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彼谷穂に見つかったり、窓から出られなかったり、警官から走って逃げたり。いろいろなことがあったけれど、駅にはおおむね予定通りの時間に着いた。
私たちは夜行列車の隣り合う席の切符を買って、早めに改札を抜けた。この時間になっても駅にはたくさんの人たちがいて、改札でも特に怪しまれるようなことはなかった。
生まれてはじめての夜行列車に期待や不安をないまぜにしながら乗り込むと、車内は思いがけず普通だった。たまに乗る特急と特に変わらず、寝台車両ではないからベッドがあるわけでもない。これなら朝一の新幹線で出た方がよかったかもしれないな、と思いながら座席につく。
「で、四時間くらい乗るんでしょ? どうやって時間潰す?」
座るや否や、彼谷穂が期待に満ちた目で私にささやきかけてくる。
「なにもしないよ……ちゃんと寝ないと明日がつらいし」
と言いつつも、私はとりあえずポケットから音楽プレイヤーを取り出した。流行のポップスなんて入っていないし、そもそもボーカルすらない曲も少なくない。弦楽器、管楽器、打楽器、ピアノ。さまざまな楽器が奏でる色とりどりの音が、この小さな機械に詰まっているのだ。
「あ、私も聞きたいなー」
ごねる彼谷穂にイヤホンの右側を投げてやった。自分がつけるのは左側。そもそも片耳だけで音を聴くという行為自体が冒涜的だけれど、やむなく片耳だけで聴く時は左耳を使うようにしていた。
人工物は手だけなのに、どうしてか、身体の右側全てにおいて自分の魂が希薄になっているような、奇妙な感覚があるのだ。だから、音楽も右側にだけ染みにくいように思えて、右耳だけで聴くのを避けている。
「ねえねえ、曲は私が決めてもいい?」
彼谷穂はきらきらと子供みたいに純粋な瞳で見つめてくるけれど、こいつに選曲権を渡すつもりは毛頭ない。
夢を壊されない子供は幸せだけれど、いずれ大人になる時には夢を捨てなくてはいけなくて。そのとき夢を壊すのは、近くにいる大人の責務。だから、彼谷穂みたいに大人になりきれていない人間は、周りが少しずつ汚してやらなければならないのだ。
そんなことを考えながら、私はお気に入りの一曲を選曲する。
まず最初にやってくるのは、ヴァイオリンとヴィオラの高く揺らめく音。続いてチェロが素早い忍び足で駆けていく。
「なんか、サスペンスドラマでも始まりそう。なんの曲なの?」
「ヤナーチェクのクロイツェル・ソナタ。奥さんの浮気に気づいた旦那さんが、悩んだ末に奥さんを刺し殺しちゃう曲」
クロイツェル・ソナタと言えば、大抵はベートーヴェンの曲、あるいはトルストイの小説を思い出すことが多いだろう。
ヤナーチェクの弦楽四重奏第一番『クロイツェル・ソナタ』は、このトルストイの小説に材を取ったもの。トルストイはベートーヴェンの曲にインスピレーションを受けて小説を書いたから、一概に関係がないとも言い切れない。音楽家から小説家へ、そして再び音楽家へと渡された着想のリレーだ。
第一楽章のアダージョは不安が形を持って、ひそかに、けれど足早に歩き回っているような感覚だ。負の感情が渦巻く様子をまざまざと見せ付けられる。
こういう曲を聴いて、彼谷穂は現実の残酷さに打ちのめされればいいんだよ、と思いながら、私は音楽に沈み込んだ。
「やめようよこういう暗いの。眠れなくなっちゃうよ」
一通り聞き終わってから、彼谷穂は私の手から音楽プレイヤーをひょいと奪い取った。止める間もなく選ばれてしまったのは、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』だ。
彼谷穂がこれを暗い曲ではないと理解しているのは、作曲したラヴェルにとっても本望だろう。ややこしいタイトルをつけたラヴェルにも責任の一端はあると思うけれど、この曲は亡くなった王女に贈られた追悼の曲などではなくて。ただ、ラヴェルが生きた十九世紀と二十世紀のはざまのパリからはあまりにも遠い、十七世紀のスペインへ憧れと懐古を込めた音楽なのだ。だから、そこに冷たい悲しみなどなくて、過ぎ去った時間を思う寂しさのようなものがあるだけなのだ。寂しさは、ぜんぜん暗くなんてない。
古風なシルクのドレスから伸びた細い手足が、小鳥と遊ぶようにひらひらと舞う。いまはもう、見ることも叶わない王女の踊り。そんな光景が脳裏に浮かび上がってくる。
遠い故郷を目指す回顧の道行きには、おあつらえ向きの曲かもしれない。
「なんか、思ってたより遠いなあ、地元。帰ろうと思えばいつでも帰れると思ってたけど」
私が印刷した行程表を見ながら、彼谷穂がため息をつく。この夜行列車に乗ってから四十分ほど経つけれど、目的地まではまだ四時間以上もかかる。さらにそこからバスを乗り継いで、故郷に着くころには昼過ぎになっているはずだ。
「そう簡単に帰れる場所じゃないよ。新幹線で大阪まで行くよりずっと時間が掛かるんだから」
地図を見ればさしたる距離でもないように思えてしまうけれど、山奥の町の遠さは単なる距離では推し量れない。そもそも、土地自体がやんわりと人間を拒んでいるのだから。
「それでなんとなく帰れないまま、気づいたら十年も経っちゃったねえ。みんな元気にしてるかな」
「みんな、って……あのころの同級生のこと、そんなに覚えてるの?」
「そりゃあ覚えてるよ、ちーさんは薄情だなあ」
そんなことを言って首を傾げてるから、彼谷穂もそれほど記憶がはっきりしているわけではないのだろう。
私たちがあの町を離れたのは小学四年生のころ。なにも覚えていないと言ったら嘘になるけれど、自信を持って断言できるほど明確に覚えていることは少ない。ただ、断片的に、スケッチのような記憶がばらばらと残っているだけで。
と、脳裏に浮かび上がる姿がひとつ。
「そうだ……秋沙ちゃんのこと、覚えてる? 鍛冶島秋沙ちゃん」
「あーっ、あきさん! もちろん覚えてるよ!」
彼谷穂は秋沙のことも私と同じようなあだ名で呼んでいた。いま聞いてみるとややこしいことこの上ない。
「いつも一緒に遊んでたなあ。確か、ちーさんの従姉妹だったよね。こっちの方で会ったりしてないの?」
「ううん、全然。あの町から離れてはいないみたいだけど、詳しいことは親も知らないって」
「久しぶりに、会えたらいいよねえ」
それは楽観ではなく、心からの言葉なのだろう。実際、私だって秋沙や昔の友達に会いたいとは思っている。けれど、会いたいからといって簡単に会えるものではないのだ。帰りたいと思いながら故郷へ帰れなかったように。
「本当に? 私はちょっと、会うのが怖いよ。十年も経ったんだから、秋沙ちゃんもどう変わってるかわからないし。私たちのことなんて忘れてるかもしれないよ? もしも覚えてくれてたとしても、私たちだってあの頃のままじゃないんだから。会わない方がお互いにいいのかも」
「それはないよ、絶対にない」
「……断言するんだね」
「そりゃあするよ。だってさ、夢の中で友達に毎日会ってたとしても、現実で会う必要がないとは思わないでしょ? 会えるなら会った方がいいんだよ。もしもお互いに変わってても、そこまで含めて友達だし。幻滅なんてする方が悪いんだ。友達に理想を押し付けるとか、ばかばかしいよ」
私の恐れなんて意にも介さない様子で、彼谷穂はざっくりと言い切ってみせる。
ひそかに私は彼谷穂のことを『騙されやすい王子様』なんて評しているのだけれど、その根拠はまさにこういう態度にある。正義とか善性とか、まっすぐなことを恥ずかしいほど頑なに信じているのだ。童話の世界にいたなら、年に五、六回は悪い魔女に騙されていたっておかしくない。それくらい純粋で、危うい人間で。
「きっとみんな、あたしたちが帰ってくるのを待ってるって。絶対に」
あの小学四年生の夏、右手を失った私は折りしも親の転勤であの町を去り、示し合わせたように彼谷穂の家族も引っ越した。しかも、行き先はどういうわけか同じ土地。それからも私たちは小学校から大学までずっと一緒にいる。
だから、彼谷穂も私と条件は同じだ。誰も私たちのことなんて覚えていない、歓迎されるわけもない、そんなひねくれた考え方をしてもおかしくないはずなのに、彼谷穂はそんな懸念を軽く跳ね飛ばしてしまう。その愚かしいまでの素直さに呆れながらも、ほんの少し救われてもいた。
「……そろそろ寝よう? まだまだ旅は長いんだから、体力は温存しないと」
消灯しない電車だから周囲の様子が掴みにくいけれど、夜行列車だけあって車内は静まり返っている。ささやき声とはいえ、いつまでも喋っているわけにもいかない。私たちは大きめの青いブランケットをふたりで一緒に被り、おやすみ、と一言交わして目を閉じた。
がたん、がたんという鈍い音とささやかな揺れが意識に染みこんできて、近づき、遠ざかり。シートに座ったまま寝るのには慣れなくて、私は長い間そんなまどろみに沈んでいた。