表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/13

2-3

 いずれ、放っていた過去が私に追いつく日も来るかもしれない。そんな予感だけは、ずっと心の片隅にあった。まさかそれが現在の自分をここまで揺らすものになろうとは、想像もしていなかったけれど。

 祖父の背中を見送った私が最初にしたことは、持ってきた電子ピアノの組み立てだった。気持ちが落ち着かないうちは考えがまとまるはずもない。だったら、慣れ親しんだ鍵盤に触れるのが一番だ。どこにいたって、すぐに穏やかな気持ちになれる。

 彼谷穂はしばらく何か言いたげに私を見つめていたが、やがて諦めたのか寝室の大きなベッドに飛び込んでいった。今も視界の端の方でごろごろと転がっているのが見える。

 折りたたみ式の脚を広げて、本体を固定して、三つのペダルを繋ぎ、組み立ては終わりだ。防音性の高い部屋だと聞いているから、音を鳴らすのに躊躇はない。備え付けの椅子の高さもちょうどよく、ピアノを弾くのに不自由はなさそうだ。

 なにを弾くのかも考えないままに、Cコードを鳴らす。おそらくは誰もが聞きなれた、中央ハから始まるドミソの和音。右のダンパーペダルを踏んで音を伸ばすと、普段との響きの違いに驚く。周囲の構造が違うから当たり前と言われればそれまでだけれど、楽器は鳴らす場所によっていろいろな音を聞かせてくれる。土地そのものが、その場所の空気が、音を変えるのだ。

――これが、雨泉の音。

 この懐かしさはさすがに錯覚だろうな、と私は苦笑いをこぼした。どうも感傷的になっていけない。表現を生業にする人間にとって、故郷というのは霊薬にも等しく、それでいて猛毒でもある。膨大なイメージを得る代わりに、心の根源的な部分を揺さぶられるのだ。

 鍵盤をさっと撫ぜて、ひとつ息をつく。もとの速さで(ア・テンポ)。鼓動と呼吸を合わせながら、心を冷たく平らかに戻していく。

 「えー、なにか弾かないのー?」

 と、駄々をこねるような声が寝室から飛んできたが、私はリクエストに答えず電子ピアノの電源を落とした。それからソファに座り込んで、来るときに印刷してきたこのあたりの地図を広げる。詳細な地図ではないけれど、なにもないよりはマシだろう。

 「いまはやめとく。これからの予定を立てないと」

 「あ、さっきの話、考える気になったの?」

 寝室とリビングを隔てるふすまの陰から、彼谷穂がひょっこりと顔を出す。

 「そのために来たんだから、考えるも考えないもないよ」

 そうやって自分を追い込んで、過去から逃げ出す選択肢を握り潰した。もう、これをただの里帰りで終わらせるつもりはない。

 「ちなみに、あたしは手伝ってもいいの?」

 好きにしたら、なんて言葉が喉まで出てきて、私は口を噤んだ。そうじゃない。たぶん、いまはそれじゃいけない。

 「……手伝ってよ。彼谷穂だってただ遊びに来たわけじゃないでしょ」

 そう言ってやると、彼谷穂は嬉々としてこちらへ駆け寄ってきて、私の向かい側に座った。

 「まず聞きたいんだけど、十年前の事故のことってどれくらい覚えてる?」

 「ぜんっぜん覚えてないよ? ちーさんが事故に遭ったって聞いて、お見舞いに行った時にはもう片手がなかった、ってくらい」

 「私も同じくらいのことしか覚えてないけど……あの口ぶりだと、なにかしら私の記憶が改ざんされてるのは間違いないのかな」

 ある種の薬物の投与と、頭部を切開しない非侵襲的な電気刺激によって記憶を書き換える方法が完成したのは二十年ほど前のこと。人類が何百万年も使い続け、それでも解明できていなかった脳という『神さまの計算機』に、科学がようやく手を掛けた――そんな煽り文句の特集を、私も何度かテレビで見かけたことがある。

 ただ、実際はそれほど大層なものでもなく、正確で簡単な催眠術が使えるようになっただけのこと。あくまで外側から記憶に手を加えるだけなのだ。完全に記憶を操作することについては、脳にチップを埋め込むようなマッドな分野が先行している。もちろん、おどろおどろしすぎて実用化できていないらしいけれど。

 さまざまな臨床試験が行われ、偉い人たちの間でたくさんのやり取りがあり。その末に成立した法律によって、重度の心的外傷の治療にこの技術の使用が認められるようになった。症例は原則非公開。ただ、処置件数は年々増加しているらしいから、一般的な治療になりつつあるのだろう。

 「でも、なんで記憶を改ざんする意味があったんだろ? そんなことしたって、右手がなくなったことは隠せないのに」

 「事故そのものがひどいトラウマになった、ってことなのかな。右手をすぐに切るくらいだから、ろくな轢かれ方じゃなかっただろうし。ただ……そんなことなら、いまさら思い出す意味なんてないか」

 「そうなると、自動車事故がそもそもなくて、なにかの事件だったってことかな? あれ、そしたらあたしの記憶もおかしい?」

 「とにかくただの事故じゃなかった、って考えたほうがよさそうだね。彼谷穂のことまで決め付けるのはまだ、早いかな。嘘を教えられただけかもしれないし、自動車事故は本当にあったのかもしれない。そこはまだわからないよ」

 ただ、祖父は『彼谷穂ちゃんが無関係とは言わない』と言っていた。あの言葉を信じるなら、彼谷穂の記憶も改ざんされているのか。

――だとしたら、本当に彼谷穂をここへ連れてきてよかったんだろうか。

 今からでも、帰る? そんな言葉か喉まで出て、けれど声にはならなかった。彼谷穂のことを思いやろうとしても、大きすぎる不安が私を押し潰そうとして、それだけで手一杯になってしまう。結局のところ、私はひとりになるのが怖いのだ。なんて、勝手なんだろう。

 「どうするにも、まずは歩いて回ろうよ! おじいさんもいろいろ用意してくれたし、なにより久々の地元だし」

 彼谷穂の純粋な笑顔が、ほんの少し心に痛い。

 「それはいいけど、今日はあんまり動きたくないかな。夜行列車でこんなに疲れるなんて思わなかった」

 「疲れたなら温泉! とりあえず温泉入ろう! 話はそれからだ!」

 「……彼谷穂はぜんぜん疲れてないよね、ほんと」

 あたしはいつでも元気だよ、と言って彼谷穂は笑う。そうやって元気付けてくれていることがわからないほど私は鈍感ではないけれど、つまり、彼谷穂にもわかるほど私は落ち込んでいるように見えるのか。

 背後の窓を軽く振り返ると、寂れた町と横たわる山々に重なって、いまにも泣き出しそうなほど無表情な私の横顔が映っていた。小さな身体を精一杯まっすぐに伸ばして、ぼろが出ないように表情を塗り固めて。そんな自分の滑稽さに呆れて、思わずため息をこぼしてしまう。

 気持ちや言葉は、外に出すより押さえつけるほうが体力を使う。そんなことは重々承知しているけれど、できるかどうかはまた別の問題で。楽に生きるには、彼谷穂みたいに少しくらい不器用でいた方がいいのだ。変に器用だと、うまく気持ちを操ろうとして疲れ続ける羽目になる。

 そうやって器用に振舞える人間こそ、本当は不器用な生き方をしているのかもしれない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ