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2-2

 しばらくして部屋に現れた祖父――領家源一郎は、おおむね昔のままの姿だった。

 鉄骨を通したようにぴんと伸びた背中に、ベージュのダブルスーツ。顔つきは多少骨ばっているものの生気に満ち、五十代だと言ってもまだまだ通用しそうだ。実際は喜寿を来年に控えていて、よくよく見れば力強い黒髪にも染め残したような白髪が目立つ。ただ、その存在感は健在で、眼光に宿る意志も衰えてはいない。

 子供の時間と老人の時間は別物なのだろう。しかし、この人を見ていると、まるで私だけが十年の時間を過ごしたように感じられる。変わっていないのだ。この町と同じように、この人も。

 隣で座ったまま会釈をした彼谷穂に釣られて頭を下げそうになったけれど、すんでのところでやめておいた。それはたぶん、孫から祖父に対する態度ではない。けれど、考えなければそんなことに気づけないほど、十年の時間は重たかったのだ。血を分けた肉親が、他人のように感じられてしまうほどに。

 「やあやあ、久しぶりだなあ、千草。元気そうでなによりだ。ちょっと背が伸びたか?」

 「おじいさまこそ、お元気そうで。あと、あいにく背はずっと伸びてません」

 ひねた喋り方も変わらんな、と祖父は笑って、テーブルを挟んで私たちの差し向かいに腰かけた。そして彼谷穂に視線を向けると、わずかに目を細める。

 空気の重さが変わるより早く、彼谷穂がぱっと立ち上がって一礼した。

 「お久しぶりです、おじいさん。子供のころよくお世話になりました、笹間彼谷穂です」

 「おお、笹間さんの。いや、美人になったなあ、見違えた」

 へへへ、と愛想のいい照れ笑いをして、彼谷穂は再びソファに腰掛ける。普段から計算づくの行動なんてしないくせに、なぜか機転が回るのだ、こいつは。

 そういうことは孫に言うのが筋じゃないですか、と私がぶっきらぼうに言うと、祖父は腹の底から豪快に笑い声を上げた。

 「千草は可愛い孫娘だからなあ。いつまで経っても子供のままだよ」

 そう言ってくれるのは嬉しいけれど、いいように茶化されているような気もして、私はほんのりと抗議を混ぜた視線で祖父を睨んだ。

 「しかし、そろそろ子供だとも言っていられなくなるな。ふたりはもう二十歳だろう? 不思議だな、この前まで赤ん坊だと思っていたのに」

 「なんだかそれ、お年寄りみたいな言い方ですね」

 「みたい、ではなくその通りなんだ。これくらいの歳になると身体が老いるよりも、心の方が先に老いるようになる。外面は若そうに取り繕っても、中身はもう立派な老人だよ。こうなってくるといよいよ、自分より子や孫のことが気になってくる――だから、手紙をしたためたんだ」

 と、お祖父さまは脇に置いていた鞄を開き、宝くじくらいの大きさの紙切れをひとつ、ひらりと見せた。

 正体は見てすぐにわかった。祖父の署名捺印と、やたらと桁の多い数字。書留で送られてきたものと同じ小切手だ。ただ、額面は届いたものよりも桁が三つ多い。

 一億円。サラリーマンの生涯賃金の半分くらい、私たち学生には想像も及ばない額だ。

 「送った分は滞在費に使ってくれればいいが、本題はこっちだ。これだけの金があれば新しい腕を作って繋ぐことができる。手術を受けると決めたら、後のことは任せてくれればいい。老い先短い爺からの、最後のプレゼントだ」

 よかったねちーさん、なんて隣の彼谷穂は言っているけれど、祖父が金を渡すためだけに私をここまで呼んだはずもない。

 「……条件は、なんですか?」

 「千草は、近親の情を疑うような子だったかな」

 「十年も経てば、人を疑うことくらい覚えます」

 嫌なやり取りだな、と自分でも思いつつ、それでも祖父の瞳から視線は外さない。祖父はしばし値踏みするように私の眼を見つめて、やがて小切手を片付けてふっと息をついた。

 「いやいや、若者にはかなわんなあ。千草が考えている通り、今回の話には裏があるが、いささか繊細で個人的な問題だ。友達に聞かれたくないようなこともあるかもしれない。もっとも、彼谷穂ちゃんが無関係とは言わないが」

 遠まわしに、彼谷穂に席を外させるかどうかは私が選べ、と言っているのだろう。さすがの彼谷穂も言葉の意味に気づいて、ちらと私の方を見る。こうして、人前でなにかを選択するのは苦手だ。他人の思惑がどうしても気になって、自分の気持ちが前に出なくなる。

 「ちーさんの好きにしたらいいよ。あたし、他の家の問題にずかずか踏み込むつもりはないけど、ちーさんがいて欲しいって言ってくれるなら、ここにいたいし」

 こうやってフラットなままで委ねられるのが、一番困る。目を閉じて、深呼吸。ふたりの姿を視界から追いやって、ようやく私は自分の答えを決めた。

 「……彼谷穂も、一緒に」

 搾り出すような私の言葉に、祖父はわかった、と簡潔に応える。

 「条件はふたつ。ひとつめは簡単なことだ。私に千草の音楽を聴かせて欲しい。楽器はなんでもいいし、誰かと一緒に弾いても構わない。既存の曲でもいいし、一から作ってもいい。ただ、千草の感情がこもった音を聴きたいんだ」

 「それなら、最初から聴いてもらいたいと思ってました。この十年間のこと、おじいさまにも知って欲しいので」

 もとより、私はあまり言葉が上手な方ではないから、十年もの時間のことを話すのは至難の業だ。言葉だけではどうしても、語りきれないし、語り足りない。

 そこで私が伝えられるものは、たぶん、音楽だと思うのだ。私が積み重ねてきた時間は、音楽に詰まっているから。

 「楽しみにしているよ。それで、もうひとつの条件だが……千草の右手のことだ」

 ふと、私は義手に視線を落とした。この作り物の手のことを自分の『右手』だと考えることに抵抗がなくなってから、ずいぶんと経つ。

 「千草は、自分が右手を失くした理由を覚えているかな」

 「交通事故でひどい粉砕骨折をして……それで」

 「確かに、そう聞かされているだろう。しかし、事故の記憶は鮮明に残っているかね?」

 「意識もないうちに全部終わってましたから、なにも覚えてません。どうしてそんなことを聞くんです? おじいさまなら全部知っているはずでしょう」

 「知っているさ。知っているが、私や両親の言葉を信じてしまっていいのか?」

――ぞわり、と冷たいものが胸の中に生まれる。身体はソファに沈み、足は床についているはずなのに、世界が揺らぐ。

 「……それはつまり、みんなで私を騙しているってことですか?」

 ちらりと彼谷穂に視線を向けると、聞いてもいないのにぶんぶんと首を横に振った。まあ、当然か。こいつが嘘をつけるほど器用な人間ではないのは、私が一番よく知っている。

 「答えたところで今の千草は信じないだろう。だから、自力で真実を見つけるんだ。どうして右手を失わなければならなかったのか、なんのために取り戻すのか、結論を出して欲しい。それがもうひとつの条件だ」

 祖父は鍵を一本差し出した。特に飾りもついていない、ごくごく普通のシリンダーキー。受け取ると、なんとなく懐かしい手触りがした。

 「昔、千草たちが住んでいた家の鍵だ。家財はそのままにしてあるから、手がかりになるものもあるだろう。あとは……墓を見に行くといい。千草の右手は火葬にして、ちゃんと骨壷に収めてある」

 切断した四肢を先に葬るのはよくあることで、私の手も身体より早く墓に入っているらしい。ただ、両親が地元に戻ろうとしなかったから、この十年間お墓参りをする機会もなかったのだけれど。

 祖父が私にさせたいことも、この雨泉に呼び戻した意味も、少しずつわかってきた。けれど、だからこそわからないこともある。

 「あの……どうして今なんですか? こんなこと、私が言うのは筋違いかもしれませんけど、どうせなら十年前に治してくれればよかったのに」

 右手をまるごと作る再生医療は、なにも昨日今日に実現した技術ではない。十年前の事故後でも手術を受けることは可能だったし、祖父にはそれだけの資産があったはずだ。

 「その右手をどうするのか、千草自身に選ばせるためだ」

 どういうことですか、と問い詰める私をさらりとかわして、祖父は立ち上がった。

 「いずれ、わかることだ。いずれな――なにはともあれ、滞在を楽しんでくれ。若者を楽しませるようなものはないが、いい町だぞ、雨泉は。きっと楽想も湧く」

 そうして、祖父は背中で軽く笑いながら部屋を出て行った。

 あとに残された私は脱力してソファに身体を埋め、宙を仰ぐ。そんな私の手を取って、がんばろうね、なんて彼谷穂が無邪気に笑いかけてくるのだから、やっていられない。

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