものよ? じゃあ、次の人!」
……そうだよな、最初はそんなもんだよな。よし、落ち込んでないで、二人が無様に落ちる姿を笑うとしよう!
「じゃ、登りますね」
次は早川がすんなり出てきて、落ち着いた様子で登っていった。
壁を登る早川の姿は、公衆便所で人をパニックに陥れるナナフシそっくりだったけど、壁に取りついた最初の落ち着きのまま、さしたる苦労もなく(!)登りきってしまった。
ビビリ屋だけど、一番手じゃなければ力を発揮しちゃうタイプの人っているよね。
「すごーい! おめでとう、一撃で落としちゃったね!」
「や、やっぱすごいですか、僕って? ハハ! どうだ、見ていたか川内!」
どうって、見ていたよ? ぶっ飛ばしたいけど?
それはともかく、登りきった早川の紅潮した顔、軽い脚の震え、堀田先輩のお褒めの言葉に図に乗る様子、そのすべてがうらやましい!
さて、そんな浮かれた早川とは打って変わって、三島さんの顔は強張っていた。
さっき、壁の高さにひるんでいたようだったけど、大丈夫か? おっぱい揉む?
「……行きます」
不安気な三島さんだったけど、さすがに普段から鍛えているだけあって、何度も足を滑らせながら、腕の力で強引に登りきって(!)しまった。これまた、あっという間に!
「あの、みんな『最初はそんなもの』ラインを越えて、登りきっちゃってますけど?」
「そうだねー。やっぱり最初はみんな、こんなものかな?」
そうですか……。三メート止まりの俺選手、心がくじけそうですわ……。
「あれ? もう手を離してもいいんだよー!」
何事かと見上げると、三島さんがゴール地点のホールドにしがみついて、羽化前のセミの幼虫のように固まっている。
「ねえ、どうしちゃったんだろう?」
堀田先輩に訊かれても、俺たちにだってさっぱりわからない。
「……新しい姿に、生まれ変わるんじゃないでしょうか?」
不可能に挑戦するとか豪語していたしね。
「……わい」
「は?」
なんだ、何か三島さんがつぶやいたぞ?
「高いところ、こわい……」
怖い!? よりによって、俺の登れなかった高さまで登って、怖いだなんて!
「でも、あれだけ握っていても疲れないんだから、結構すごいよー彼女」
「ハハ、高所恐怖症のクライマーってもの、いいですね」
堀田先輩と早川はのんきなもので、なかなか降りてこない、縮こまって丸くなった三島さんのことを見上げ、気長に待っていた。
いつまでこの茶番は続くのか、まったく……。
「不可能に挑戦したい、か……」
小声でつぶやくと、少し気がほぐれてきた。男の肉体への挑戦の前に、なんと小さく、克服すべき課題だろう!
だが、それも面白い。
よし、俺も一緒にクライミングを始めてやろう。
この大口叩く割に頼りない三島さんがどこまでいけるか、不可能を破壊できるかが気になるし、クライミングもまあまあ面白そうだ。
俺の運動神経が絶望的なことも認めたくないしね。
やっと降りてきた三島さんの、その照れくさそうな目と、俺の目が合った。
これからよろしくと、改めて握手を交わすように。