先輩
翌日、三人は例のポスターの貼ってある、校舎の壁の下に集まっていた。
「なんで、あんなところに貼るのか、まったく理解できない。変に奇を衒おうとするのがよくないんだよ」
三島さんの言った通り、メジャースポーツ以外に興味のない早川はイライラしていた。
でも、誘いは無下に断らないで来てるところが、早川の憎めないところでもある。
「ポスターの表面に、ビニールを被せてあるのも理解できないな。防水するなら、ポスターの素材を考えるなり、防水スプレーでも噴きかければいいんだよ。あれじゃ、光を反射しちゃってまるで文字が見えないじゃないか」
確かに早川の言うように、ポスターに書かれている文字は下からではまるで読めず、唯一わかるのは、赤字でデカデカと書かれた「私と一緒にクライミングをしませんか?」の文言だけっていうね。「うん、やりたいよ。でもどうしたらいいの?」って状況には、俺と三島さんも困ってしまった。
「登って読め、ってことなんじゃない?」
三島さんのこの提案に、早川は今日初めて笑顔を見せた。
「天才だね、三島さん! では、このつるつるの竪樋にへばりつくか、レンガ風の化粧張りタイルの目地に、指をかけて登ってくれたまえ!」
「ん……」
早川が皮肉を言う気もわからないではない。こんなそそり立った校舎の壁を、どうやって登ればいいんだ?
ポスターを貼った女の子は、やっぱりクレイジーなのか?
「やめだやめだ、集合場所もわからないような部活には、僕は入らないぞ。何も、やりたいことじゃなくても、おとなしく学園内にある部活の中から選べばいいじゃないか」
学園内にある部活、か。
だけど、興味ない部活に無理して入るのは嫌だぞ!
それに、三島さんと一緒にいる理由もなくなってしまうじゃないか!
三島さんはというと、悔しそうにポスターを見上げていた。《不可能への挑戦》どころか、たった六メートルの壁に手が出ないんだからなあ……。
「三島さん、これは無理だよ。あきらめよう」
「………………」
「それにしても、よくあんなところに貼ったな。じゃあ川内、部活見学にでも……」
「むふふ、お困りのようですねっ!」
突然、笑うのをこらえたような明るい声が、三人の会話に割り込んできた。
「お前、何者だ!」
とっさだったからか、声の主のヒーローのような口上につられたからか、早川が悪役じみた返答を背後の駐車場に向かって返すと、
「ふふ、堀田逢衣だっ!」
「いや、誰だよ」
すぐに平静を取り戻した早川の冷たいツッコミにもめげず、声の主は車と車の間から出てきた(なんでそんな場所にいたんだろうね)。
謎の女が軽くウェーブのかかった髪をなびかせ、屈んでいた身を起こすと、そいつは三島さん以上の大女だった。
スラリと伸びた脚は、ローファーの鳴らす硬質な音と相まって若竹のようで、制服の胸元は含み笑い(と、物理的な原因)によってはち切れんばかり、顔にかかった髪をのけると、大きなたれ目がいたずらに笑っていた。
間違いない、この人は入学式の日に見かけた運命の人、そのもう一人の女の子だ!
相手が美女だとわかると、早川は今までの険しい表情を改め、胡散臭い笑顔になり、
「はじめまして! 僕は早川っていいます。実は僕たち、あそこのポスターを見ていまして、……堀田さんでしたっけ、あんなところに貼るなんておかしいですよね? あと、よろしければご両親のご職業……」
「あ、ずるいぞ早川! 抜け駆けするな! 俺のほうが先に会って……」
健全な男子高校生として、美女を前に男二人が我を忘れていても、三島さんは同姓だからだろうか、至極落ち着いていた。
「あの、もしかしてアンタがこのポスターを貼ったの?」
「正解! よかったぁ、見つけてくれる人がいて!」
心配するくらいなら、なぜこんな場所に貼ったのかな? 天然ちゃんなのかな?
「偶然ですよ、偶然! 僕が『クライミングをやりたい!』って、日々上を向いて歩いていたら、堀田さんの貼られたポスターに出会えたんです!」
早川は先ほどの不機嫌などどこ吹く風で、うざいほどご機嫌にしゃべりだした。
「リボンの色を見たところ、……三年生ですね。どうです、こんなところではあれなので、ファミレスにでも移動しませんか?」
「それより、クライミングジムを見学していきなよ! 路面電車で十分くらいで行けるから」
「クライミングジム! いやあ、知らなかった、地元にそんなものがあるなんて。おい、二人ともせっかくの機会だ、一緒に来いよ」
まったく、このわかりやすい手のひら返しの俗物早川はぶっ飛ばしたいけど、堀田先輩がかわいいから大目に見よう。クライミングジムも気になるし、行ってやろうじゃないか。
「クライミングジムだって。楽しみだね、三島さん!」
そう話しかけると、一番クライミングをやりたがっていたはずの三島さんは、何か遠い将来を憂えるような、不安気な表情を浮かべていた。
自転車通学の早川は「移動中に関係を深化させるなよ」と俺にクギを刺したが、堀田先輩は車内ではほとんど三島さんとしゃべっていたので、残念ながら抜け駆けはできなかった。
で、そのクライミングジムはビルがぎゅうぎゅうと林立する通りの一角にあるそうで、
「問題、クライミングジムはどれでしょう?」
「えーと、……あれかな。あのマンサード屋根の、おんぼろ建築がジムじゃないですか?」
「ざんねーん。違います、懲役十年!」
「罰がヘビーすぎる!」
「正解はその横の、ガラス張りのビルでしたー!」
そのガラス張りのビルは一見したところ、どこにでもありそうな、六階ほどのオフィスビルにしか見えなかった。
そして、そこのマジックミラーを使って、早川が前髪をいじくっていた。
「お、どうやら僕のほうが早かったみたいですね」
「うーん、必死に前髪を整える後姿を見ちゃって気まずいから、禁固六か月!」
「……はい?」
この人は、牢屋に人をぶち込むのが好きなようだね。さて、いよいよクライミングジムの中へ一行は入ることに。
入口の自動ドアには《クライミングジム・よしこ》とスナックのような、ジムの名前がシールで貼られていた。ここの命名者は無期懲役だろうね。
入ってすぐのところは受付らしく、四、五坪ほどの狭いスペースに靴置き場、受付台、それと品揃えは少ないけれど、クライミング用品も棚に並べて売られていた。
テレビで観たことのあるクライミングの壁は、たぶん閉ざされたドアの先にあるんだろうけど、それよりも俺は受付にいる、スポーツ刈りの金髪男のほうが気になった。
男はでかいヘッドホンを耳にし、これまたでかいサングラスをかけ、ハトのように頭を縦に振ってリズムをとっていた。
絶対、二階建てのアパートに住んでいながら、バカでかい高級車に乗っちゃうタイプだよ、この人。
「YO☆」
……うぜえ。
「二階堂さん、見学三人! ハーネス三つと、クライミングシューズを貸してねー!」
その二階堂さんとやらは、頭のリズムをうなずくことに流用し、そのまま頭を振りながらドアを開けた。そして、ドアをくぐるとそこには、……
「雪国!」
「いや、堀田さんのコメントも有罪ものでしょ」
早川はさっきの復讐を果たしたが、その声は少し上ずっていた。そして、俺と三島さんも興奮していた。
なぜなら、中に入った一行の頭上を、文字通り覆うように、吹き抜けになったビルのその中に、《壁》がそそり立っているのだから。――
壁は、天井のように訪問者を圧するものもあれば、幼女のボディーのように垂直に立っているものもあった。
そのほかは、思い思いの角度に複雑に屈曲し、それらの壁は隙間なく横につながっていた。
そのクリーム色の壁面中に、色とりどりの石のようなものが取りつけてあって、一つ一つサイズも形も違っていた。
その石には、マンモスや電球の形をしたものもあって、見ているだけでも添加物満載の駄菓子を食べた子供のころのように、俺らを愉快な心持にしてくれた。
たぶん、あの不揃いの石をつかんで、この壁を登っていくのだろう。
「これがクライミング!」
「ん、これは単なる壁だけど……?」
堀田先輩の冷静なツッコミすら、俺の耳には入らなかった。
ああ、クライミング!
でも、感激や幸福が一段落すると、次には漠然とした不安が襲ってくるよね。
「ねえ、この壁ってどれくらいの高さがあるの?」
堀田先輩に話しかける、三島さんの表情も心なしか不安気だ。先輩に対して、タメ語を使うことには何の躊躇もなさそうだが。
「いっちばん高いので、十五メートルあるよ。あれあれー、もしかして、怖い?」
「別に……」
あら、以外。見た目は強そうだが、三島さんは高いところは苦手なのかな?
「堀田さん、僕らが上まで登れるようになるには、どれくらいかかります?」
「うーん、ルートにもよるけど、一か月あれば絶対登れるかな?」
「そのためには、一か月は堀田さんがつきっ切りでレッスンしてくださるわけですね? 素晴らしい!」
早川は一体何を言っているんだ? バカなのか?
「君は? 何か質問ある?」
と、堀田先輩が話しかけてきた。もちろん俺も何か訊きたいが、……訊きたいが、何から訊けばいいんだ?
あ、そうだ!
「あの、やっぱ、みんな握力すごいんですか? 堀田先輩も腕力ヤバかったりして……」
「ぶっ、ふふ!」
あー! 笑いやがったな!? 素人の無知を笑ってくるのは、マジで玄人の悪い癖だよ! 俺は素人ですよ? 先輩の嘲笑が胸に刺さっちゃってますよ?
「ごめんね、向こうで登ってる人を見てごらん? 確か柔道部の大学生なんだけど」
堀田先輩が注意を向けたほうを見ると、いかにも柔道部員な感じの、クマのような大男が壁に取りついていた。
「フィジカルトレーニングだ、とか言って最近通い始めたらしいんだけど……」
見るからに力のありそうな大男だけど、素人の俺が見てもあきらかに愚鈍で危なっかしく、下手くそ感丸出しの登りだった。
「ほら、柔道ってトレーニングで、天井から釣った大繩を登ったりしているじゃない? だから、握力はあるんだろうけど……あっ、落ちるよ」
堀田先輩の予言通り、その大男はわずか三メートルほどの高さから落ち、ロープで宙ぶらりんになりながら、仲間にからかわれていた。
「ふふ、下で笑っている人たちも同レベルなんだけどね。今度は、……あそこ! 奥の大きく反った壁に、水色の服を着た女の子がいるでしょ? 彼らと同じ時期に始めたんだけど……」
奥の壁、それの天井のような部分を登っていたのは、女の子というより、幼女と呼ぶほうがふさわしいような、か細いチビちゃんだった。
「ね? 握力や筋力で登れるほど、クライミングは単純じゃないって見たらわかるでしょ?」
確かに、……でもなんで? なんであんなチビちゃんが登れて、筋肉の塊みたいな大男が落ちているんだ?
「……でも、体重が違いますよ。それに、幼女はアニメではたいてい、不思議な魔力を持った特別な存在だから……」
「ふふん、混乱しちゃうでしょっ? もっと未経験者を混乱させちゃうと、壁を登るためには《足》も重要なんだよ?」
「なんで、足が……?」