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Op.3
久々に訪れた母校は、すっかり廃墟らしくなってしまっていた。
閉校から六年。もともと古びた木造の校舎だったけれど、十年前はここまでぼろぼろではなかった。壊れたというよりも、致命的なほどに寂れた、と言った方がいいのかもしれない。不思議と、誰かがいる場所は壊れはしても寂れることがない。どんなに古い建物でも、日常的に使われていれば生気を失わないのだ。
ただ、人がいなくなってしまえば、それからはあっという間。
子供たちの息づきはどこまでも希薄になり、空気は急速に乾いていく。からからの干物みたいになった頃にはもう、その建物を訪れる人もない。思い出す人もまた、いなくなっている。
――私たちの母校も、例外なくそんな道筋を辿っていた。
板張りの廊下は歩くたび軋んだ音を立て、空中では細かい塵が日光を受けてきらめいている。立ち止まると、塵の舞う音すら聞こえそうなほどの静けさが満ちた。教室や廊下の窓はところどころガムテープで補修されていたけれど、それも色あせて剥がれてきているという有様だ。
役場で聞いた話では、閉校後の校舎は町が管理する倉庫として使われてきたそうだ。ただ、それはほとんど名目上のこと。実際は学校で使っていた備品の置き場としてそのまま使われているだけ。役場のおじいさんは、「使わないタンスみたいなもんだよ」と言ってほんの少し陰りのある笑顔を見せていた。
それから、学校の中を見たいと言ったら快く鍵を貸してくれて、今に至るというわけだ。やけに親切なのを不思議に思っていたら、おじいさんは元々小学校で用務員をしていたそうだ。私たちのことも覚えてくれていて、私が体育館のグランドピアノを使ってこっそり練習していたことも懐かしげに話してくれた。
あんな昔のことを覚えていてくれた人がいたことが嬉しくて、けれどその人のことを覚えていない自分が寂しくて。地元を離れるというのは、そういうことなのだ。自分が生まれてから生きた時間を全て置き去りにして、新しい場所で生きる。それはどこか、生まれ変わりにも似ていて。
「それにしても、ほんとにあたしたちだけでよかったのかな?」
教室に入り、校庭に面する窓を開いた彼谷穂がぼそりとこぼす。新鮮な空気が微風となって、教室にささやかな生気を吹き込んだ。
「なによいまさら。役場の人もそんなに暇じゃないんでしょ」
「いや、それにしたってさ、さすがに無用心すぎないかなー、って」
「あのさ、彼谷穂。なにか、ここから持っていきたいものがある?」
ぐるりと見回した教室は、とくに倉庫として使おうとした痕跡もなく、明日からでも授業ができそうなほどに往時の面影を残している。机や椅子は丁寧に並べられているし、黒板の脇には使いかけの短いチョークが転がっていた。
ただ、そこにあるのはこの教室に属するものだけ。持ち出して使えるものはとっくに持ち出されている。残されたものはすべて、この場所に縛られてしまったものばかりだ。それを引き剥がすだけの図太さを持った人間は、ほとんどいないだろう。
「……なにも持ち出せそうにないや」
彼谷穂は教卓の上に取り残されていたボールペンを取り上げ、指先でくるくると回した。試したわけではないけれど、きっとそのボールペンはもう文字を書けなくなっている。
「結局、廃墟には盗むものなんてなにもないんだよ。全部まとめて死んじゃってる」
「残ってるものは思い出くらい、って?」
「それならいくらでも持っていっていいんじゃない。もともと、私たちが置いてきたんだし」
話しながら、私はふらふらと教室の中を歩いて回った。大したことは覚えていないのに、思わず涙がこぼれそうなくらいに、懐かしい。
「ここだけ、時間が早く過ぎたみたい……」
そんな彼谷穂の言葉に、思わずため息が出てしまう。
「そんなこと起きないよ、時間はどこでも同じ」
「ちーさんは現実的だなあ。若いんだしさー、乙女なんだしさー、もうちょっと夢見ていいんだよ?」
「そういうオカルトは信じないタチだから。それに、柄じゃないでしょ」
「そんなことないと思うけどなあ……あっ、ちーさん見て、竹とんぼ! これ、ちゃんと飛ばせそうだよ」
そうやって無邪気に振舞う彼谷穂の方こそ、夢見る乙女という言葉がよく似合う。
「ね、体育館の鍵もあったよね。見に行ってみようよ、あのころのピアノも残ってるかもしれないし」
「それはいいけど……竹とんぼで遊びたいだけじゃないの?」
彼谷穂はごまかそうともせず、「ばれた?」と言って茶目っ気のある笑顔を見せた。
ずっと前にこの教室で見た彼谷穂の笑顔が頭にちらついて、昔から子供っぽいんだから、と呆れながら、私はなんとなく安心していた。
時間が全てを押し流してしまっても、変わらず隣にいてくれる人がいたのだ。私の辿ってきた時間は、思っていたより幸福だったのかもしれない。この学校が過ごした孤独な時間よりは、ずっと。