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1-1

Op.1



 良家の子女ばかりが集まる寮は、魚を飼育する水槽のようなものだ。

 外側から見れば美しい箱庭だし、内側にいる魚たちは閉じ込められている意識すらない。よほど酔狂な魚でなければ、水槽のガラスに身を打ちつけることはない。触れないなら透明な壁はないのも同じ。上空に見えないアクリル板が張ってあったとして、地べたで生きる私たちにそれを知る術はないのだ。

 なんとはなしに息苦しさを感じることがあっても、寮で暮らす少女たちは心から脱出を望んだりしない。ここにいれば外敵の心配はないし、明日を生きるのに不足はないからだ。

 かく言う私も、大学の寮生活にそれほど不満を抱いているわけではなかった。もともと几帳面な性格はしていないから、食事や睡眠が管理される環境は居心地がよかったのだ。厳しい門限や消灯時間の点呼まで、とんでもなく厳格な規則がある寮だけれど、べつに破ったところで大学を辞めさせられるわけでもない。

 だからこの日、夜中に寮を抜け出すことにもさしたる躊躇はなかった。昼間のうちに荷物はまとめていたし、もう夜行列車の切符も取ってある。あとは誰にも気づかれないように、寮を脱出できればそれでいい――はずだった。

 「ちーさん、お誕生日おめでとー」

 ドアノブに手を掛けようとした、まさにそのとき。扉がひとりでに開いて、緊張感のない笑顔が廊下の暗闇の中からぬっと浮かび上がった。私よりも頭ひとつ分くらいは背が高くて、こんなに近い距離だと見上げ気味にならないと顔が見えない。

 ベージュのコーデュロイパンツに、ついさっき漂白してきたように真っ白なレースのシャツ。女性らしさの強いスタイルではないけれど、ほどよい身長と健康的な体つきはちょっと羨ましい。髪はさっぱりとした涼しげなショートカット。その中世的な顔立ちは、黙っていれば西洋の絵画に描かれた王侯貴族のようで、しかし少年のようにはにかんだ笑いが高貴さを根元から壊してしまっている。親しみやすいと言えば、聞こえはいいけれど。

 手には茎つきの造花のひまわりが一輪と、ピンクの包装紙で可愛らしくラッピングされた箱がひとつ。

 こいつが私の幼馴染、笹間(ささま)彼谷穂(かやほ)だ。

 「あ、うん……ありがと。誕生日、もう二時間しかないけど」

 「いいじゃんさ、また二時間もあるよ? 今からでもパーティーできるって!」

 「なにも消灯時間あとに来なくてもいいのに」

 消灯時間の十時を過ぎると、部屋の明かりは勝手に落とされる。点けられるのは勉強机と玄関の明かりくらいで、あとは全館まとめて真っ暗になってしまう。もちろん、私は十時きっかりに眠るような優等生ではないから、棚の上に電気ランタンを置いて夜の闇をしのいでいた。寮生の中には消灯のことを灯火管制なんて呼んでいる子もいる。

 「なんとなく、暗くなってからピアノが聴きたくなってさ。ね、なんか聴かせてよ」

 まさか自分の誕生日にプレゼントをせびられるとは思わなかった。

 「……参考までに、なにが聴きたいの?」

 「月光の第三楽章!」

 「間違っても静かな夜に弾きたい曲じゃないね……」

 ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番は、どこへ行っても『月光』と呼ばれている。ところが、ベートーヴェン本人がつけたタイトルは『幻想曲風ソナタ』というもの。後の人物による言葉が有名になって、『月光』という通称がついたのだ。さらに、その言葉はこのピアノソナタの第一楽章を指していて。他の楽章に比べて高い技量を必要とするハイテンポな第三楽章は、月光という言葉のイメージからは途方もなく乖離している。

 通称に騙され、ロッキングチェアに腰掛けてゆったりとこの楽章を聴き始めたとすれば、激しい音の波に揺らされて眠れなくなること請け合いだ。

 「それに、悪いけど弾いてる余裕もないの。これからちょっと用事があるから」

 「じゃあなんで聴きたい曲なんて聞いたのさっ!?」

 「まぁ、なんとなく気になって」

 そんなの、嫌がらせに決まっている。

 「それで、用事って? なんだか大荷物だけど、旅行なの?」

 ちょっとね、と彼谷穂の問いを軽くいなしながらも、私は内心苦々しい思いだった。夜行列車の時間までは一時間ほど。かなり余裕を持ったつもりだったけれど、ここで彼谷穂に捕まってしまったのは想定外だ。時間を食われるだけでなく、彼谷穂の好奇心に火をつけてしまうのはよろしくない。なにせ、いつも新しいおもちゃを探している子供みたいな人間なのだ。

 「しかも、なにその格好? 変装?」

 「べつに。たまには髪型変えたりするよ」

 いつもは結びもしない長い髪を空色のサハリハットの中に隠し、服はおろしたてのデニムのワンピース。夜の暗さに紛れれば、知り合いにも私と気づかれることはないだろう。なんて、寮を抜け出すのが初めてだから、変な気合を入れてしまったのだけれど。

 「ちーさんらしくないなあ、こそこそ隠れてひとり旅なんて。地図はまともに読めないし、電車の行き先も間違えるし、そんなんで旅行なんてできるわけないじゃん?」

 「うっさい。私だってやろうと思えばできるの」

 反駁だけはしてみたけれど、彼谷穂の言うことは間違っていない。ピアニストとして各地の演奏会やコンクールへ行く関係で、私は月に何度も長距離の移動をこなしている。ところが、私はどうにも公共交通機関の利用が苦手で、電車や飛行機を使うのには何年経っても慣れないままなのだ。恥ずかしいことだけれど、日程が合うときはできるだけ彼谷穂に付き添ってもらっている。それくらいに私の移動下手は深刻で。

 「ねえねえ、一緒について行ってあげよっか?」

 たぶん、彼谷穂の頭の中では思考と発声のタイムラグが限りなくゼロに近いのだろう。良くも悪くもスーパーコンピュータ並みに直情的で、愚かなのだ。

 「なんのために隠れて準備してたと思ってるの?」

 「あたしみたいなのに嗅ぎ付けられたくなかったんだよね、わかるよ」

 字面だけならひどい皮肉なのに、彼谷穂は満面の笑みを浮かべながら言い切ってしまう。こいつのこういうところが少し、苦手だ。

 「わかってるなら黙って見逃して。今回のは、私の問題だから」

 さらに食い下がってくるかと思っていたけれど、意外にも彼谷穂はあっさり身を引いた。

 「そっか。じゃあ、気をつけてね。あ、プレゼント、腐ったりするものじゃないからね?」

 そう言って私にひまわりと箱を手渡すと、彼谷穂は小走りに自室の方へ戻っていく。

 腐らないと言われたって、明日や明後日に戻ってこられるわけではないし、プレゼントは故郷に帰ってから開けることにしてかばんに詰めた。造花のひまわりの方はそれこそ腐らない。こちらは部屋のテーブルの上に置いて行くことにした。


 私たちの暮らす寮には『秘密の玄関』があって、夜中や早朝に寮を出入りする不良学生たちはこの玄関を使っている。『音楽』という大義名分を使って正当に寮から抜け出していた私は、これまで一度も秘密の玄関を使ったことなどなかった。

 一階西階段の脇には常に施錠されていない窓がある。もちろん、窓を開けても待っているのは堅牢な鉄格子だ。ところが、自然のいたずらか、はたまた先輩方の苦心の結果か、ここの鉄格子は手で簡単に取り外せるようになっていた。これが『秘密の玄関』というわけ。

 私は荷物の詰まったキャリーケースを窓の外へ出し、その上からそっと電子ピアノを下ろした。あとは、自分が向こう側へ行くだけだ。私はしっかりと壁のふちを掴んで、上体を持ち上げようとした。したのだ、けれど。

――上れない。

 窓の下端は私の目線と同じか、ほんの少し高いくらい。確かに低い窓ではないし、私の身長も十分高いとは言えない。右の義手も生身の左手に比べれば力が入らないけれど、それでも、これほどまでに上りきれないものなのか。

 何度か挑戦して踏み台が必要だと気づきつつも、必死で腕に力を入れたその瞬間、

 「ひゃっ!?」

 腰のあたりを両側から持ち上げられて、私はちいさな悲鳴を上げながらそのまま窓を上りきった。身体を安定させてすぐに振り返ると、ついさっき別れたばかりの彼谷穂がにたにたと笑いながらこちらを眺めていた。

 「……いつから見てたの?」

 「えーと、最後の方、その場でぴょこぴょこし始めたあたり」

 ジャンプで越えられないかな、なんてばかなことを考えていたわけではない。ただ、外の様子が気になっただけで。一通り飛び跳ねてから自分でもちょっとみじめな気分にはなっていたのだ。

 「手伝うなら先に言いなさいよ。心臓止まるかと思った」

 ごめんごめん、と悪びれることもなく笑って、彼谷穂は私に向けてボストンバッグを差し出した。

 「……なに?」

 「ちょうどいいところにいるから、荷物を外に出してもらいたいなーって」

 「こんな時間からどこ行くつもり?」

 「それはあたしの問題だから、ちーさんには関係ないんじゃないかなあ?」

 私は思い切り苛立ちを込めて彼谷穂をにらみつけながら、受け取ったバッグを揺らして彼谷穂の頭を小突いておいた。


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