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1-2

 基本的に、人間は太陽の光を浴びて動く機械だ。

 ときたま例外もあるけれど、だいたいの人間は昼間のうちに動き回り、夜になれば電池が切れて眠ってしまう。人口密度が一平方キロメートルあたり一万五千人に迫る東京二十三区内でも、太陽が沈んで久しい深夜の人通りは少ない。夜を克服できるほど人間の蓄電効率は高くないのだ。

 「ねー、なんでそんなに急ぐのさ」

 「誰かさんとの無駄話で時間を食ったの!」

 私は時計を気にしながら、彼谷穂よりもずっと早足で歩いている。それなのに彼谷穂がそれほど離れていかないのは、単に歩幅の問題だ。ちいさいこの身が恨めしい。

 と、突然彼谷穂が歩調を速めて私の隣に並ぶ。

 「ちょ、ちょっと待った。後ろから足音聞こえない……? あ、立ち止まっちゃだめ、そのまま歩いて」

 思わず歩調を乱す私の左手を引いて、彼谷穂は私と足並みを合わせた。並んで歩くとき、彼谷穂はいつも私の左側にいてくれる。なにかがあっても、こうして生身の左手を握れるように。

 足並みを合わせて耳を澄ますと、確かに背後から近づいてくる足音が聞こえた。

 「振り向かないでね、大丈夫だから」

 不安で言葉も出ず、なにより彼谷穂に勇気付けられている自分に気づいてしまって悔しい思いをしながら、私はなんとか呼吸を落ち着けた。その矢先、こいつはあろうことかポケットからスマートフォンを取り出したのだ。

 「なに考えてるの、こんな時に携帯なんて……」

 「いいからいいから、見ててよ」

 彼谷穂はさっとカメラ機能を起動して、顔の前にかざす。どうやらインカメラを使っているらしくて、画面には私たちの背後の光景が映った。歩道には浮島のように点々と街灯が続いていて、その光が一瞬だけ背後の人影を照らし出す。

 その男は暗い青色の制服に、同じ色の帽子を被っていた。帽子の額にはきらりと光る金色のエンブレム。誰がどう見たって警察官だ。

 「まずいなあ、疑われてるかなあ。後ろから見るとあたしが小学生さらってるみたいだもんね。手まで引っ張ってるし」

 「誰が小学生よっ。彼谷穂が捕まればいいじゃない。私はその間に逃げるから」

 「ひどいっ! 親友を身代わりにするのっ!?」

 ばかなやり取りをしている間にも、警官は私たちに迫ってくる。もう少し近づけば声を掛けられてもおかしくない。身分を証明するものはもちろん持っているけれど、もし実家の縁者である寮監に確認が行けば私の行動は実家に筒抜けだ。

 両親が故郷――雨泉(あめいずみ)という町を避けていることは、ふたりが表立って口にせずともわかっていた。

 母方の祖父母は早くに亡くなっていて、父方の祖母も私が小学校に入る前に亡くなった。ひとり残った祖父と両親の関係は険悪ではなかったし、最近もしばしば連絡を取っていたようだ。それでもあの土地へ一度も帰らなかったのは、なにか土地そのものを避ける事情があるからに決まっている。祖父もふたりには知らせないつもりで私に直接手紙を送ったのだろう。

 できるなら、両親に余計な心労はかけたくない。そのためには、この状況をなんとしても切り抜けなければ。

 「ね、ちーさん、次の角からしばらく走れる?」

 「走れるけど、そんなのなおさら怪しまれるよ。こんな大荷物で逃げ切れるわけないし……」

 電子ピアノを背負った私もさることながら、私の他の荷物と自分のボストンバッグを肩からかけた彼谷穂は身軽そうには見えない。

 自分で荷物を持つ時はほとんど生身の左手を使うのだけれど、そうなると右手の義手が空くことになる。彼谷穂は私のハンデを気にしているわけではなく、単に生身の手を繋ぎたいという理由だけで私の荷物を持つのだ。本人が嬉しそうに言っていた。

 「大丈夫、逃げ切れるって! あたしを信じて!」

 信じるなんて言葉を簡単に使うから信じたくないのよ、と悪態をつく間もなく、角を曲がるや否や私たちは全力で走り出した。異変を察したのか、背後の警官の足音も駆け足に変わる。

 「なんかさっ、これっ、駆け落ちみたいだねっ! 夜中にっ、ふたりで手を繋いで走ってさっ!」

 「どうして私があんたなんかと駆け落ちしなきゃっ、いけないのっ」

 彼谷穂は全速力で走りながら、目一杯楽しそうに笑う。力の出し惜しみなんて知らないように。体力のない私は、こんな奴にはいい加減ついていけないと思いながら、ほのかに憧れを抱いてしまう。疲れるのはわかっていても、思い切り走るのは気持ちがいいから。


 走り続けていくつもの角を曲がり、追いかけてくる足音もなくなったころ、私たちは線路脇の道に出ていた。

 走りながら振り向いて追っ手のないことを確かめると、私は彼谷穂の手を離して線路脇の金網の柵に寄りかかった。彼谷穂の方もさすがに疲れたのか、両手を膝につけて肩で息をしている。

 しばらくすると周囲の空気がぴりぴりと震えて、煌々と光る電車が私の後ろを走っていった。一瞬だけ強い光が背中から照り付けて、目の前にいる彼谷穂の表情がちらりと見える。いつになく真剣で落ち着いた顔。こんな表情の時だけは、元来の凛々しさがはっきりと見えてくる。ずっと一緒にいる私でも、この表情だけは慣れなくて目を逸らしてしまう。

 「あのさ、ちーさん、もしかして雨泉に帰ろうとしてる?」

 息が荒れてちゃんとした言葉を出せず、私はこくりと深く頷いた。そろそろ聞かれるだろうとは思っていたから、驚きはしない。

 「もし、本当についてくのが迷惑だったら、あたしは駅までにしとくよ」

 「……なによ、勝手にすればいいのに。そんな気を遣うようなタイプじゃないでしょ?」

 正直に言えば、このままなしくずし的に彼谷穂はついてくるものだと思っていた。それならそれでよかったのだ。ひとりで戻るべきだとはわかっていても、不安は拭いきれなかったから。

 「ちーさんは別だよ。取り返しのつかないことになるのは、嫌だから」

 なんと言われたってついていく、と言ってくれさえすれば、諦めたふりをして手を繋げるのに。いつもは強引に懐まで踏み込んでくるのに、こんな時だけ律儀に距離を取る。

 自分から誰かに近づこうとしない私からすれば、いつも近くにいるひとが離れているように見えてしまう。彼谷穂はただ、私が歩み寄るのを待っているだけなのに。

 「そっちはどうなのよ。彼谷穂だって、あれからずっと帰ってないでしょ? 私のことなんか関係なく、雨泉には帰りたいんじゃないの」

 「帰りたいとは思ってるけどねえ。親からはあの町に帰っちゃいけないって言われてるし、無理してひとりで帰るほどじゃないよ。ちーさんが一緒なら、帰りたいけど」

 「ずるい言い方」

 「本心だから仕方ないよ」

 ついてきてほしい、という一言だけで足りるのだ。それなのに、その一言が出てこない。

 「……好きにしたら。彼谷穂がついてきても、私は嫌じゃないから」

 「そっか、それじゃあお言葉に甘えて」

 そうして、彼谷穂はあたしの手を取ってまた歩き出す。

 夜とはいえ七月の半ば。じっとしているだけで蒸しあがりなほど暑いけれど、彼谷穂の温かい手は不思議と鬱陶しくなかった。

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