カフェラテバカ一代
白いエプロンの青年が、マシーンにお湯を注ぐ。
黒く芳醇なエキスが浸み出すと、表面にはきめ細かい小麦色の泡が滞留した。
ダイナミックな動きとは裏腹に、青年の口元には、常に笑みが湛えられたままだ。
青年は、洗練された無駄のない動作でコーヒーカップを置いた。
中のエスプレッソの強い香りが会場一面に立ちこめる。
そこへ、フォームドミルクが加えられていく。先程までとは打って変わった繊細な動き。
紡ぎ出された白い塊は立体的に積み上げられ、艶めかしい曲線を描き出していく。
その上を撫でるように手が通過するたびに、魔法が掛けられたかのように鮮やかな色彩が加わっていく。
数秒後。カップの上に現れたのは、まるで本物の妖精と見紛うばかりの美少女の姿であった。
「……どうぞ」
青年は、完成した見事な作品を、自信たっぷりの笑顔で審査員達の前に運ぶ。
たった数秒間で紡ぎ出される芸術……それがこのラテアートなのだ。
「す……素晴らしい!! この立体感。そして色彩!! とてもラテアートとは思えんッ!!」
「この色合い!! 本物と見紛うほどだ!!」
「文句なしだ!! 今年度の優勝は――――十三番!! 旭神カフェ池袋店……藻蕪蓮斗!!」
審査員の絶賛を受けて、長身の青年が高々と右手を挙げる。
全日本カフェラテ道選手権大会。
“ラテアート王子”の異名を取るこの男、藻蕪蓮斗は、昨年、彗星のようにラテ アート界に現れ、種々の大会を総ナメにしていた。そして今日、ついに日本最高の権威を持つとされるこの大会で、頂点に上り詰めたのだ。
優雅な身のこなしで表彰台に登る蓮斗。その一挙手一投足に、観客席に詰めかけた女性達からため息が漏れる。
主催の旭神カフェ代表から、優勝旗と黄金のコーヒーカップが手渡されようとしたその時。
「クハハハハハッ!! そんなもんが日本一のカフェラテだと!? 笑わせるなッ!!」
観客席後方から、甲高い笑い声が響き渡った。
「君!? やめたまえ!? ここは神聖な大会場だぞ!!」
続いて警備員の制止する声。
笑い声の主が、ずかずかと舞台へと歩を進めてきたのだ。
「神聖だとぉ!? こんな大会、茶番に過ぎねえ!! そんなお遊びラテアートで優勝かよ!? おまえら目玉も舌も腐ってんじゃねえのか!?」
「静まれ皆の衆……このような輩は相手にするとつけあがるだけじゃ……」
審査員の末席から周囲を制して立ち上がったのは、和装の老人であった。
白髪と髭で顔はほとんど見えないものの、もう八十歳はとうに過ぎているだろう。
杖にすがり、今にも倒れそうに見えながら、白髪の隙間から覗く眼光は鋭く周囲を圧し、その声には、有無を言わせぬ威を備えている。
老人の言に慌てて立ち上がった役員達が、事態を収拾しようとスタッフ達に指示を飛ばし始めた。
「り……理事長!? すぐに警備員に命じて退出させます!!」
「クハハッ!! やはりそうくるか。見てくれだけのお遊び珈琲に騙されやがって。珈ラテ道の創始者。珈堂館主宰・古間雲天!! “ケンカバリスタの古間”も堕ちたモンだぜ!!」
古間雲天の目が、被さった白髪の奥で鋭さを増した。
「貴様……何故知っている? その呼び名を知る者はもうほとんどいないはず……名を……名を名乗れ!!」
「俺か……俺の名は桐万……桐万邪郎!!」
「き……桐万だと!? ではまさか……水晶山の……」
「そうだ!! 水晶山九馬は、俺のジイチャンだ!!」
「ヤツは、死んだと聞いていたが……」
「ああ死んだよ!! ジイチャンは貴様等に異端扱いされ、カフェラテ界を追放されたんだッ!! だから俺は、ジイチャンとともに修行を積んだ!! 貴様等を倒すためのなッ!!」
「まさか……君もバリスタなのか!?」
「……そうだッ!! 俺は生まれた時からバリスタだったッ!!」
「君のお祖父さんは危険すぎたのだ……たしかに水晶山のカフェラテは飲む者を魅了した……だが、究極の味を追求するあまり、対決したバリスタを、ことごとく再起不能に追い込んでしまった!!」
「ジイチャンは言っていたぜ!! 日本のバリスタは甘ちゃんばっかりだってな!! 俺もそう思うぜ!! こんなお遊びカフェラテで喜んでるようじゃな!!」
「何とでも言うがいい。日本のコーヒー界に、君の居場所はないッ!! とっととここから出て行け!!」
古間雲天の一喝にも、桐万の不敵な表情は変わらない。二人のやりとりに、会場は静まりかえったままだ。
だが、そこへやわらかな、しかしよく通る声が響いた。
「待ってください理事長。僕はソイツの腕前に興味があります。このまま貶されっぱなしで放っておくことは、プライドが許しませんよ」
表彰台の上で置いてけぼりにされた藻蕪蓮斗だ。
「桐万とかいったな? ここへ上がってこい!! 今ここで、君のカフェラテを見せてもらおうじゃないか!!」
「クハハッ!! いいとも。俺はいつでも相手になるぜ!!」
悠々と壇上へ向かう桐万。
古間理事長の傍へ黒眼鏡の男が駆け寄り、ヒソヒソと耳打ちする。
「よろしいのですか理事長? 万一、藻蕪が敗れるようなことがあれば……」
「よい。藻蕪のカフェラテは世界に通用する芸術作品じゃ。それに、審査員はすべて我が珈堂館の師範代……敗れようはずがない」
(水晶山の血は……ここで絶やしておかんとな……)
古間理事長は、それは口に出さず、白髪の奥で目を光らせた。
「ただカフェラテを競っても優劣は付けづらいじゃろう。ここはテーマを決めさせてもらう。勝負のテーマは……花じゃ」
(ククッ……水晶山のカフェラテには弱点がある……旧態依然のラテアートに固執し、食紅やクロレラ粉末で色を付けることを、決して是とはせんかった……つまり、色彩が重要ポイントとなる花は、ヤツの急所じゃ……)
だが、古間の思惑を知ってか知らずか、桐万邪郎は腕組みをしたまま、不敵な笑みを絶やさない。
「まずは、僕から行かせてもらおうッ!!」
藻蕪が吼えた。
エスプレッソマシーンが唸りを上げる。藻蕪の優雅な手の動きに、再び会場中が魅了された。
「これが……僕の花……作品名は『アマリリス』だッ!!」
なんという技術。
巨大なアマリリスの花は、二つのカップに跨って作り出されていた。薄桃色、白、赤の柔らかな花びら、生き生きと伸びた葉、その質感までも完璧に再現されている。
審査員の一人が、感に堪えない、といった様子で言う。
「素晴らしい……この作品は希有な才能の持ち主にしか作れない芸術だ。桐万君とかいったな? 君にこれだけのモノが作れるとでも?」
「出来ないことは口にしねえ主義で……な」
藻蕪の作品を前にしても、桐万は、まったく臆する様子もなく立ち上がる。
薄笑いを浮かべる審査員たち。中には、ヒソヒソと悪口を言い合う者までいた。
だが、桐万がエスプレッソマシーンの前に立った途端、バカにしたような表情だった彼等の顔色が変わった。傲慢な態度も、表情も、一瞬に消え失せたのだ。
その姿勢、身のこなし、優雅な手さばきは、藻蕪と比べても何ら遜色ない。
いや藻蕪に比べても、さらに豪快かつ繊細な動きで、小さなカップの中に自分の世界を作り上げていく。
「出来たぜッ!! これが俺の花……『山桜』だッ!!」
会場中がどよめいた。
それは見事な桜だった。わずかにカップの縁から盛り上がったフォームドミルクは、観客席からはこんもりとした里山に見える。
そこには、コーヒーの黒とミルクの白、それの入り交じった薄茶色しかないはずなのに、見事な枝振りの山桜が、満開で山を埋め尽くす様が、見事に描き出されていたのだ。
だが、その作品を見て古間理事長はにやり、と笑った。
「……勝負あり、じゃな。なかなかの出来映えじゃが、貴様の作品は、造形力がない。単なるフォームドミルクの塊に過ぎん。色彩感覚も、藻蕪のものにはほど遠い……」
「くっくっく……そうかい。じゃあ……ソイツを飲んでみな?」
「理事長が仰っているのに、まだ分からんのか!! 愚か者が!! すぐに化けの皮を剥がしてやる」
不敵な態度を崩さない桐万に怒りの視線を浴びせながら、審査員の代表が『山桜』を口にする。
「う……むう!? これはッ!? このカフェラテは……フルシティローストではないのかッ!? イタリアンロースト? いや、だが……この香りは……ッ!?」
「そうだ。これは俺のオリジナルロースト……敢えて言えばフレンチローストに近いが、それよりはもっと深い」
「だが……だが何故だ!? 深いローストでありながら、何故少しも焦げ臭くない!! 何故コーヒーの豊かな香りと旨味だけが十全に抽出され、しかも立っているッ!?」
「この粉を見てみなッ!!」
桐万は自分の粉を、審査員のデスクにザラザラとぶちまけた。
「バ……バカな……エスプレッソなのにこの粗さは……しかもこの粉の量はッ!!」
「焙煎し立ての豆は、わずかに粘り気があるのさ。それを細かく轢きすぎると、湯が粉の間に長く滞留して、苦みや酸味が多く出てきてしまうんでね」
「そ……そうか!! だからわざと粗く轢いて、湯の滞留時間を短くしたのかッ!? そして、豆の量を多くすることで旨味や香り成分を充分に含ませた……ッ」
悔しげに叫んだのは藻蕪だ。
「待てッ!! それだけじゃないぞ……この香りは……複雑かつ豊かな焙煎の香りにまぎれてはいるが……この芳醇さはコーヒーだけのモノじゃない。そう、これは新鮮なミルクの香りだッ!!」
「クハハッ!! 少しくらいは味の分かる審査員もいるようだなッ!! こいつを飲んでみなッ!!」
白い液体をなみなみと注いだコップが、審査員席のカウンター上を滑ってそれぞれの審査員の前に止まった。
「これは……これがミルクなのか……本当に……」
「どうだ? 美味いだろう? ここに来る前に搾ったばかりの、無殺菌ミルクさ!!」
「無殺菌だと!? そんなモノを飲ませて……違法だッ!! 貴様、食品衛生法違反だッ!!」
「慌てんじゃねえ!! 会場の前を見てみな!! あのコンテナ車には、俺が子牛の頃から無菌状態で育て上げた乳牛が三頭いるッ!! だから殺菌なんかしなくても、常に新鮮なミルクが使えるって寸法なのさ!!」
「バ……バカな……たかがカフェラテを作るためだけにそこまで……ッ」
「乳牛はニュージャージーとホルスタインの掛け合わせッ!! くどすぎない乳脂肪とミルク本来の香りを持つ最高の乳を出すッ!! コーヒーだけじゃねえんだ!! ミルクと合わさってこそのカフェラテなんだよ!! ここまでやるのがカフェラテだッ!!」
審査員の手から『山桜』を奪い、一口飲んだ藻蕪が、がっくりと膝をつく。
「ま……負けた……カフェラテの技術でも、素材でも、味でも……ッ!!」
「カフェラテの味の半分はミルクだってことを忘れるんじゃねえ!! だからなんだよ!! コーヒーの黒とミルクの白にだけこだわるのはな!! 貴様のはカフェラテじゃねえ!! お絵かきしてえんなら、絵画教室にでも行きな!!」
桐万邪郎は、勝ち誇った様子でまたも悠々と出口へ向かう。
「待て!! 貴様!! どこへ行く!!」
古間理事長が、怒りの声を上げる。
「俺の用事は済んだんでな……この日本じゃあ、俺には狭すぎる!! 世界へ行くぜ!! おれのカフェラテを世界中に広めてやるんだ!!」
絶世の味わいと、最高の技術。
その二つを武器に、世界へと羽ばたく、最強のバリスタ、桐万邪郎。
三頭の乳牛を手荷物で運び込もうとして空港で逮捕されるのは、それから三日後のことであった。