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Op.4
音楽は、定まった形を持つことがない。
絵画や彫刻のような止まった時間を作る芸術は、理想や完成に限りなく近づくことができる。けれど、音楽は常に動き続けるもの。言わば時計のようなものだ。それも、正確な時間を刻まない時計。
演奏される場所、使われる楽器、演奏者、聴衆。音楽の時計を構成する歯車の数は膨大で、それを整え噛み合わせることは難しい。一度の演奏で理想に近づいても、次の演奏でさらに近づけるとは限らない。
だから、過去の人々は歯車の形を一定にしようとした。
古くは自動で鐘を鳴らす装置、そこから時代が進むとオルゴールが生み出され、そこからさまざまな自動演奏楽器が作られることになる。その集大成とも言われているのが自動ピアノだ。
オルゴールの音楽を操るのは職人であって、演奏家ではない。奏でられた音楽ではなく、打ち出された音楽。自動ピアノ以前の自動演奏装置に付きまとった最大の問題がそれだった。音楽の剥製は作れても、生きた音楽を留めることはできなかったというわけだ。それが完全な形で実現されたのは録音技術が生まれてからのこと。
ただ、自動ピアノは不完全ながらも自動演奏に生命を吹き込んだ。限りはあったものの、人間による演奏ならではの繊細な強弱の表現まで残すことができたのだ。その表現力に惹かれて数多くの音楽家たちが演奏記録を残したが、高品質な録音の登場によって、不完全な自動ピアノの文化は廃れていった。
ただ、自動ピアノそのものが世の中から消えてしまったわけではない。
――自動音楽喫茶「メロディー」
ネーミングセンスなんて微塵も感じさせないその店は、雨泉の町に唯一ある軽食喫茶だ。名前の通り自動ピアノを置いているのが売りで、往時はそれを目当てに遠方からやってくる客もいたのだという。ただ、今ではいつ潰れるともわからない場末の喫茶店になってしまった。
私たちは道路に面する窓際の席に掛けた。テーブルも椅子も、木でできたものは全て濃い飴色だ。フローリングの床にはつやがないけれど、不思議と傷んでいるところは少なかった。鳩の飛び出す掛け時計、アルコールランプを使う昔ながらのコーヒーサイフォン。頻繁に来ていたわけではないけれど、この店の不思議な雰囲気はよく覚えている。他の場所よりもすごく古臭くて、そしてちょっとわくわくするお店。十年経っても変わってはいないようだった。
白髪交じりの初老の店主がやってきて、水とメニューをさっと置いていく。秋沙はメニューも見ずに「いつも通りね」と一言。私はちょっと慌ててメニューに目を通し、日替わりランチを頼む。彼谷穂はそれからたっぷり五分は悩んで、カツカレーを頼んだ。
「昼ごはん、隣町まで食べに行くのかと思ってた」
「ここのこと忘れてた?」
「ううん、忘れてはなかったけど……」
そこで言葉を濁して、カウンターの方を見る。どうやら料理は奥の厨房で別の人が作っているようで、カウンターでは店主がなにやら引き出しを探っていた。さすがにストレートな言葉は言いづらい。言いづらいのだ、けれど。
「ちょっと潰れてるかと思ったよね」
彼谷穂がぼそりと私の言葉を口走ってしまう。秋沙は心底面白そうに笑って、ちらりとカウンターに視線をやった。
「だってさ、西山さん。やっぱり続いてるほうが奇跡なのよ、早く畳んで隠居しちゃえば?」
「秋ちゃんひどいこと言うなあ。これでもうちの店は雨泉のナウいヤングに大人気なんだがなあ」
ぼやあ、っとした声で店主――西山さんが笑う。しゃべり方も居住まいものんびりとした人だ。
「それ、何百年前の言い回し?」
秋沙は呆れたように言いつつも、なんとなく楽しそうだった。
「ね、西山さん、ふたりのことわかる? こっちはじいさまの孫の千草ちゃんで、そっちが笹島さんとこの彼谷穂」
「ああ、いや、どうりで見覚えのある顔だと思った。ふたりとも見違えたなあ。そうだ、千草ちゃんは今もピアノ弾いてるんだってね」
さすがにこれは不意打ちだった。「はい、おかげさまで」と言いつつ、私は目を伏せる。十年経っても私のピアノを覚えていてくれる人がいたとは、ちょっと感動ものだ。
「コンサートの映像が出たり、CDが出たりするたび、秋ちゃんがここに持って来るんだ。今じゃここの常連はすっかり君のファンばっかりだよ。ま、秋ちゃんが一番のファンだろうけど」
「ちょっと! 余計なこと言わなくていいから!」
秋沙は目の前で真っ赤に茹で上がっているけれど、こっちも同じくらい恥ずかしい。
そうやって私たちが喋れずにいるところで、彼谷穂が話題を持っていく。
「西山さん西山さん、ちーさんのピアノロールってまだ残ってます? 十年前にここで録音したやつ、できたら聞きたいです!」
「そう言うだろうと思っていま探してたんだ。これ、ちゃんとサインが残ってるよ。ちょっとしたプレミアものだね」
西山さんが取り出してきたのは、黄色っぽい巻物のようなもの。端が三角形になっていて、先端に小さな金具がついている。これが前時代のCDである、ピアノロールだ。
「あの自動ピアノもまだ動くんですか?」
「一応は店の看板だからね、いつでも動かせるようにしてあるさ」
西山さんは軽々と言ってのけるけれど、実際はそう簡単なことではない。自動ピアノは調律に加えて機械部分のメンテナンスも必要になるのだ。なにぶん古いものだから、単純に部品交換をすればいいというわけにもいかない。もしかしたら、この喫茶店の売り上げよりもピアノの維持費の方が高くついているかもしれないほどだ。
自動ピアノの見た目は普通のアップライトとあまり変わらないが、正面にがらんどうの空間があって、ここにピアノロールをセットできるようになっている。演奏中はくるくるとピアノロールが引き出されていく様子が見えるのだ。音だけでなく、なかなか見た目にも楽しい機械。
「さあ、みなさんお立会い。ピアニスト、領家千種さんの貴重な生演奏をどうぞお楽しみください」
西山さんの挨拶と共に、見えない私が演奏を始める。
モーリス・ラヴェル作曲の、『水の戯れ』。規則的に流れる八分音符に支えられて、さらさらと踊るようなメロディー。『水の戯れ』というタイトルは訳される際に変わったもので、元の意味は噴水。その名の通り、規則的なリズムの中にさまざまな水の姿が見える曲だ。"tres doux"(とても優しく)というフランス語の発想標語は、いかにも噴水の姿にふさわしい。
十年前の私の演奏は、下手をすれば今の私にはできない類のものかもしれない。自動ピアノが単純化させている部分もあるとはいえ、まるで時計の針を刻むような正確さ。鋭すぎて、正しすぎるのだ。純粋な人間にしか鳴らせない音、とでも言おうか。たとえ今の私が同じような指の運びを心がけたところで、きっと同じ音は出ない。
――端的に言ってしまえば、他人の演奏のようだった。
「これ、本当に私の演奏なんですよね?」
「ん、そうだよ。弾いた覚えがないかな?」
「えっと、そうじゃないんですけど、なんだか……なんだろう」
自分の指運びを思い出すことはできた。あのピアノに向かっていたのも間違いない。ただ、どこかが噛み合わないのだ。十年前の演奏だから、なんて理由では片付けられない、決定的な違和感。
「あのころのちーさんらしい感じがすると思うけどなあ。うまく説明できないけど、ピアノの前に座ると背筋がぴーんと伸びてさ、いつも深呼吸してから弾き始めるみたいな、すごく律儀なところが見えるみたい」
「なにそれ、最近の私が雑に弾いてるってこと?」
「や、そうじゃなくってっ」
慌てる彼谷穂を横目に見つつ、自分の考えていることが馬鹿馬鹿しくなってため息をつく。いくら私が自分の演奏のように思えなくても、彼谷穂が言うのだから間違いはない。
私よりもずっと、こいつの方が私の演奏を知っているんだから。