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「ある種の音楽は血の中から生まれるんだよ」
今から五年ほど前、高校生の頃のこと。私が東京へ出て以来ずっとピアノを教えてくれている先生が、ぼそりとそんな言葉をこぼした。
先生は私より七つ年上の女性で、既に海外のピアノコンクールで燦然たる成績を残し、まさに神童だと言われていた。その頃の先生は海外の音楽大学を卒業して日本へ戻ってきたばかり。録音や演奏会の話なんていくらでもあったのに、なんの酔狂か私のレッスンに付き合ってくれていた。
「ベートーヴェンの英雄が生まれるまでに、ナポレオンはどれだけの血を流したかわからない。ハチャトゥリアンが描いたスパルタクスだって、ローマ人と奴隷の血を滝のように流し続けて、その末に自分も倒れてさ。それこそが栄光だっとしても、やっぱり血は血だよ。流されれば、かなしくて、くるしいに決まってる」
けれど、そんな血の中から生まれる音楽が、たしかにあるんだ。そう言って先生が弾いてくれたのが、ヤナーチェクのピアノソナタだった。
ヤナーチェクが『街頭より』と題し、後に『1905年10月1日』と呼ばれるようになったこのピアノソナタは、紛れもなく血の中から生まれたものだ。
英雄やスパルタクスのように、戦いの中で血を流し続けた軍人のための音楽には、どこか華やかな栄光も垣間見える。ナポレオンは革命者で、スパルタクスは解放者。彼らの戦いは敵を倒し、多くの人々を救う栄誉あるものだった。
けれど、このピアノソナタに描かれたのは、剣を持たない労働者だ。大学設立を求めるデモに参加し、撃ち殺された労働者への追悼の音楽なのだ。
音を聴くよりはやく、楽譜を見ればすぐにわかる狂的なまでの執拗音型。同じ波が繰り返し打ち寄せて、音楽を刻み付けていく。事件から三ヶ月間、ヤナーチェクが怒りのままに連ねていった音符のひとつひとつが、絶え間なく胸を引き裂く。
しかし、苦しみと怒りを原動力としながらも、曲調は歩むようにゆったりとしている。駆け抜けるような感情ではなく、じわじわと染み入るような。その感覚をオスティナートが体現しているようだった。
第二楽章まで弾ききって、先生は手を止めた。第三楽章の葬送行進曲は、作曲者のヤナーチェクしか知らない。楽譜は焼き捨てられてしまって現存していないから。そこにあった葛藤を知る術はただ、遺された音楽を鳴らしてヤナーチェクに近づくことだけだ。近づいて近づいて、けれど決してたどり着くことはない。
「血の中から生まれた音楽は、こうして血を流すんだ。そこにわたしたちの血も混ざって、ずっと未来へ繋がっていくわけさ」
「ずっと、かなしいことが続くんですね」
「ううん、そうでもないよ。そうだな……ねえ、人間はどうして悲劇を描きたがるんだと思う?」
「気休めじゃないですか。他人の不幸で安心するみたいな」と私が真剣に返すと、先生は「千草はクールだなあ」なんて言って笑った。
「たぶんね、人間が悲劇を作るのは、本当の悲劇を終わらせたいからなんだ。どんなに悲しいことがあっても、人生はお話みたいに終わらせられない。気持ちをずっと引きずっているわけにはいかないけど、かと言って捨てられるわけもない。だから、気持ちは作り物の悲劇の中に閉じ込めておくんだ。わたしたちの生きる物語に終わりはないけれど、悲劇には必ず終わりがあるからね」
この時に限らず、先生は事あるごとにその言葉を繰り返していた。
『物語に終わりはないけれど、悲劇には必ず終わりがある』
まだ、私はその言葉の意味を知らない。悲劇に出会ったことがないのか、それとも未だに長い悲劇の中にいるのかはわからない。
ただ、悲劇の終わりを見たことは一度もなかった。